さかしまのジゼル <第9回>
第2部 III 新しい契約
かげはら史帆
「この子を、パリ・オペラ座に……」
穏やかな波音が寄せる長テーブルを前に、勝機をつかんだジュールは泰然とうなずいた。
「わが家は歌手一族ですの」「イタリア・オペラこそが芸術の至宝で」「グリジ家としての誇りが……」レストランの外壁が震えるほどのフォルティッシモでそう訴えていた一同が、水を打ったようにおとなしくなるのだから、“天下のオペラ座”のカードは最強だ。好天に賭けて、サンタ・ルチアの港沿いのオープン・テラスの席を選んだのは正解だった。背後からゆっくりと昇るナポリの太陽が、味方をしてくれている気がした。きっといまの自分は、頭の後ろに、聖人のごとき光の輪をしたがえているに違いない。
「バレエに専念し、私の指導に従うのであれば、きっと大いに可能性はありましょう」
「カルロッタはミラノのバレエ学校で特待生でしたわ。まだ指導を受ける必要がありますの?」
「群舞としての能力はすでにあります。しかしオペラ座の頂点を目指すのであれば、さらに特別な訓練が必要です。それに、舞台経験も積まねばなりません」
それにしても、なんと迫力たっぷりの面子だろう。「家族が、先生と話したがっているんですけど……」グリジがそう言うので、なんとなく父親がやって来るものと思っていた。ひょっとしたら、タリオーニ家のようなステージ・パパなのかもしれない。
ところが肩をそびやかしてレストランに現れたのは、揃いも揃って貫禄のある女たちだった。カルロッタのいとこであるメゾ・ソプラノ歌手のジュデッタと、ソプラノ歌手のジュリア、そして歌手の卵である姉のエルネスタ。歌うために作り上げられた堂々たる体格の女王が3人、舞台衣装かと疑うほど艶やかな濃黄や朱色のドレスに、大ぶりのブレスレットをじゃらつかせて現れたので、ジュールは目を点にした。最後にグリジと腕を組んで現れた母親も、彼女たちよりは一回り小さいが、褐色の太い眉をいからせてジュールに睨みをきかせている。
「あの、ご主人は……」
思わず出たことばに、母親はそっけなく返した。
「鬼籍です。生前はミラノで測量技師をしていました」
──幽霊の父親、か。
5人の女たちがずらりと一列に並ぶ長テーブル。もし父親が存命だとしたら、彼はいったいどこに座っただろう?
ジュールの脳裏に、故郷の父の力なく丸まった背中のシルエットがよぎった。
先ごろのリヨン滞在の折には、意を決して10数年ぶりに実家を訪れた。父はその後もなんとかリヨン大劇場で働き続けて、舞台係のリーダーにまで昇格したと聞いたが、それを教えてくれたのは叔母で、当人は相変わらず覇気のないおとなしい男だった。ジュールがかつての家出を詫びて、今後は弟の学費だけでなく生活費も仕送りしたいと申し出ても、是とも否ともつかないくぐもった声を喉から出すきりだった。
「ああ見えて、おまえのことを誇りに思っているんだよ」
母はそう言ったが、とてもそんな感情らしい感情を持っているようには見えなかった。
グリジの父も、ひょっとしたらあのような男だったのかもしれない。
長い爪で牡蠣や海老の殻を剥いて豪快にほおばりだすグリジ家の女たちを前にすると、末席にちょこんと座ってトマトのマッケローニを黙々と口に運んでいるグリジは、なんとも小さく、弱々しく見えた。海の幸に舌鼓を打ち、ふたたび多弁になった女たちのおしゃべりに耳を傾けているうちに、一家の内情がのみこめてきた。すでに一流歌手になったいとこ2人はさておき、姉のエルネスタは興行主アレッサンドロ・ラナリのツアーに連なってようやくギャラらしいギャラを貰いはじめたばかりだという。つまりこの母子家庭は、父親が亡くなって以来、わずかな遺産とカルロッタの群舞の給与によって維持されてきたようだ。
いまは暮らしのためにバレエで稼ぐのもやむを得ないが、いずれは歌手の道に戻らせる。それがグリジ家の総意だった。
「でも、オペラ座のプリンシパルになれると言われたら、あたくしたちも文句のつけようがないわねえ」
ひときわ張りのある声で言ったのは、ジュリアだった。駝鳥の羽根のように巨大な扇を口元にそよがせながら、隣のジュデッタに同意を求めだす。
「この“有名なペロー”さんが、カルロッタを見初めてくれるのなら、悪くないんじゃないかしら」
「ね、あたくしもそう思うわ」「でかしたわね」「ふふふ」
なんだか空気が妙だ。ジュリアがジュデッタを小突き、ジュデッタがエルネスタを小突き、そしてエルネスタが母を小突く。小突く相手がもういない上座の母は、威嚇するような低い咳払いをひとつして、それから、ジュールの前に顔を突き出した。
「マエストロ・ペロー。うちの末娘の面倒を見たいと。そうおっしゃるのね」
「ええ、必ずやお嬢さんを一流の……」
「それは、男としても責任をとってくれるということね?」
「えっ」
絶句しているジュールの前に、女歌手たちの大爆笑が降ってくる。ナポリの街の突端の要塞たる卵城。そのかなたに青々とひろがる地中海と空とヴェスヴィオ山。真昼のランチ・テーブル。ぴちぴちと鳴るムール貝のソテー、巨大なタコの網焼き、地元産のオリーブオイルをたっぷり注いだモッツァレラ・チーズ。積み上げられた牡蠣の殻の塔の向こうにいるグリジ。彼女がフォークを皿の上に取り落とし、赤い頬をますます赤くしてうつむいているのを見て、あっけにとられた。ジュールの頬にまで熱がのぼっていく。
まだ、子どもだ……。
自分に言い聞かせた言葉が、春の陽光と笑い声の渦にあっけなく呑まれていく。勝手に注文された白のカンパーニャ・ワインが、汗をかいたグラスになみなみと注がれる。ジュールに握手と抱擁を求める母親。『セヴィリアの理髪師』のフィナーレを大声で歌い出すいとこ姉妹。妹の額に何度もキスするエルネスタ。港で釣り上げられたイワシのように口をぱくぱく開閉するジュール。席の並びがこうでなければ、周りの客からは婚礼の祝宴のように見えたことだろう。
「サン・カルロ劇場との契約は、今シーズンで解約しよう。いいね」
はい──と、うつむいてはっきりと見えない唇からかぼそい声が返ってくる。その様子を見やって、ジュールは小さくため息をついた。
早めにあの家族から引き離して、イタリアの外に出るのが賢明だ。そうジュールは考えていた。パリ・オペラ座への好条件での入団を目指すならば、ヨーロッパの他の劇場でキャリアを積ませるのが近道だった。ロンドンのキングス劇場なら、自分のパートナーとして連れていけば、パ・ド・ドゥの1曲くらいはすぐに踊らせてくれるだろう。
あと1、2シーズン、ナポリにとどまって、稽古に集中するという案もなくもなかった。けれど、ここに居続けたら、あの女たちの圧に彼女が負けてしまう気がした。オペラ座という言葉を出したら納得してはくれたものの、彼女たちは一家の末っ子の成長を気長に待てずにいるように見えた。下手をすれば、やっぱり歌手になれと連れ戻されかねない。
それにしても、家族との面会の日以来、グリジはすっかりおとなしい。出会った日に見せた若い娘らしいつっけんどんな態度はもう跡形もなく、ジュールが用意した特別レッスンを粛々とこなす。歌の練習に取られていた時間は語学の勉強にあてるようにと言うと、こくりとうなずいて、楽屋やレッスン室の隅っこで英語とフランス語の辞書を広げている。思うところがあったのか、タリオーニ風のシニヨンもやめて、肩甲骨まである褐色混じりの金髪をシンプルに1つ結びにするようになっていた。
それでいて、同僚の群舞のバレリーナたちと合流すると、先輩や老教師に怒られるくらいにかしましい声をたてておしゃべりに興じている。あれだけ元気なら、大丈夫だろう。そう安心したのもつかの間、ジュールは妙なことに気がついた。その同僚の娘たちと廊下や舞台袖ですれ違うたびに、くすくす笑われるのだ。ジュールの顔をちらちらと見やりながら、小さく肩を寄せ合って。
パリを出て以来、その手のあざけりのまなざしは無縁だった。だが大人と違って、若い女の子は正直だ。男の地位や肩書なんて、敬意を払うどころか、軽蔑や物笑いの対象かもしれない。娘どうしの輪の中心で、自分の陰口を言いたてて、瞳をきらきらさせて笑っているグリジを想像すると、憤りとも失望ともつかない暗い影が心に落ちた。
「男としても責任をとってくれるということね?」
そのことばを聞かされた夜、ジュールは一睡もできなかった。ついに、わが人生にも春らしい春がやってきたのか。グリジのウェーブのかかった髪が、その髪の垂れた乳白色のうなじが、トマトソースで汚れた小さな唇が、恥ずかしそうに赤らめた頬が、甘美な夢として押し寄せる。公私ともに自分のものになるのか、あの娘が。
しかしいざ翌朝、サン・カルロ劇場の楽屋口で、彼女の青ざめた、怯えの混じったおずおずとした会釈に出くわすと、一晩の昂奮はあっけなくしぼんでいった。
──そりゃ、そうだよな。
ジョゼフ・マジリエのような貴公子然とした美男ならさておき、どこの10代の女の子がこんな醜男と結ばれたいと思うだろう。目的を忘れるな、とジュールは自分を戒めた。9つも年下の娘に色惚けしている場合じゃない。目指すはオペラ座、ただそれだけだ。彼女を導く親切で人の善い師であり、ダンス・パートナーであれ。間違っても、それ以上を望んではいけない。
ピルエットを支えるために彼女の腰に手を当てて、肉がだいぶ落ちているのに気がついた。ジャンプやステップも、たった1ヶ月ほどで、天を縫うように軽やかになった。レッスン量を増やして筋肉がついてきたのもあるが、腰まわりや二の腕や胸のふくよかさが取れて、やっとダンサー仲間らしく見えてきた気がする。正直なところ、ほっとした。
これなら、邪心抜きでやっていけるだろう。つとめて事務的に尋ねる。
「だいぶ痩せたね」
「はい」また顔をうつむかせる。「頑張りました……」
「無理はしすぎないで。食堂が閉まる前に、ランチに行っておいで」
グリジの面倒を見るかたわら、自分の練習もしなければならない。半年前に痛めた左足はもうすっかり快調だった。軽くジャンプするたび、アキレス腱から腿の裏まで、筋が張りたての弓のように豊かにしなるのを感じる。『ラ・シルフィード』のジェームズのソロを踊り始めた矢先、青く澄みきった窓ガラスにグリジのシルエットが反射しているのに気がついた。早く出ていけばいいのに、ドアに片手をかけたまま、ジュールの背中をじっと見つめている。
「先生のお部屋に行っちゃだめですか?」
「え?」もう踊りに集中していたので、半ば上の空で返した。「なんで?」
異変に気がついたのは、1曲さらい終えたあとだった。汗をぬぐって顔をあげると、ガラスの向こうにグリジの姿がまだある。しかも、泣いている。細くなった肩を鋭角にこわらばせ、ショールから透ける鎖骨を激しく上下させながら。驚いて振り返る。ジュールが慌てて口を開いたのと、彼女が両手で顔を覆いながら叫ぶように問うたのは同時だった。
「先生。やっぱりタリオーニさんのことが忘れられないんですね?」
ぽかんとして、泣きじゃくるグリジを見つめる。「えっ……え?」情けないほどかすれた声が出る。
「メートル・ド・バレエが言ってました。先生はオペラ座にいた頃に、タリオーニさんと付きあってて、……離れ離れになったいまでも愛しあってるって。……先生が踊りたいのは、……タリオーニさんだけだって」
途切れ途切れのグリジの言葉を、なんとか拾い聞きして、フランス語に直して、またイタリア語に戻す。何度か行き来して、やっと、聞き間違えではないとわかった。そして仰け反った。
「ない、ない、それは絶対ない!」
──あの人が、俺なんかを相手にするわけがないじゃないか。
自嘲の念がこみあげたそのとき、グリジの髪が彗星のように尾を引いて視界いっぱいにまたたいた。一瞬のうちに、彼女はジュールのもとに駆け寄り、肩に小さな顔をうずめて、4、5歳の子どものようにしゃくりあげていた。
「それなら、なんでジェームズなんて踊るんですか?」
「なんでって……?」
話を聞いているうちに、だんだんと事情がつかめてきた。たぶん、メートル・ド・バレエのサルヴァトーレ・タリオーニに、ジュールの思惑を感づかれたのだ。グリジを団から引き抜いて、近いうちにナポリを出ていくつもりだと。だから彼は、自分の姪をネタに使って、牽制のためにグリジに嘘を吹き込んだのだ。
「すまない」なぜ謝っているのか自分でもわからないまま、ジュールはグリジの肩に手をかけた。「きみもきっとシルフィードが似合うから、いつか一緒に踊りたいと思っているんだ。そのために練習していたんだよ」
「それなら、私、先生のお部屋に行ってもいいですよね?」
「どうして部屋に──」
問いかけようとして、ジュールはにわかに口をつぐんだ。
『ラ・シルフィード』の冒頭。森に棲むシルフィードは、農夫の青年ジェームズの部屋にしのびこみ、その寝顔に恋をして、かわいらしい踊りで彼を誘惑しようとする──。
ただのおとぎ話として見聞きしていたあの物語が、現実の色彩を帯びていく。
なぜ、シルフィードは青年を誘惑するのだろう。青年の美しさに一目惚れしたから、というのが物語上の設定だ。
けれど、もし、その青年が憧れるに足る容姿でなかったとしたら──?
濡れそぼった長い睫毛に抱かれた青紫色の瞳。その中心に、突き出た不格好な頬骨が大きな影となって映っている。それがジュールを冷静にさせた。16歳の少女が、こんな醜男との関係を望むなんて絶対にありえない。
別の想像が頭に這い寄ってくる。ひょっとして、あの一家の女たちから命じられているのではないか。バレエの世界での出世を確実にするために、ジュール・ペローに早く身体を差し出してしまえと。彼の気が変わらないうちに、公私ともにパートナーの座におさまってしまえと。
──いいと思いません? あの娘。
受け入れるべきだろうか。好みの娘をわがものにすべく年間予約席を買うオペラ座のパトロンさながら、この契約を結ぶべきだろうか。彼女をつなぎとめるために。自分が生き延びるために。
グリジはしゃくりあげながら、しがみつくようにジュールの肩に腕を回した。肉の薄くなった背中の窪みから、シルフィードの半透明の羽根が広がっていく幻影をジュールは見ていた。
※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載
Back Number
<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王
<第6回> 第1部 V 俺はライバルになれない
<第7回> 第2部 I 転落と流浪──1835年
<第8回> 第2部 II 救いのミューズ