さかしまのジゼル
<第2回>
第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年

さかしまのジゼル <第2回>

第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年

かげはら史帆

 

「これが……俺?」

 素っ頓狂な青年の声が、パリ・オペラ座のバックステージにむなしく響いた。

 彫刻家のアトリエに足を運んで、何度も何度も、デッサンに応じた。その結果として今朝、劇場に届けられた石膏像を、彼は呆然と手にとった。

 実際の頭よりも、ふた回りほど小さい。だが、かわいらしいのはサイズだけだ。つぶれた頭。出っ張った頬骨。ぼってりした鼻。大きすぎるほど大きな目。頭蓋が、両側からぐしゃっと押しつぶしたようにひしゃげている。『フランケンシュタイン』に登場する怪人だって、もう少しエレガントな姿かたちをしているに違いない。

 首や胸元だけは洗練されて美しかったが、胸像の首から下なんていったい誰が見るだろう。現に、ここにいるオペラ座の団員たちさえも、箱から現れたこのジュール・ペロー像を見るやいなや、膝を折って笑い崩れた。

「おまえ、ほんと、ネタに恵まれてるなあ」

 運悪く、今日はグランド・オペラの上演日。劇場裏の中庭に面した楽屋口には、参加のキャストやスタッフが集まりだしていた。女性ダンサーも男性ダンサーも、歌手も、オーケストラ団員も、道具係も、照明係も、衣装係も、覗き込んでは大笑いする。

「それ、それ。そのびっくり顔が特にそっくり」

「ジュール、もっとびっくりして!」

 ジュールが絶句している様子が、なおのことおかしいらしい。同僚たちがふざけてキスをする。ジュールの頬骨に、ついでジュール像の頬骨に。

「カッコいいぜ、俺のジュール」

「素敵よ、あたしたちのジュール」

 容赦のない褒めことばと、とびきりの笑顔に囲まれると、自分も相好を崩してへらへらとふるまうしかなくなってしまう。とても言えやしない。この作品が気に入らないだなんて。ましてや、「傷ついている」だなんて。

 ただひとり──ジョゼフ・マジリエだけが、気の毒そうに、像とジュールの顔を見比べている。ジュールより9歳年上で、もう30歳を過ぎた大ベテランだが、今日もその美貌は輝かんばかりだ。ウエストを絞った流行のジャケットが似合う、すらりとした長身。美女のごとき愛らしく小さな唇と、つややかな薔薇色の頬。眉は優美なアーチを描き、長い睫毛が憂いに満ちた陰影を落としている。同情に満ちたまなざし。それが余計に心にこたえた。

 

「ジュール、ジョゼフ。男子のレッスンを始めよう」

 気品と威厳に満ちたバスの美声が廊下に響き、騒ぎがぴたりとやんだ。オーギュスト・ヴェストリス先生が、1輪の薔薇を差し出すような優美な手つきで、ふたりをフォワイエ・ド・ラ・ダンスに促している。その呼び声に助けられて、ジュールは人の輪を崩しながら老師のもとに駆け出した。

 “届け物”として事務方から手渡されてしまった以上、引き取らないわけにはいかない。廊下ですれ違うみんなの視線が痛い。石膏の首を後ろに向けて胸に抱きしめたが、本当に隠したいのは自分自身の顔だった。

「どうしてモデルなぞ引き受けた? この作者は辛辣な諷刺彫像家として有名なのに」

 ヴェストリス先生のささやきに、ジュールはますます真っ赤になった。モンマルトルにあるジャン=ピエール・ダンタンの新しいアトリエには、石膏やブロンズの胸像がずらりと並んでいた。どれも当世の有名人ばかりで、しかもギリシア神のような美と威厳をたたえている。有頂天になってしまったのが恥ずかしかった。きっとダンタンは、アトリエの間仕切りの奥に自分の真の仕事を隠していたのだ。モデルたちの見目の欠点を痛烈に皮肉る作品たちを。

 そういう自分だって、行きつけの食堂で、ランチのおともに諷刺新聞をめくって、洋梨そっくりのルイ・フィリップ王を見て大笑いしたことがないわけじゃない。でも、この石膏像と比べたら、下ぶくれの洋梨なんてずっとマシだ。洋梨をかじり散らかしたあとの芯みたいなこの顔に比べたら──。

「ここのところ、主役がもらえなくて、自棄になっていて……」

 老師は短く笑って、ジュールの肩にやさしく手を置いた。

「きみは、真面目なんだか向こう見ずなんだか……」

 ヴェストリス先生は、このル・ペルティエ通りの劇場の落成よりはるか前からパリで名を馳せる、伝説のバレエダンサーだった。父親のガエタンもこれまた著名なバレエダンサーで、親子そろって「舞踊の神」とも呼ばれた。引退してからは後進の育成に力を注いでいる。ジュールにとっては最大の師であり恩人だ。往年の大スターたる彼の後押しなくしては、フランスの一地方出身の若者が、このパリ最高の芸術の殿堂に立つ道は開けなかっただろう。

 

 しかしそんな師も、立場は同じ雇われの身。ジュールの願いを何から何まで叶えてくれるわけではなかった。

「ところで例のお願い、“社長”には応えてもらえそうですかね?」

 もう何度目かわからないその質問に対しては、いつも肩をすくめるばかりだった。

「すまないね。口添えしてみてはいるんだが」

 

 

 ヴァイオリニストが弓を跳ね上げた瞬間、オペラ座の2人のトップ・ダンサーが宙に舞った。

 ジョゼフ目当てでレッスンをのぞきに来ていた女性ダンサーたちの視線が、にわかに自分の方に集中する。なんとも爽快な一瞬だ。

 王子さまや貴公子にはなれっこない。でも、小鹿さながらの高く軽やかなジャンプや、投げ独楽ごまさながらの高速のターンとなれば圧勝だ。ジョゼフが1回転のターンを優雅に終えて花のような微笑みを浮かべる横で、ジュールは剣を突き上げるような鋭さで2回転を決め、着地したのもつかの間、素早く脚を打ち付けるアントルシャ・カトルを即興でトッピングする。

 とにかく動き回れ。

 それは、パリに出てきて間もない10代の頃、ヴェストリス先生から最初にもらった助言だった。

「正直に言おう。きみは、イケメンとはいいかねる。背も低いし、脚も短い」

 往年の大スターはなかなかに辛辣だ。しゅんとしていると、彼はジュールの縮まった肩に優しく手を置いた。

「でも、それを感じさせないようにする方法はある。とにかく動き回るんだ。跳んで回ってまた跳んで、超絶技巧を見せつけろ。顔なんか目に入らなくなるくらいに」

 無心でぐるんぐるん回っていると、実際、顔なんてどこかに飛んでなくなってしまいそうだった。顔だけじゃない。頭も腕も脚も、この世のものじゃなくなって、ブンと音を立てるただの渦巻になる。気持ちがいい。渦巻、渦巻、跳んで、飛んで、また渦巻。跳ねるごとに世界が上下し、回るたびに円いパノラマが眼前に広がっていく。

 ──このまま、本当になくなっちゃった方がいいのかな。

 降りたくない。止まりたくない。身も心もそう願っているのに、ヴァイオリンは非情にも最後の一音を強くかき鳴らした。第5ポジションで鮮やかに着地する。眼に入り込んだ汗をぬぐい、あたりを見回した頃には、ギャラリーの視線は優雅にお辞儀をするジョゼフの方に移っていた。

 

 

「あ、“社長”だ」

 野次馬の女性ダンサーのひとりが、小さく声を上げた。指差した先にいるのは、オペラ座総裁のルイ・ヴェロンだった。舞台口から現れるなり、フォワイエにたちこめる熱気に顔をしかめ、椅子の上に置き忘れられた舞台用の朱色の扇を拾い上げてあおぎだす。肥っているからか、踊ってもいないのにジュールやジョゼフよりも汗をかいている。

「男子のレッスンを見に来るなんて、珍しい」

「新作の配役でも考えてるのかな」

「そういえばジュール、またギャラアップを交渉してるらしいよ」

「もうけっこう貰ってるんじゃないの? 男子のなかじゃトップだって聞いたけど」

「ほらさ。もっと貰えてる人もいるわけじゃん。“彼女”とか、さ」

 ふーん、と、みな一斉に鼻を鳴らす。

「ま、パトロンも滅多につかないもんねえ、男の子は」

「でもさ、男でこの仕事ってよっぽど好きでやってるわけでしょ。その気になれば、まともな昼職がいくらでもあるわけで」

「そうそう、あたしらと違って、ね」

 

 そのとき、娘たちの背中をそよ風が撫ぜた。

 ひそひそ声をやめて、乙女たちは一斉に振り返った。楽屋口に至る廊下の彼方から、馬の蹄のようなコツコツという音が近づいてくる。

「御機嫌よう、みなさん」

「……御機嫌よう、マリー」

 慌てて通り道を空ける彼女たちの脇を、背の高い女性ダンサーが、父親に肩を抱かれながら通り過ぎていく。長いガウンを羽織ったほっそりとした背中も、柳の枝のような腕や脚も、成長を持て余した14、5歳の少年のようだ。しかし、天井に反響する高い足音と、男子のレッスン中に悠々とフォワイエを横切って舞台口に向かうその貫禄は、パリ・オペラ座の女王にふさわしい。彼女が鳴らしているのはヒールではない。サテン製のサンダルの足裏全体に敷かれた固い革だ。

 細い足首をさらにきつく締め上げる2本のリボン。爪先を補強する詰め物。その拷問器具も同然の魔法の靴こそが、彼女──マリー・タリオーニを自他共に認めるスター・バレリーナに押し上げた。

 けれど、それだけが理由の全てでないことはみなが知っていた。

 

「ま、でも、ダンサーにとっていちばん大事なのは……」

 タリオーニの背中を見送る娘たちの声が、ひとつに重なった。

「実家が太いこと、だよね」

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

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<第1回> イントロダクション──1873年

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