さかしまのジゼル
<第7回>
第2部 I 転落と流浪──1835年

さかしまのジゼル <第7回>

第2部 I 転落と流浪──1835年

かげはら史帆

 

 冷たく湿った土の感触を片頬に感じながら、ジュールはやっとの思いで目を開けた。

 幌つき四輪馬車カレーシュもろとも、崖の下まで転げ落ちてしまったかと思った。だが実際は、小高い丘を下る坂道の中途で車体が横転しただけのようだ。地面から浮いた左側の2つの車輪がぶんぶん空回りして、2頭の馬がその横で哀しげないななきを上げている。

 後ろからやってきた辻馬車が、丘のてっぺんで急停止した。ぼやけた視界の向こうから、馭者と乗客の中年男が救助のために駆け寄ってくる。四輪馬車の馭者は浮いた前車輪の真下に仰向けになって気を失っているようだったが、辻馬車の馭者に顔をはたかれてうめき声を上げた。「死んではいないようだ」

 ジュールの腕を引っ張り上げたのは、乗客の男だった。「こっちはピンピンしてら」

 身を起こされてはじめて、自分が道と崖の境に突っ伏していたのだとわかった。顔から脚まで土と枯れ葉まみれで、口の中までひどくざらついている。砂のかけらをぺっぺと吐き出していると、男が腰にぶらさげた水筒を差し出してくれた。口に含んで、うがいをする。水かと思ったら赤ワインだ。吐き捨てた水が血だまりのように濁っている。

「あんた、猿みたいだな」

「え?」

 ぎょっとして身をこわばらせる。だが、男の声音にあざけりはなかった。

「おたくの馬車が、急坂でバランスを崩して横倒しになるのを後ろから見ていたんだ。あんた、幌の下からすぽーんと宙に飛び出したかと思うと、くるっと回って着地した。そのあと、飛んできた荷物が頭に激突して倒れたがな」

 なるほど、衣装を詰めこんだ旅行鞄が崖の中ほどの木の根に引っかかっているのが見えた。舞台人の常で、荷は巨大だが軽いのが幸いしたようだ。

 ところが救出に行こうと立ち上がった矢先、左の足首が強くきしんだ。体重をかけるたび、筋肉が大きく波打って、かかとから痛みが這い上がってくる。3歩目で我慢できなくなって、土の上にまた崩れ落ちた。

「くじいたか。あんなに高く跳んだら無理もないな」

「参った。明後日から舞台なのに」

 ジュールの足首に伸びかけた男の手が、ぴたりと止まった。

「あんた、……ひょっとして、あのジュール・ペローか」

 どくどくと脈を打ちだした痛みをこらえながら、ジュールは身を起こした。リヨンの街を抱くように交わる青々としたソーヌ川とローヌ川が、昂奮で頬を上気させた男の背後にうっすらと広がっていた。

 

 

「マエストロ・ペロー。おみ足の具合はいかがですかな」

 サン・カルロ劇場の楽屋口で、アーチ型のファサードから落ちる水滴も気にかけずに手もみしてにじりよってくる老人が、誰なのかは知らない。ただ、自分を“マエストロ”と呼んで崇める人種のひとりだとわかるだけだ。閉じた雨傘をステッキがわりに、左足を引きずりながら廊下を歩むジュールの後ろを、ずんぐりした腹を揺らしながらついてくる。

 11月はこの地方の雨季とあって、地中海の力強く爽やかな陽射しはおあずけだ。だが、レッスン室の窓を打つ雨は弱くて温かい。目と鼻の先にある大聖堂の鐘の音が、水にぼかされて波紋のようにこだましている。

「おかげさまで、来週からはリハーサルに合流できそうです。あいにく、リヨンの舞台には立てませんでしたが」

「それは残念でしたな。マエストロのご帰還を、郷里の皆さまが心待ちになさっていたでしょうに」

 なんとも薄気味が悪かった。

 足を捻挫したままこの南イタリアの港町にやってきて、まだ舞台に立つどころかシャンジュマンのひとつも跳んでいないのに、ここではみなが「あれが有名なペローだ」と遠巻きに噂し、振り返るだけでうやうやしく会釈をしてくれる。

 それだけ、“元パリ・オペラ座所属”の肩書は偉大らしい。自分はしょせん、あそこから放逐されたも同然の青二才にすぎないと思っていた。それなのに、ひとたび市壁から外に飛び出してみたら、ロンドンでもボルドーでも大喜びで迎えられて、ゲスト出演やシーズン契約を持ちかけられる。

 このナポリでの契約も、おそろしく順調に進んだ。ジュールの不格好に突き出た頬骨や低い背丈を舐めるように見て、小ばかにしたような笑みを浮かべる輩はいない。こちらはびっこをひきひき、ステッキやバーにもたれかかって、リハーサルやレッスンを見学しているだけの体たらくなのに。

「では、たってのお願いなのですが」細い白髪にふちどられた禿げ頭が、うやうやしく垂れる。「ぜひいまのうちに、当団の若手たちのレッスンを見てやってくれませんかね」

「レッスンを……?」

「私は当団の付属バレエ学校の教師でして、彼女たちの何人かは教え子なんです。願わくばマエストロから彼女たちに、オペラ座流の優れたご助言を賜りたく──」

 丸っこい指の先には、レッスン室の壁の一辺に据え付けられたバー。その隅に、6人の娘たちが固まっていた。全員が全員、白いチュチュをつけ、本番さながらに大きなシニヨンをこしらえて、足の裏に固い革を張ったリボン付きのサンダルを履いている。遠目に見ると、体格はそれぞれ違えど、みんなマリー・タリオーニそっくりだ。

 このサン・カルロ劇場のバレエ部門のトップであるメートル・ド・バレエは、マリーの叔父のサルヴァトーレ・タリオーニだ。たしか、付属バレエ学校の創設者でもあるはずだ。だが、彼やこの老教師が意図して若いダンサーたちに姪の真似をさせているとは考えにくかった。

 ──それだけ、オペラ座の女王の影響力はすさまじい、ということか。

 タリオーニの少年のようにひょろりとしたシルエットと、楽屋の廊下に響くコツ、コツ、コツ、という足音を思い返して、ジュールは懐かしさに目を細めた。

 

 

「ごめんなさい」

 下げられた頭の両脇で、『後宮の反乱』のヒロインの証たるつややかなおさげ髪が小さく震えている。衣装はもう着込んで、メイクも済ませているのに、どういうわけかまだ裸足だ。バーの前にたむろっていた女性ダンサーたちが、息を呑むような悲鳴を次々と上げた。かのマリー・タリオーニが、魔法の靴を脱いで、丸腰も同然の姿でフォワイエ・ド・ラ・ダンスに現れたのだから無理もない。

「あなたも謝ることがあるんですね」

 そう言ったらいつものふくれっ面で顔を上げてくれるかと思いきや、ますます深くおさげが垂れ下がったので、ジュールのほうが慌てた。

 

 互いの仲はそれですっかりもとに戻った。けれど、あのときの騒動の傷はそれぞれ別の形で消えずに残った。翌年の暮れ、ジュールがオペラ座との契約を更新しないという噂が団内を駆けめぐったとき、トウの音を甲高く響かせて、誰よりも先に駆け寄ってきたのはタリオーニだった。

「本当です。ロンドンに行きます」と、フォワイエの片隅で声をひそめて告げた。「キングス劇場と契約できそうなので」

 すると、彼女は意外にも顔をぱっと明るくした。

「私もゲスト出演したい。お願い、劇場と交渉してくれない?」

「何を踊るんです?」

「ラ・シルフィード。あなたのジェームズ役で」

「相変わらずですね。意地悪はやめてください」思わずため息をもらす。「俺にはあんな美青年の役はできませんって」

「痩せ我慢しないの。ほんとは踊りたかったんでしょ」

「第一、あなたはオペラ座との契約を更新したんでしょう。勝手によそで十八番を踊ったら……」

 にわかにジュールの腕を強く引いたタリオーニは、耳に吐息がかかるほど近くに唇を寄せてきた。

「いいの。私もそのうち辞めるから」

 絶句した。だが、その瞳が静かな怒りに燃えているのを見て、ジュールはうっすらと理由を察した。ルイ・ヴェロン総裁が仕掛けたライバル──ファニー・エルスラーの台頭だ。彼の計略どおりにキングス劇場から引き抜かれたエルスラーは、1834年に満を持してオペラ座デビューを飾った。

 彼女の魅力は誰の目からも疑いようがなかった。肉感的で、色気たっぷりの美女の役が得意。タリオーニとは正反対のタイプだ。しかし、ヴェロンが企んだ彼女の売り出し方は想像を絶するえげつなさだった。前代未聞の数のブラヴォー屋を雇って客席のあちこちに配置し、花束を舞台に投げ込ませて、逆にタリオーニの出演する晩はそうした仕込みをすべて排除する。傍目には、エルスラーの登場を受けてタリオーニの人気が急落したようにしか見えない。本人たちはもちろん、ファンもパトロンも野次馬も新聞も、この事態を受けて荒れに荒れた。客席やフォワイエ・ド・ラ・ダンスはひどくピリピリした空気に包まれて、蚊帳の外の男性ダンサーはますます小さくなるしかなかった。

 エルスラーの古巣であるキングス劇場に乗り込むのは、タリオーニなりの意趣返しなのだろうか。ジュールはそう勘ぐった。そうなると結局、自分は、またなんやかんやで彼女に利用されることになるわけだが……。

 

 それにしても、タリオーニはオペラ座になんの執着もなさそうだった。1835年の春にロンドンにやってきた彼女は、むしろ積年のプレッシャーから解き放たれたかのようにはしゃいでいた。『ラ・シルフィード』を踊り終えて、パリでは一度も見なかったような満面の笑顔で観客に手を振っている彼女を見ていると、自分の未練たらしさが身にしみた。

 オペラ座から離れたおかげで、やっと、念願のジェームズを踊れたというのに。

「辞めたらどこに行こうかなあ。ロシアがいま面白いらしいんだけど、どう思う?」

 そう訊かれても、生返事することしかできなかった。

 ジュール自身も、オペラ座を無理やり辞めさせられたわけではなかった。新シーズンのギャラが据え置きになると宣告されて、もう出ていってやると決意したのは自分だ。あのヴェロンから「国からの助成金が下げられそうなんだ。辛抱してくれ」と珍しく下手に出て説得されたにもかかわらず、そんな方便が通用するものか、と署名用のペンを机に投げつけたのだった。

 それなのに、ロンドンやボルドーや他の場所でどれほど喝采をもらっても、かつてジョゼフ・マジリエに取られたジェームズ役を踊らせてもらえても、想いは薄れるどころか強くなるばかりだった。

 

 なんとか返り咲けないだろうか。あの世界最高峰の音楽と舞台美術と劇場と群舞と栄誉と予算が揃った、芸術の発信地たる黄金色の王国に。

 自分はまだ25歳なのだから、もう少し時間はある。来シーズンとはいわない。けれど、せめて30歳になる頃には……。

 

 残された時間に指を折るのが、まだ癒えない左足の回復を待つ時間の暇つぶしになっていた。

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

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<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王
<第6回> 第1部 V 俺はライバルになれない

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