さかしまのジゼル <第3回>
第1部 II 遠き日の武勇伝
かげはら史帆
バレエダンサーは深夜労働者だ。
出番はたいがい夜が更けてからになる。オペラとバレエとの2本立て上演の日は、ほとんどの場合バレエの方が後半に回されるし、オペラに挿入されるバレエ・シーンは物語の中盤以降の目玉だ。ジャコモ・マイヤベーアの『悪魔のロベール』のような全5幕もあるグランド・オペラに出演すると、舞台に立つ時間はわずかであっても、帰宅は午前様になってしまう。
ダンサーは、劇場から近いところに住むのがステータスだった。最高クラスのギャラをもらっている女性ダンサーたちは、たいがいパリ北西部のショセ=ダンタンに住んでいる。1820年にこのル・ペルティエ通りのオペラ座がオープンしてから人気が上がり、家賃も高騰しつつある芸術地区だ。ジュールの年俸でも住めないわけではなかったが、弟に学費の援助をしているし、いつ怪我をして職を失うかわからない。暮らしを派手にする度胸は持てなかった。
終演後、観客たちがオープンテラスでシャンパンを傾けるイタリアン大通りの華やぎに背を向けて、南方面へ歩きだす。辻馬車を拾いそこなった日には、セーヌ河沿いの味もそっけもない集合住宅にたどり着く頃には、酔っ払い並みの千鳥足のできあがりだ。眠気が勝てば、そのままベッドへ。食欲が勝てば、閉店間際の食堂で包んでもらったタルティーヌにかじりつく。豚の煮込みのペーストをたっぷり塗った代物だ。べたべたの脂が空きっ腹に染みる。三角に切ったブリーチーズ、冷えた固茹で卵に殻付きの牡蠣。ブルゴーニュの白ワインを開ければ完璧だ。
この程度の暮らしならば、何ひとつ困らない。
贅沢だ、と言われればそのとおりかもしれない。
チーズの最後のひとかけらを口に押し込んだ瞬間、視線を感じて身をこわばらせた。あの石膏像が、窓際の戸棚の上からこちらを凝視している。両の眼を魚のようにぱっくりと見開いて。眠気が吹っ飛ぶほどびっくりしたが、よくよく見ると、それは月の照る窓に映った自分自身の眼だった。
あのジュール・ペロー像は、結局、楽屋の隅っこに置いてきてしまった。去年踊った『スイスの乳搾り娘ナタリー』の赤いネッカチーフで顔をぐるぐる巻きにして。
ジャン=ピエール・ダンタンに訊かれるまま、とうとうと自分の半生を語ったのが恥ずかしかった。ジュールがマイムを駆使してしゃべっている間じゅう、彼は突き出た頬骨が上下するさましか見ていなかったのだ。床屋が客のおしゃべりを適当にいなしながら鋏を入れるように。「そりゃ、現代の武勇伝ですな!」「まさに革命の時代にふさわしい!」歯の浮くような言葉で相槌を打ちながら。
武勇伝。
といっても、決して話を盛ったわけでも、ホラを吹いたわけでもない。オペラ座に憧れて、13歳にして家出同然で故郷を離れ、この街にやって来たのは事実なのだから。
ジュールが生まれた1810年。
フランス南東部の街・リヨンの実家は、まだバレエとは無縁だった。
ジュールの人生最初の記憶は、母のおっぱいを知らない女の子に奪われた瞬間だった。必死で乳首に吸い付こうともがいているのに、母はジュールの唇を引き離し、額にキスをすると、ベッドの上に寝かせてしまった。ジュールが泣きながら指をしゃぶっているすぐそばで、母の乳首に吸い付いたのは、上等な絹のおくるみに包まれた女の子だった。母は家計の足しにするために、近所の富裕な家の乳母をして小金を稼いでいたのだ。
ペロー家が住んでいるのは、街の東を流れる穏やかなソーヌ川と、西の丘を荒々しく削るローヌ川の中洲を横断するナポレオン通り沿いの集合住宅だった。ただでさえ狭い建物の4階に、3世帯が暮らしていた。母は乳児の世話の間を縫ってガーゼを織り、父方の祖母はサテンを織り、父の妹である叔母は古着を修繕する仕事をしていた。日中はみな黙々と織機を動かし、針を布に通していたが、夕刻になって叔母か母が鍋に火を入れはじめると、それを合図におしゃべりが増えた。女たちは政治談義が好きだった。祖母は20年前の革命の折にリヨンを脅かしたおどろおどろしい処刑劇を語り、母と叔母は、市場で魚売りのおかみさんから聞きかじったナポレオン戦争の情況を伝えた。「ボナパルトはいま、ロシアで凍えて鼻水を垂らしてるって」「もうすぐ負けちゃうらしいよ」「おや、この通りの名前がまた変わっちゃうねえ」そう言って、3人はけらけらと笑った。
陽が昇る頃には出かけ、沈む頃には戻ってきて、女3人と子どもと粗末な豆スープの夕食を囲み、水代わりの安ワインをちびちび飲んで夜を過ごす父が、どんな仕事をしているかは知らなかった。まだ学生でもおかしくないくらいに若く、体つきは筋肉質で健康そのものだったが、おそろしく無口で、めったにふたこと以上を口にしなかった。
「兵に行かずにすんだ上に、安月給で、負い目があるんだよ」
叔母と祖母はひそひそ言いあった。どうやら父はナポレオン戦争の従軍から逃れるために、近所の町娘である母と結婚したらしい。ご時世柄、珍しい話ではない。ただ、それを表立って話題にするのは禁じられていた。「おまえが生まれたとき、父さんは誰よりも喜んでいたもんさ」──母がジュールにそう言うたび、父は、罪を黙秘する囚人のように首を垂れるのが常だった。
父の様子が少し変わったのは、3歳離れた弟が生まれた頃だった。出かけていくのが昼食の後になり、帰りは深夜になった。そして、夜食の冷えたジャガイモをほおばって寝床に入るまでの短い時間、小さく鼻歌をうたうようになった。スポンティーニのオペラ『ヴェスタの巫女』のアリアだった。
次男を産んでまた乳が出るようになったので、母はふたたび何人もの乳飲み子の世話と授乳に追われた。母はかまってくれないし、祖母が寝床で聞かせてくれるのはギロチンで人の首が飛ぶ恐ろしい話ばかりだ。弟ができたのはうれしかったが、ふにゃふにゃ泣いているばかりで、すぐに兵隊ごっこをして遊べるわけではない。
祖母が父の脇腹を肘でつつくようになったのはその頃だった。「あんた、親でしょう」「あんた、少しはかまっておやりよ」──生返事さえしない父に愛想を尽かしたのか、祖母はテーブルの下で背と膝を丸めてジャガイモの皮をちぎっていたジュールに声をかけた。「ねえ、ジュール。あんたもさ、父さんのたくましいところを見たいだろう?」
ジュールは顔を上げた。訊かれていることばの意味はよくわからない。ただ、その小さな目の奥に哀願するような光を感じ取って、うん、とうなずくと、祖母は「ほらね」と糸巻きの痕が残る赤らんだ手を叩いた。
「そうとなったら、身体を拭いて、着替えるんだよ。この子の帽子はどこだっけね」
腕をつかまれ、テーブルの下から引っ張り出された瞬間、戸惑い顔の父と生まれてはじめて目が合った。
天井にくっつきそうなほど巨大な薄べったい板が、男たちに抱えられて通り過ぎていく。
父のすりきれたジャケットの裾を握りしめて見守っていると、掛け声とともに板が裏返る。ジュールは思わず声を上げた。なんと、山の頂にそびえる美しいお城の画が描かれている。見とれていると、今度は、ジュールの背丈と同じくらいの小さな板が次々と運ばれてきた。こちらはひとつひとつに白百合の絵が描かれている。
ふしぎな場所だった。天井は、ソーヌ川沿いにそびえるサンジャン大聖堂と同じくらい高く見える。でも、窓もステンドグラスもどこにもないし、乳香や蝋ではなくガスの匂いが微かに漂っている。歩いてきた河岸通りはさわやかに晴れていたのに、ここは薄暗くて、埃っぽくて、目も鼻もむずむずする。男たちの野太い掛け声やら、荷が床に投げ出される音やらがいきなり雷鳴みたいに轟々と響き渡るので、そのたびにびっくりして飛び上がる。おまけに、野犬が甲高くいななく声まで聞こえだした。どこから聞こえるのだろうときょろきょろしていると、たちまち三拍子のうきうきするようなメロディに変わって、それが弦楽器の音だとわかった。
「お祭りが始まるの?」
問うと、父は言葉少なにこう答えた。「劇場だ」
劇場。聞き慣れないことばを舌で転がしていると、父は背丈よりもさらに長い木柱の束を引きずるように持ってきて、四角に並べだした。しゃがみこむなり、腕を振り上げて、金槌で釘を打ち付けはじめる。「ご苦労さん、家具屋のにいちゃん」そばを行き交う男たちからそう声をかけられているので、はじめて父の前の仕事を知った。
「うろちょろするなよ」
そう言われても、おとなしくできるわけがない。城や花の絵が描いてあるあのおもしろい板は、いったいどこに行ってしまったのだろう。台所でおやつのオレンジパンをひと切れ失敬するときみたいに、爪先立ちで父の背中から遠ざかると、ふいに真正面からおしゃべり声と駆け足の音が押し寄せた。視界が、一瞬で真っ白に包まれる。女の人たちのスカートだ。そう気づいて間もなく、今度は男の人たちが6、7人ばかり、一斉に駆け込んできた。ひらひらしたガウンとキュロットから、たくましい太腿がのぞいている。冬なのに、みんなひどく薄着だ。女の人さえも、足首の上まで脚をあらわにしている。あの人たちはいったい何者だろう。父に尋ねようと振り返ったら、のこぎりを手にぶらさげた年かさの男の前で、気まずそうに身を縮めている姿が目に入った。頭を何度も垂れたあと、さっきまで打っていた釘を抜きはじめている。見てはいけないものを見てしまった気がして、ジュールはまた背を向けると、さっきのおかしな格好の人たちのあとを追って走りだした。
いきなり、視界が開けた。
大きな空間に身体を投げ出されて、耳の奥がキンと鳴る。よろめきながら、辺りを見回した。建物の中なのに、広場みたいに開けている。片側には、城や花の画が描かれた大小の板。もう片側には、谷底みたいな暗がりがあって、笛や弦楽器を持った数人の男たちの禿頭がうごめいている。どうやら、さっきの音楽はここから聞こえていたらしい。よく目を凝らすと、その谷底の向こうには、椅子がぶどうの段々畑のようにぎっしりと敷き詰められていた。なぜか、どの椅子もみんなこちらを向いている。あっけにとられて立ちつくしているうちに、あのおかしな格好の人たちが20人ほど、広場の真ん中に集まって、2列に整列した。みんな脚をぴったり閉じ、手を腰に当てて、胸を張ってすましている。ジュールはうれしくなった。兵隊の行進だ! 自分も、右側の列のいちばん後ろに並んで、同じように胸を反らした。ヴァイオリンを持った若い男と、長いステッキを持った年配の紳士が現れて、先頭に立つ。ステッキがどん、と床を叩き、ヴァイオリンの弓が跳ね上がった。
ところが、始まったのは行進ではなかった。ヴァイオリンの刻むリズムに合わせて、みんなが一斉に右の足を前に出して、ひっこめる。ジュールもつられて、一緒に右の足を前に出して、ひっこめた。お次は横、次は後ろ。左の足も、同じように。右、左、右、左。前、横、後ろ。右、左、右。目の前で、長い脚がリズミカルに開いたり閉じたり。まるで母さんやおばあちゃんが動かす機織り機みたいだ。
最初にジュールに気づいたのはヴァイオリニストだった。笑いをかみころしている。ダンサーたちも振り返り、足を必死でばたつかせるジュールを見て、ふふふ、と笑いだした。ステッキの老紳士も、ほどなくジュールに目を留めた。やっぱり笑った。腰を落として、顔をのぞきこむ。「新入りくんは、ジャンプもできるかな?」
父が慌てふためいて探しに来た頃には、ジュールはリヨン大劇場のダンサーたちと一緒に、舞台上を縦横無尽に跳ね回っていた。高く、低く、また高く。草原を駆けることをおぼえたばかりの子鹿のように。
動転して追いかけようとした彼の足を、男のステッキが阻んだ。リヨン大劇場舞踊監督(メートル・ド・バレエ)のロージャのまなざしは、つんつるてんのズボンを履いたジュールのくるぶしに注がれていた。痩せっぽちの幼い身体に似つかわしくない、太く浮き上がったアキレス腱。それが地面を踏むごとに弓形にしなり、エネルギーを溜めて膨れて、爆発した瞬間に宙を舞う。
冷や汗をぬぐう父に向けて、ロージャは意味深長なひとことを口にした。
「息子さんは、お宅の暮らしを助けてくれるやもしれませんぞ」
※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載
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