さかしまのジゼル
<第17回>
第3部 III  狂乱の振り写し

さかしまのジゼル <第17回>

第3部 III  狂乱の振り写し

かげはら史帆

 

「彼女は完璧とはいえない。空中に飛翔するときでさえも、彼女は不安そうに周りを見回して、自分のそばにいてくれる人を探す。足りないのは彼女の主人であり師であるペロー、つまりあの“男版シルフィード”である。われわれがかろうじて認めうる、あの優れたダンサーがいないのだ」

 ──『デバ』紙、ジュール・ジャナン

 

 終演後のフォワイエ・ド・ラ・ダンスは、息苦しいほどに熱気と紫煙が充満している。上客と女性ダンサーが交わす下卑た冗談や笑い声をやり過ごしながら、ジュールは目的の男を目で探し続けた。幾人かの紳士が娘たちの汗ばんだ脇に手を回して、耳元に一夜の誘いをささやきはじめたその頃、ようやく、ごったがえした渡り廊下から小太りの男が姿を現した。ジュールの目線に気づくと、色白の頬に子どもじみた笑窪をつくりながら近づいてくる。贔屓の女性ダンサーの姿を見つけたパトロンのように。

「僕を待っていてくださるとは、思いませんでしたよ」

 その言葉の投げかけさえも、どこか男女の駆け引きに似た粘りを帯びている。気味の悪さは相変わらずだと心の内で悪態をつきながらも、ジュールは口を開いた。

「あんたの『ラ・プレス』紙の評を読んだ」

「それは光栄です」

「だが、気になったのはそっちじゃない。……どう思った。あの『デバ』紙の評を……」

 テオフィル・ゴーティエは、目を光らせると、白い絹手袋に覆われた手で自分の顎を撫でた。

「あなたはどう思われました?」

 

 いまにも涙がこぼれそうなほどに潤んだグリジの青紫の瞳が、ジュールの脳裏によみがえった。

『ラ・ファボリータ』のパ・ド・ドゥの音楽が鳴り出す間際まで、グリジは舞台袖でジュールの手を握りしめて離さなかった。出番が終わって袖にはけたあとも、踊りのパートナーであるリュシアンはそっちのけで、両腕を広げてジュールの胸に飛びついてくる。そして踊りの最中も、ステップやジャンプをおろそかにこそしないが、ときおり助けを求めるかのように、視線を舞台袖の暗がりにさまよわせる──。

 誰にも気づかれていないだろうと思っていた。事実、客席にいるほとんどの客は、この花のように可憐な若きバレリーナを褒めそやし、彼女のオペラ座デビューを称えて熱い喝采を送っていた。

 だが、しっかりと見抜かれていた。目の肥えた批評家には。

 グリジがこんな状態に陥ったことは、今まで一度もなかった。16、7歳の少女だった頃さえも、彼女は、ひとたび本番の舞台に立てば、孤独を抱えて戦う一人前のダンサーだった。うっかり爪先立ちが崩れても、オーディションの審査員たちが露骨に退屈そうな顔をしていても、曲が鳴り終わってお辞儀をするまでは、涙をこらえて笑顔を作っていた。

 世界一の芸術の殿堂たるオペラ座の空気に圧倒されて、いつもの調子を出せずにいるのだろうか。おそらく、そうではあるまい。最たる理由は婚約だろう。

 女性は、ひとたび男の妻になると、かように変化するものなのだろうか。相手と一心同体になって、相手なしには生きられないかのようにふるまい、甘えきった微笑みを浮かべてしなだれかかる。ジュールの目から見ても、いまの彼女はこれまでとはまるで別人だった。

 たぶん、優越感を抱くべきところなのだろう。誰からも美しいと称えられる女。舞台の上で観客からの熱い視線をほしいままにする女。才能のある女。神に愛された女。紳士たちはフォワイエの独身女性ダンサーの列に彼女の姿を見つけられずに肩を落とし、婚約者がいる、それどころか子どももいるらしいという噂に胸をざわつかせ、それでもなお彼女に焦がれるのをやめられずに、毎夜劇場へ足を運ぶ。オペラ座の新女王として君臨しつつあるその女を所有しているのが、他ならぬ自分──ジュール・ペローなのだ。

「カルロッタ・グリジ嬢、悪くはないが、『ジンガロ』のほうがずっと上出来だったね」

「やはり彼女は、ジュール・ペローの存在があってこそのバレリーナなのでは」

 団の上層部やダンサーたちの間では、そんな声さえも上がりはじめていた。

「となると、やはりペローに再入団してもらわねばなりませんね」

「来シーズンの再交渉が待たれるな」

 

 自分にとって、悪くない方向に向かっているのは間違いなかった。一度は失ったと思った命運が、再び首をもたげて自分の方を見つめはじめているのをジュールは感じていた。ひょっとしたら、まだ取り返せるのではないか。そんな黒い希望が胸をもたげる。彼女がこのまま、大成功するでもなく、クビになるほどの大失敗もなく、ほどよく不調な状態を続けてくれれば。

 だが……

 

「このままでは、まずい……」

 こぼれ出たのは、バレエの美学を識る男のもう一方の声だった。

 ひょろりとした新人給仕が、『ラ・ファボリータ』の千秋楽を祝うサービスのシャンパンを配り歩いている。ジュールの顔を知らないのか、客と勘違いされてグラスを手渡された。口をつける気になれず、氷のように冷たいグラスを手で持て余す。ゴーティエは自分のシャンパンを悠々と飲み干して、一向に冴えないジュールの顔色をしばらく舐めるように見つめていた。

「ペローさん。僕の意見は『ラ・プレス』紙に書いたとおりです」ささやくように言う。「“カルロッタ・グリジは、いまやタリオーニとエルスラーの中間の位置につけている”──」

 ゴーティエの言葉を反芻しながら、ジュールはため息を漏らした。

「俺もずっとそう思っていたんだ。最初に彼女の踊りを見たときから。彼女は消え入りそうな精霊のような美しさも、人間の娘らしい生き生きとした美しさも、どちらも持っている。だからウィーンのケルントナートーア劇場で振付を任されたとき、彼女にシルフィードも村娘も踊らせようとした。もっとも、結果的にシルフィードを踊るのは彼女でなくて俺になったけど……」

「存じていますよ」

「あの最初の確信はいまも薄れてはいない。ふさわしい作品に出会えれば、覚悟さえ固めてくれれば、彼女はきっと両方を踊れるはずなんだ。……たとえば、たった一作の舞台の上でさえも」

 ゴーティエの小脇の書類鞄に目が留まる。はっとして顔を上げると、彼はシャンパンの泡が残った唇に意味ありげな微笑を浮かべて、ジュールを見返していた。

 

 

 紋章付きの黒塗りの四頭馬車から飛び降りたジュールの目の前に、エリゼ宮殿のミニチュアのような瀟洒な邸宅が現れた。

 ゴーティエの台本を手伝うことになった劇作家──ジュール=アンリ・ヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュ侯爵の邸宅だという。グリジとふたりでその壮麗な門構えを見上げていると、いまにも折れそうなほど華奢なウエストの紳士が現れて、客人をにこやかに出迎えた。口元と顎に髭を薄く伸ばしていることを除けば、まるで男装した女のようだ。袖をひるがえして優雅な会釈をすると、オーデコロンの柑橘の香りがふっと鼻に押し寄せた。

 案内された客間は、足が沈むほどに毛先の長い絨毯が敷き詰められ、モスリン織りの壁飾りや色とりどりの蝋燭があしらわれていた。本棚にはハインリヒ・ハイネの詩集が宝物のように置かれ、プレイエル製のグランド型ピアノの上には、森の泉のほとりで遊ぶ精霊たちを描いた巨大な風景画が掛けてある。まるで、パリのアーティストたちの妄想が具現化したような城だ。

 美しい男は、声までもが美しい。草稿を読む柔らかな声が、春のそよ風のように部屋を漂う。ふたり掛けのソファの上で、グリジはジュールの腕に身を寄せながらも、辺りをうかがう猫のように静かに目を光らせていた。

 

 第1幕の幕切れを告げる最後の一声が、ゆっくりと空気に溶けていくのを聞き届けた後、先に口を切ったのはジュールだった。

「なるほど。……ジゼルは心臓が弱い、という設定を新しく加えたんですね」

 ド・サン=ジョルジュ侯爵は、耳元のカールした髪を静かに揺らした。

「ええ。あなたのご助言はまったく正しい。生身の人間が死ぬには、相応の理由が必要ですからね」

 

 ──物語の舞台は、葡萄栽培をいとなむ風光明媚なドイツの村。

 ダンスを愛する美しい村娘ジゼルは、庶民の青年ロイスと愛し合っている。村はちょうど葡萄の収穫の季節を迎えており、収穫祭の女王に選ばれたジゼルは、村人たちから葡萄の枝で作られた冠を授けられて幸福の絶頂に達する。

 ところが彼女に横恋慕する村の猟師ヒラリオンによって、ロイスが実はアルブレヒトという名の公爵で、すでに大公の娘であるバチルドと婚約していることが暴露される。貴族の身分たる証拠である剣とマントをヒラリオンから突きつけられ、アルブレヒトは言い逃れの術を失う。恋人の裏切りを知ったジゼルは、そのショックから狂乱状態に陥り、もともと弱かった心臓に異常をきたして死んでしまう──。

 

「これを、私が」

 第1幕のストーリーをはじめて耳にしたグリジは、戸惑いを隠せない顔をしていた。可憐な村娘を演じるのはすでにお手の物だが、狂って死んでしまう役はもちろん経験がない。

「どうやってやればいいの……」

 そう言ってジュールの顔を見上げる。実をいうと、ジュールの方も困惑していた。ジゼルが気を狂わせて死んでいくくだりを、いったいどうやってバレエにすればいいのだろう。あらためて想像してみるが、難しい。そもそも、部外者の自分はこの作品の振付を担うわけではないのだから、頭を悩ませる必要もないのだが……。

「自分で考えてごらん」

 おざなりにそう返す。グリジはしばらく唇をとがらせて思案していたが、その瞳の奥に、だんだんと灯がともりはじめた。立ち上がると、靴を脱いで、裸足のまま絨毯の上に静かに立った。まるで幻を追いかけるように、天のどこかをうつろに見つめながらステップを踏む。

「こうすると……気が触れているように見えない?」

 ジュールも思わず、立ち上がった。「いいね。もっと頼りなげに、脚をふらつかせてみてもいい」

 口を出すつもりはなかったのに、動いているのを実際に目にすると、どんどん想像が広がっていく。「収穫祭の最中だから、村人たちがこのスキャンダルの現場を囲んでいるはずだ。心の嘆きを訴えかけるように腕を広げてみたらどうだろう」

 グリジがさっそく振りを再現する。「こう?」

「もっと鬼気迫る雰囲気で。ああ、そんな感じで」

 ふたりの様子を見ているうちに、ゴーティエとサン=ジョルジュ侯爵も椅子から立ち上がった。矢継ぎ早に新しいアイデアを出しはじめる。

「アルブレヒトの剣を取り上げて、自分の胸を刺そうと暴れてみるのはどうだ」

「髪を振り乱したら、狂女の雰囲気が出るんじゃないか」

「純真な乙女がだんだんと狂気にとらわれていく。……そうだ。それだ」

 

 その場にいる男全員が、舌なめずりしてひとりの女を見ている。グリジの身体をそっくり乗っ取って、自分たちの妄想を憑依させるように。

 いざ生身のバレリーナの肉体に物語を載せてみると、心臓が弱いという設定はどうでもいいようにさえ思えてきた。病の発作を起こしたからではなく、狂乱の踊りそのものが彼女に死をもたらしたようにも見える。

 身を放り出すように、グリジが床に倒れ込んだ。そのまま仰向けになって、ぐったりと腕を床に投げる。ジュールが駆け寄って、軽く揺さぶっても、閉じたまぶたを開かない。「ああ、素晴らしい、そのままで」ゴーティエが感嘆の声を上げる。「そうだ、アルブレヒトはその身をひしと抱きかかえて」サン=ジョルジュ侯爵も叫ぶ。「ジゼルの心臓に耳を当てるんだ」「しかしその胸にはもう鼓動の音はない」……

 

「いけるぞ」

「おお、これぞジゼルだ」

「われわれのジゼルだ……!」

 

 ふたりの台本作家のはしゃいだ声をぼんやりと聞きながら、アルブレヒト役をあてがわれたジュールは、彼女の身体を抱え起こした。

 ようやくまぶたをかすかに開いたグリジは、細い指をジュールのジャケットの襟口にからませて弱々しく握りながら、視線をうつろに天井に漂わせていた。狂えるジゼルの人格に心身が乗っ取られてしまったかのように。ジュールの全身に戦慄が走った。殺されてしまう。得体の知れない恐怖が這いあがる。男たちの抱く夢に、彼女が殺されてしまう。このままグリジを抱きあげて、この邸宅からも、彼らからも、物語からも、オペラ座からも逃げだして、世界の果てまで逃げたほうがいいのではないか、とさえ思った。

「大丈夫?」

 恐る恐るそう問いかけると、グリジは、ゆっくりとまばたきをした。ようやくジュールと目を合わせると、うっすら汗をかいた唇を小さく動かして、驚くほどに優しい声でこう返した。

「あなたは、大丈夫?」

 

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

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<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王
<第6回> 第1部 V 俺はライバルになれない
<第7回> 第2部 I 転落と流浪──1835年
<第8回> 第2部 II 救いのミューズ
<第9回> 第2部 III 新しい契約
<第10回> 第2部 IV “踊るグリジ”
<第11回> 第2部 V 男のシルフィード
<第12回> 第2部 VI 交渉決裂
<第13回> 第2部 VII さかしまのラ・シルフィード
<第14回> 第2部 VIII 最高のプレゼント
<第15回> 第3部 I 仕組まれた契約──1840年
<第16回> 第3部 II  夢見る詩人

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