さかしまのジゼル
<第13回>
第2部 VII さかしまのラ・シルフィード

さかしまのジゼル <第13回>

第2部 VII さかしまのラ・シルフィード

かげはら史帆

 

「俺はみにくい」

 籐編みの揺りかごを片手で揺らしていたグリジが、ふっと顎を上げた。

「きみは美しいのに、どうして、こんなみにくい男と一緒にいて、子どもまで作ったんだ?」

 そう問いながら、ランプに照らされた彼女の顔を舐めるように見つめる。そのなめらかな卵型の輪郭を、額に落ちる金褐色の髪を、花弁のように薄く開いた小さな唇を。「あなたはみにくくない、とか、そういう慰めはいらない。正直に言ってほしい」

 青紫の大きな瞳が、ジュールの顔を映しながらゆっくりとまたたいた。

「……子ども、ほしくなかった?」

 小さな声でそう返されて、ジュールははたと我に返った。真っ昼間から、ひとりパリの街なかに出かけていき、帰ってきたあとはずっとテーブルに片肘をついて押し黙っているのだから、あらぬ不安を抱かれても当然だろう。

「ごめん」ジュールが短くそう言うと、グリジは下唇をかみしめてふたたび顔を伏せた。揺りかごの端を握る手がこわばって、ハープの弦のように細い筋が腕にいくつも浮きあがっている。怒っているのか。それとも、悲しんでいるのか。どちらでもおかしくはない。

「そうじゃない。新作の構想を練っていたんだよ」

 グリジはまた、静かに顎を上げた。

「さっきも、インスピレーションを得るために散歩に出かけていたんだ。みにくい精霊が登場する物語を創れないかと思っていて」

「みにくい精霊……」

「正確には、精霊と人間から生まれた青年だ。地底の世界からやってきたその異形の青年は、掟を破って人間の美少女に恋をしてしまう。つまり、きみに」

 掟を破って──。

 発したことばが、刃となって我が身を刺し返す。その痛みに耐えるように、ジュールは椅子の上で固く身を縮めた。そう、みにくい者は美しい者に手を出してはいけないのだ。持つものが違う存在と生を共にしようだなんて、とんだ思いあがりだ。

 それを望めば、いつかきっと、大きな罰が当たる。

「あのね。ひとつ相談があるの」グリジは揺りかごに手をかけたまま、身体をジュールの正面に向けた。「身体はもう元気だし、舞台も恋しいんだけど、もう少しの間この子と一緒に過ごしたいの。お休みの期間を延ばしてはだめ?」

 悪寒が全身を駆け上がった。発作的に彼女に怒鳴り返そうとしている自分がいて、ぞっとした。何を甘えたことを言ってるんだ。俺はきみの成長を待つために、自分のチャンスを棒に振ったんだぞ。きみは神に選ばれしバレリーナなんだ。授乳やおむつ替えなんかにうつつをぬかしてる場合か。

 喉にせりあがる吐き気を抑えるように、ジュールは右手を胸に当てて言葉を押し込めた。グリジが、心配そうなまなざしでこちらを見返している。

「気持ちはわかるけど、ブランクは長すぎないほうがいい。マリーの世話は、乳母や家政婦を雇えばいいし……」

 不穏な顔つきのままの彼女の前で、ジュールは懸命に言葉を探した。

「ああ、そうだ。……俺も、ちゃんとしなきゃな。しっかり、この子の面倒を見るから」

 ふわっと、目の前からグリジの姿が消えた。びっくりする暇もなく、ジュールの膝の上に柔らかな布にくるまれたぬくもりが乗っていた。グリジはジュールの肩に手を添えてくすくす笑った。「いまの、聞いたからね。言ったからにはいっぱい、この子をかわいがってね。あ、首をちゃんと持ってあげて」

 抱き方を教えてもらいながら、おっかなびっくり、赤子の腕や指や頬に触れてみる。何もかもが信じられないくらいに小さい。赤みがかった頬も、ぷっくりと割れた桃色の唇も、出会った頃のグリジをそのまま赤ちゃんにしたみたいだった。ナイフで切ったようにうっすらと開きかけたまぶたからのぞく目だけは、自分と同じ暗灰色をしている、とはじめて気がついた。みにくい男と美しい少女から生まれた、奇跡の結晶。

 小さな生き物の温かな重みを確かめるようにそっと身体を揺らしていると、グリジが問うた。

「そのお話、最後に精霊と少女はどうなるの?」

 

 

 ジュール・ペローとカルロッタ・グリジ、契約継続。

 その報は、ケルントナートーア劇場の関係者はもちろん、ウィーンのバレエファンをも大いに湧かせた。しかもジュールは、新シーズンから、ダンサーとしてのみならず振付家としても正式に契約を交わすことが決まった。

 1年前にはあれほどためらっていた振付家の地位を引き受けようと腹をくくったのは、いつかグリジとふたりでパリ・オペラ座のトップの座に立ってやるという意地からだった。まずはこのウィーンで、ひとつでも多くグリジとの主演作品を創り、他の都市に輸出できるレベルのヒット作を出す。それを各地の劇場で踊って人気を上げ、ふたりが切っても切れないダンス・パートナーであると世界じゅうに知らしめて、オペラ座の方から頭を下げさせてやる。

 新作の構想は、オペラ座からの帰り道、パサージュのショーウィンドウに映る自分の顔を見た瞬間からすでに脳裏に浮かびはじめていた。男の自分が前代未聞のシルフ役を踊った『ニンフと蝶々』は成功した。グリジが元気いっぱいの村娘役を踊った『逢い引き』も成功した。なんとか、この2作の長所をうまく組み合わせた作品を創れないだろうか──。

 企画を劇場に持ち込むと、芸術監督もメートル・ド・バレエも、ひとしきり目を輝かせたあと、気まずそうに顔を見合わせた。「むろん、われわれとしてはぜひ上演したいです。しかし……」

 ジュールの胸にも不安がないわけではなかった。このアイデアが両刀の剣であることは、彼自身も重々承知していた。失敗よりも、大成功してしまうことのほうがむしろ怖かった。もちろん作品はヒットさせたい。しかしこの役が当たりすぎてしまったら、それはダンサーとしての自分にとって終わりの始まりかもしれない。

 それでも、いまは賭けに出るしかなかった。

「覚悟はできております。われわれには、ためらっている時間はないのです」

 

 覚悟──。

 楽屋のテーブルに立てかけた金の装飾入りの四角い鏡の前で、ジュールは自分の顔に対峙していた。

 いつもなら、取り繕うための舞台化粧をする。頬骨が目立ちすぎて肉が削げて見える頬は、米の白粉で黒いへこみを塗りつぶして。ぎょろりとした両眼は、なるべく柔和に見えるように黒のラインを目尻まで伸ばして。頭のてっぺんを好き放題に渦巻く髪の毛は、香油を使って必死で撫でつけたり、かつらで覆い隠して。なんとか、欠点が踊りの邪魔をしないように。自分が自分でなくなるように。

 でも、この役では何ひとつ隠さない。

 むしろ、高い頬骨はいっそう目立つようにシャドウを足して。眼はいっそう突き出て見えるように、目の上下に暗灰色の影を塗り込んで。頭には茶色の巻き毛の鬘をつけるが、不格好な頭蓋の形は隠れないように。

 いつの間にか、ジュールの周りにはダンサーやスタッフたちの人だかりができていた。みんな、あからさまに笑いこそしないが、こらえきれないように口元を緩ませたり、いたたまれなさそうに眉をひそめる。次々とやってきては、はっと息を呑んで目を逸らしだす人びとの影を視界の隅に感じるごとに、額に熱がのぼって、癒えない古傷がちくちくと痛んだ。とっくに開き直っているつもりだったのに、心は思ったよりも追いついていない。化粧はどんどん濃くなっていくのに、裸でみんなの前に立たされているような気分だった。

 そのときふいに、かすかなそよ風が頬をなぶった。トウが床を蹴る軽やかな音が耳に迫る。黒墨を乾かしていた眼をそっと開くと、グリジが自分の真横に立っていた。腰をかがめて、おそろしいくらいの真顔でしげしげとジュールの相貌を眺めてから、テーブルの上の小さな紅壺を取って、自分の指に塗りこんだ。いまにもキスするのではないかというくらいに顔を近づけると、まばたきひとつせずに、ジュールの唇の左右に朱を描き足していった。口がより大きく、耳元まで裂けて見えるように。

 楽屋は水を打ったように静まり返っていた。身を離して、ジュールの顔をぐるりと眺め回すと、グリジは勝機を見出したようにふっと微笑みを浮かべた。

「これで、完璧」

 

 

 1838年3月2日。

 ウィーン・ケルントナートーア劇場の観客たちは、闇のかなたから現れた舞台背景にいぶかしげな表情を浮かべた。

 草ひとつ生えていないひび割れた地面。煙を吐きだして燃える火山。およそバレエの舞台らしからぬ荒涼とした風景だ。その赤茶けた大地の中央に、口を一文字に結んだいかめしい精霊の老王と、地面に片膝をついてうつむく小柄な少年がいる。老王は人知れず苦しんでいた。彼は人間の娘と関係を持ち、半分が精霊で半分が人間というこの奇怪な男の子を生ませてしまったのだ。老王は皺だらけの手を振りかざして、少年にこう告げる。不幸にも、おまえの生命は有限だ。なぜならおまえの身体には、人間の血が半分流れているからだ。しかし、地上に行って、人間の娘に恋をしないことを証明してきたら、神はおまえを精霊の一員とみなし、永遠の命を授けるであろう──。

 そこで舞台は一変し、緑おいしげる山間のチロルの村が現れる。カルロッタ・グリジが扮する美しい村娘のイオラが、祖母とおしゃべりを交わしながら庭の石造りの井戸で水を汲んでいると、ふいに天からひとりの少年が飛び降りて、井戸の端っこにひょいと腰を下ろした。その顔を目のあたりにした観客はどよめいた。

 ジュール・ペローだ。

『コボルト』──この新作バレエのタイトルに、観客はいまいちど思いを馳せた。中世以来ヨーロッパに伝わる、姿形のみにくい妖精の一種だ。ジュール・ペローがその役を踊る。なるほどぴったりには違いない。しかし、あまりに自虐的ではあるまいか。みにくいバレエダンサーが、みにくい精霊を演じるなんて……。

 そんな観客の戸惑いをあざ笑うように、コボルトはあざやかに飛翔した。

 井戸の端から端へ、咲き誇る薔薇の花へ、老婆が座る椅子のへりへ、イオラが動かす糸車の台座へ。毬のようにはずんで、四方八方に跳びうつる。どれほど目を凝らしても、背中にワイヤーの線は見当たらない。床を軽く爪先で撫ぜているだけなのに、まるで羽根が生えているかのように空を舞う。

 これは夢かしら? 目をぱちくりさせているイオラの前で、コボルトの少年は、庭先の薔薇の花びらを誇らしげに指でちぎってみせた。「きみも、薔薇も、やがてこうやって死んでしまう。でも、僕はこの試練に耐えれば、永遠の命をもらえるんだぜ。すごいだろう」

 ところがコボルトの思惑に反して、イオラは怒り出してしまう。大切に育てていた薔薇を手折られてしまったからだ。彼女はコボルトを問い詰める。「つまりあなたには、人間の心がないってことね?」その剣幕に驚いて、自分の行動を恥じたコボルトは、顔を手で覆い隠してしゅっと姿を消してしまう。

 実はイオラは婚約しており、もうすぐ、親からあてがわれた青年と結婚する予定だった。それを知ったコボルトは、自分が彼女に恋をしていると気づいてしまう。結婚を阻止するために、コボルトは婚約者の青年を待ち伏せして、恐ろしい形相で彼をおどかす。青年がひるんで逃げ出したのを見届けると、彼は人間の青年の格好に化けてイオラの前に現れる。イオラはその青年の正体に気づかないまま、だんだんと彼に惹かれていく──。

 

 平土間の最前列に座っていた批評家のひとりが、小さく声をあげた。

「これは── “さかしま”ではないか」

 周囲の客がその声に反応して、彼のほうに首を向けた。「なんだって?」

「私の勘が確かならばだが……ほら、次の場面を見てみたまえ」

 批評家が指を向けたその先に、ほかの観客たちも視線を向けた。

 

 月の映える晩。イオラはひとり自分の部屋で、肘掛け椅子にもたれながら物思いにふけっていた。そのときカーテンが舞い上がり、半開きの部屋の窓から、夜風とともにすべりこんできたのは……。

 昼間に庭で出くわした、あのコボルトだった。

 椅子から飛び上がり、後ずさりするイオラの前で、彼は必死で愛を請うて踊る。自分はご覧のとおり人間ではないし、顔だってとてもみにくい。けれどきみを愛している、と。観客の間に静かな動揺が広がっていく。さかしま──。批評家が口走ったその言葉が、真実を告げるこだまとなって客席に波及していく。

 

 これは、さかしまのラ・シルフィードだ──。

 

 禁忌を破って人間に恋してしまうのも。深夜、窓から部屋に飛び込んでくるのも。魅惑的な踊りで相手を誘惑するのも。『ラ・シルフィード』では美しいバレリーナが演じていたそれが、この作品では、みにくい男性のコボルトへと置き換わっている。

 しかもその愛の駆け引きの、なんと切ないことだろう。苦しげに愛を告白するコボルト。婚約者とコボルトの間で心を揺らすイオラ。客席のざわめきが、だんだんと深いため息に置き換わっていく。まだ20歳にもならない若きバレリーナのカルロッタ・グリジは、いつの間に、これほど繊細な演技力を身につけたのだろう。同じ三角関係といえども、前作の『逢い引き』のような、若者どうしの軽妙なラブ・コメディではない。人間でない存在を本当に愛せるかどうか、彼女は、真摯に我が身に問うているのだ。

 イオラの瞳からひとしずくの涙がこぼれおちるのと同時に、ふたりの唇が触れ合った。

 

 次の瞬間、ティンパニの雷鳴が劇場に轟いた。

 コボルトは膝を折ってその場に崩れ落ちる。永遠の命を授かる資格を失った彼は、寿命が尽きて死んでしまったのだ。みるみるうちに地面に飲み込まれて消えてしまうコボルト。頬を濡らしたまま、呆然とその場に立ちすくむイオラ。

 

 音楽が事切れて、そのまま舞台は暗転した。

 観客はどよめいた。よもや、これで終わりなのだろうか。みにくい異形の男と、美しい人間の女は結ばれない。そんな結末で、このジュール・ペロー振付のバレエ作品は幕を閉じてしまうのだろうか──?

 

 拍手をすべきかすまいか、観客が周囲の様子を窺いはじめたそのとき。

 ふたたびオーケストラ・ピットから音楽が流れはじめ、舞台が明るい光を放った。

 

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

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<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王
<第6回> 第1部 V 俺はライバルになれない
<第7回> 第2部 I 転落と流浪──1835年
<第8回> 第2部 II 救いのミューズ
<第9回> 第2部 III 新しい契約
<第10回> 第2部 IV “踊るグリジ”
<第11回> 第2部 V 男のシルフィード
<第12回> 第2部 VI 交渉決裂

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