さかしまのジゼル
<第18回>
第3部 IV ジゼル、または群舞たち

さかしまのジゼル <第18回>

第3部 IV ジゼル、または群舞たち

かげはら史帆

 

 作曲家のアドルフ・アダンの顔色が、ページを繰るにつれてだんだんと変わっていくのを、ジュールは目の当たりにした。手にした台本の束が、興奮でわなわなと震えている。

「これは、すぐにでも上演すべき作品だ」

「でも、次作はもう決まっているのでは」

 ジュールは問うた。カルロッタ・グリジの初の単独バレエ主演作品は『ガーンの美少女』になるとすでに団の内部で噂されていた。だが、アダンは大きく首を振った。

「こちらのほうが何倍もいい。これこそ、グリジ嬢のためにあるような作品だ」

 総裁室に向かって駆けだしたその背中を、ゴーティエとサン=ジョルジュ侯爵が追いかける。その様子をぼんやりと見送っていると、ゴーティエが駆け戻ってきて、ジュールの腕を強く引っ張った。

 パリ・オペラ座の総裁は、昨年、舞台美術家のアンリ・デュポンシェルからジャーナリスト出身のレオン・ピレに代わっていた。ジュールにとってはあまり縁のない人物だったが、ゴーティエはこの新総裁に対してこんな勘を働かせていた。「彼はリベラル派の新聞屋だから、貴族と平民が対立的に描かれるお話が大好物のはずですよ。きっとうまくいきます」

 その予想はどうやら当たったようだった。ピレは、まだ第1幕を読み終えないうちに台本から目を上げて、その場にいた5、6人の幹部たちに向けてそれを手渡した。「いい題材だ」

 ゴーティエが清書した台本が、総裁室の大きな机を囲みながら、議論され、揉まれ、新企画として急激に形を成していくさまを、ジュールはドアの脇に立ちつくしたまま不気味なものでも見るように眺めていた。どうしてみな、こんなにも熱狂しているのだろう。どうして男たちは、こんなにも欲しているのだろう。男に裏切られ、踊り狂って死んでしまう不幸な乙女の物語なぞを。

 止めさせるなら、いまのうちだ。

 そんな焦燥がジュールの脳裏で渦を巻いた。先日のサン=ジョルジュ邸での振り写しから、ずっと、腹の底に重たい塊が巣食っていた。こうやって、自分はまた新しい罪を重ねつつあるのかもしれない。ゴーティエの計略に乗ってしまったことによって。

 だが、もうどうしようもない。彼らの心にもうジゼルが棲んでしまった。スカートをひるがえし、ひなげしの花のように微笑んで、ワルツを踊る村娘が。

 

 いちど踊り出せば、誰も彼女を止めることはできない……。

 作中の設定どおりの状況が、いま、総裁室の男たちの眼球の上で起きている。ジゼルの母親のベルトは、昔からこの地に伝わる怪奇譚を愛娘に語って、ダンスを止めようとする。いわく、踊りに夢中な娘は、死んで精霊ウィリとなって、夜な夜な森をさまよいながら踊り続けるという。

 ベルトは、本当にそんな伝説を信じていたのだろうか。彼女はただ、しじゅう踊ってばかりの娘をとがめたかったのではないか。彼女の懸念は、娘の心臓が弱いことだけではない。ジゼルは天真爛漫な美少女で、村の皆から愛されているが、言い換えれば泥臭い農業生活にはそぐわない性格の持ち主だ。葡萄の収穫の手伝いをさぼってダンスをしたがり、村を訪れた大公の娘バチルドの豪奢なドレスに憧れ、プレゼントされた金鎖のネックレスにうっとりし、収穫祭の女王に選ばれて有頂天になる。地に足がつかず、いつもふわふわと夢みがちで、こんな有様では農家の嫁がつとまる女にはなれないと母親を心配させている。

 そんな浮世離れした、世の道理を知らない娘が、同じようにふわふわとした夢を追って山上の宮殿から下界にやってきた美青年の公爵と恋に落ち、彼の裏切りを知ってあっけなく死んでしまう。まるで、踊りを愛したことや、高貴な身分の青年に恋をしたことへの罰を負ったかのように。

「……振付は、ジャン・コラーリ氏ということでいいかね。あるいはジョゼフ・マジリエ君に任せるのもありだと思うが」

 総裁の声が聞こえて、ジュールは我に返った。一同が顔を見合わせながら、ぎこちなくうなずきかけたところに、別の甲高い声が飛んだ。

「ジュール・ペロー氏に、振付の一部を担当していただくことはできないでしょうか」

 声の主はゴーティエだった。彼が手をジュールの眼前に向けると、その場にいる全員の視線が集中した。

「彼はグリジ嬢の踊りの特性を誰よりも熟知し、彼女を輝かせる術を知っています。それに、第1幕のラストシーンはすでに完成されています」

 ピレは、しばらく思案するように腕を組んでいた。ゴーティエと目を合わせ、それから、ジュールの方に顔を向ける。

「デュポンシェルが総裁だった頃、あなたに最高位の待遇を提示したことがあると聞いています。それでもあなたは、契約をお断りになられたと……」

 なんと答えていいものか見当がつかず、ジュールは目を伏せた。幹部たちの艶光りした革靴がひしめく床に目を這わせながら、なんとか言葉を探す。

「あのときは……特別な事情がありまして。提示された条件が不満だったわけではありません」

「今回に関しては、クレジットにあなたの名前は載せられないですし、ギャラのお支払いもできません。あくまでも内々に、無償でお手伝いをしていただく形になります。もちろん、本作が成功すれば、次のシーズンでは契約条件の相談をすることも可能です。それでも構いませんか?」

「構いません」

 ジュールが口を開くより前にゴーティエが胸を張って答えるので、皆が笑い出して、緊張した空気がにわかにほぐれた。場がお開きになるや否や、末席に立っていたジュールは幹部たちに押し出されるように廊下に飛び出した。

 どんな顔をしてゴーティエの首根っこをつかまえればいいのか、わからなかった。この俺にタダ働きをさせるとはけしからん、か。オペラ座復帰の道を作ってくれてありがとう、か。だが、最後にサン=ジョルジュ侯爵と連れ立って部屋から出てきたゴーティエは、そのどちらも頭にないようだった。彼は涙でうっすらと眼を潤ませながら、飛びつくようにジュールの手を取って強く握りしめた。

「よかった。一緒に作品を成功させましょう」

 

 

「そう……決まったの」

 枕の向こうからそう声が返ってきてはじめて、あの決定の場に主演ダンサーの姿がなかったことに気がついた。だが、月の薄明かりに照らされたグリジのなめらかな横顔には、動揺の痕跡はなかった。降って湧いたように役をあてがわれるのは、ダンサーにとって普通のことだ。パートナー兼振付師であるジュールが、演目の内容や役柄をコントロールできていた一時期が例外なだけだった。

 重要な決定は、いつも紫煙をくゆらせた男たちの間でなされる。演目も、配役も。ダンサーたちは、いつも丸裸も同然の無防備な姿で、運命の宣告が下される瞬間を待っている。

「相手は……アルブレヒト役はだれ?」

「リュシアン・プティパになるだろう」

「そっか……」

 あなたがパートナーならよかったのに。『ラ・ファボリータ』のときには幾度となく聞いた言葉が、今回はなかった。彼女なりに腹をくくったということなのだろうか。代わりに、ジュールの肩に頭を乗せるように彼女の頬が寄ってくる。彼女の温かな十指が手首に絡まって、腕に乳房が触れる柔らかな感触があった。

 オペラ座との契約の書類を目の当たりにしたあの日から──つまり婚約した日から、グリジとは一度も関係を持っていなかった。昼間、公の場でカップルらしくあれほどべたべたしているのは対照的に、夜、マリーを隣の子ども部屋に寝かせて、ベッドの上でふたりきりになると、妙に居たたまれなくなって、早々に寝いびきを立てるふりをするようになっていた。入団して早々に、妊娠させてしまうわけにはいかない。マリーがいつ起き出してくるかわからない。疲れている。眠い。それらしい理由は山のようにあって、それを枕と一緒にベッドの上に並べていれば、言い訳としては充分だった。

「おやすみ。明日からきっと忙しくなる」

 頬にキスしながらそうささやくと、握られた指の感触が一瞬だけぎゅっと強まって、それから静かに弱まっていった。

 

 

 パリ・オペラ座の新作バレエ『ジゼル、またはウィリたち』。

 上演のための布陣は、驚くほどの速さで決められていった。

 

ジゼル役、カルロッタ・グリジ。アルブレヒト役、リュシアン・プティパ。
脚本、テオフィル・ゴーティエおよびヴェルノワ・ド・サン=ジョルジュ侯爵。
音楽、アドルフ・アダン。
衣装、ポール・ロルミエ。
振付、ジャン・コラーリ・ペラチニ……

 

 表立って、ジュール・ペローの名前はない。だが、彼がジゼルのソロやパ・ド・ドゥの振付を担うことは、いつの間にか団のなかで周知の事実となっていた。最初の稽古の日を迎え、ジュールがフォワイエ・ド・ラ・ダンスに行くと、すでにバーレッスンを終えて準備を整えたグリジとリュシアンが控えており、部屋の端の椅子に腰を下ろしたコラーリがジュールに向けて、立場を譲るように手を伸べていた。

「まずは第1幕、第4景。ジゼルが藁葺わらぶきの家から出てきて、アルブレヒトと逢い引きする場面からだ」

 リュシアンは、誰の目から見ても明らかなほどに怖気づいていた。『ラ・ファボリータ』でグリジとすでにパ・ド・ドゥを踊っているのに、いまは目を合わせることさえせず、腕を組むのもおっかなびっくりといった調子だ。アダンの指示にしたがって、伴奏ヴァイオリンが楽しげに恋の喜びの3拍子を奏ではじめたが、ステップを踏む動きがまるで音に合わない。

「リュシアン、もっと軽やかに、音をよく聞いて」

 ジュールはそう声がけするだけにとどめた。リュシアンがこうなってしまった原因が振付師の自分にあることはよくよく承知していた。彼から見たジュールは、オペラ座との契約に失敗し、パートナーまでも若い男に奪われ、嫉妬の炎を燃やしている年上の男でしかないし、実際のところその全てが妄想とはいいきれない。おびえるのも当然だ。

 だが、グリジの方は我慢がならなかったようだ。第1幕のデュエット部分の振り写しをひととおり終えて、ジュールが休憩の指示を出そうとした矢先、彼女はつかつかとリュシアンの目の前まで歩み寄って声を上げた。

「ねえ、真剣にやって」

 初主演を控えた女性ダンサーが、すでに団のトップクラスの地位にある男性ダンサーを叱りつけている。不穏な気配に感づいたのか、楽屋に控えていた村人役の群舞のダンサーやスタッフたちがぞろぞろと野次馬にやってきた。まるで意に介した様子もなく、「私の踊りを見て」と言い放ったグリジは、伴奏ヴァイオリニストに指示を飛ばした。「もういちど、第13景を演奏して。ジゼルが彼の裏切りを知ってしまったところから」

 そう言うやいなや、彼女は曲が始まるより前に、ひとつに束ねていた金褐色の髪の毛を両手でぐしゃぐしゃに崩した。キンポウゲの模造花の髪飾りが外れて、床の上に跳ね落ちる。それを無惨に足で踏みつけ、涙をほろほろと流したり、引きつけのように笑いだしたり、すぐ隣にアルブレヒトがいるかのようにうっとりと流し目をしながら、ワルツのステップを踏む。

 群舞のダンサーたちは、まだこの新作のあらすじをほとんど聞かされていなかった。笑い、泣き、また笑いながら、脚をよろめかせて踊る彼女のその姿は、何かのおふざけのように見えたのだろう。ざわめきと共にかすかに笑い声さえも上がったが、すぐにそれは止んで、凍るような沈黙に取って代わった。踊っているうちにアルブレヒトとぶつかり、すがりつくように彼の手を取って胸に押し当てるが、ひどくおびえた表情を浮かべてまた手を離し、今度は飛び去る蝶々のように両腕をはためかせて宙を舞う。地面に落ちた剣を拾い上げ、自分の胸に刺そうとするが、それに失敗すると、またひどく恍惚とした表情になり、花弁が開くようにおっとりと首をかしげて踊る。かつての幸福な恋の記憶をたどるように。消え去った夢を真実だと思い込んでしまったように。そうかと思うと、ふいに裏切られたショックに叫び、涙が飛び散るほど激しくジャンプし、周りで彼女を見つめるダンサーたちに助けを求めるように腕を伸べる。

 ジュールもまた震撼していた。もはや、これまでのグリジではない。『逢い引き』で元気な村娘役を踊っていた頃のグリジでも、公の場でジュールの胸に甘えきっていたつい先日までのグリジでもない。踊りに憑かれたジゼルの魂が、そっくり彼女に乗り移ったかのようだった。

 グリジの踊りをうろたえながら見つめていたリュシアンが、ふいにかすれた声を上げた。

「そうか……わかったぞ」狂乱の踊りを目で追いかけながら、納得するように何度も小さくうなずく。「踊るのと同時に、芝居をしなきゃいけないんだ……」

 

 天啓に打たれたように立ちつくすリュシアンの横で、グリジはすでに最後の断末魔のような狂乱の踊りを終えて、床に倒れ伏していた。慌てて駆け寄ろうとしたジュールの耳に飛び込んできたのは、微かなすすり泣きの声だった。

「かわいそう」

 そうつぶやきながら、群舞の若い女性ダンサーたちが泣いているのだった。詰め物を入れてふくらんだ靴の固い爪先に、ぽたぽたと涙を落としながら。

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

Back Number

<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王
<第6回> 第1部 V 俺はライバルになれない
<第7回> 第2部 I 転落と流浪──1835年
<第8回> 第2部 II 救いのミューズ
<第9回> 第2部 III 新しい契約
<第10回> 第2部 IV “踊るグリジ”
<第11回> 第2部 V 男のシルフィード
<第12回> 第2部 VI 交渉決裂
<第13回> 第2部 VII さかしまのラ・シルフィード
<第14回> 第2部 VIII 最高のプレゼント
<第15回> 第3部 I 仕組まれた契約──1840年
<第16回> 第3部 II  夢見る詩人
<第17回> 第3部 III  狂乱の振り写し

最新情報をチェックしよう!