さかしまのジゼル
<第8回>
第2部 II 救いのミューズ

さかしまのジゼル <第8回>

第2部 II 救いのミューズ

かげはら史帆

 

「フランチェスカ、グラン・バットマンで身体を傾けすぎないで。アデライーデ、下ろした脚をきちんとポジションに収めて。ベルタ、肘がだんだん落ちてきてる。そう、それでいい」

 禿げ頭の老教師のよどみない声が、サン・カルロ劇場内のレッスン室に響いた。

 

 ジュールの方は、いささかこの状況に面食らっていた。老教師の熱意に押されて引き受けたはいいものの、教師として後輩ダンサーのレッスンに立ち会った経験はなかった。まして女性となると、これまでパ・ド・ドゥを組んだ相手はほとんど同世代か年上だったし、教えるよりも教えられることばかりだった。それなのに、ひょんなことからにわか教師の役目を着せられ、借り物の指導用ステッキを床に突きながら、老教師の後ろを必死で追いかけている。

「きみ、膝が曲がってる」「きみ、爪先をもっとぴんと伸ばして」

 バーに片手をかけたバレリーナたちの横を通り過ぎながら、おっかなびっくり、誰でもできそうな注意をする。レッスンが始まってから半時間も経っていないのに、不安がどんどんふくれあがっていく。自分には教える才がないのかもしれない。そうだとしたら、ダンサーを引退した後はいったいどうやって食べていけばいいのだろう。理論書でも書くか。劇場の事務方になるか。批評家にでも転身するか。いや、どれも自分には向いてなさそうだ……。

 

 後輩のキャリアを導く立場なのに、気になるのは自分のキャリアの行方ばかりだ。

 後ろめたさをおぼえながら、5人の横を通り過ぎる。いちばん最後の6人目の娘の背後まで来たところで、ジュールはふと足を止めた。

 

 まず目に飛び込んできたのは、地中海に住む娘とは思えない青ざめた皮膚と、張りのある美しい曲線を描いた肩甲骨から腰のラインだった。いまにも、シルフィードの羽根が生えてきそうな……。

 背は6人のなかでいちばん高い。骨格は華奢だが、肉づきはすでに大人の女性らしくまろやかだ。リフトをしたら、少し重たいと感じるかもしれない。

 老教師は見落としたようだが、この娘も少し肘が落ちていた。「上げて」と声をかけると、すぐに直したが、今度は上がりすぎだ。慣れた教師のように、ステッキで身体を叩いて正させるのは、罰を与えるみたいでためらわれた。肘に手を当てると、肌理の細かいしっとりした感触が指の腹に伝わって、息が詰まった。脇の下に熱気と汗がこもって、胴に張りついた薄いショールから胸の豊かなふくらみが浮きあがっている。

 ジュールは静かに手を放した。

 大人だ。18、9歳。いや、20歳を超えているか。ステッキを一歩進めて前に回り、その顔を間近で見てはっと息をのんだ。ウェーブのかかった褐色混じりの金髪にふちどられた、陶器さながらにつるりとした額。きまじめに結ばれた乾いた唇。冬林檎のように赤らんだ頬。ジュールの視線を意識してぎこちなく宙を泳ぐ青紫色の瞳。

 ──まだ、子どもだ。

 にわかに恥ずかしさがこみあげる。よくよく見れば、脚の振り上げ方も、ポールドブラも、少女特有の紋切り型のぶっきらぼうさが残っている。きちんと踊りを見れば、わかったはずなのに。そそくさと彼女の前を離れて、ステッキを勢いよく突きながら、レッスン室の正面センターに佇む老教師のところへ向かう。すると彼は、ヴァイオリンの伴奏に紛れるように、小さな声でジュールにささやいた。

「いいと思いません? あの娘」

 頭に血がのぼる。「──いいと思いません? あの娘」オペラ座のフォワイエ・ド・ラ・ダンスで、“社長”のヴェロンが客の成金紳士たちに掛けていたあの言葉。

 それがいま、他ならぬ自分の耳に吹き込まれている。

「ええ、上手ですね」つとめて冷静に答えようとする。「でも、まだ子どもです」

「大人です。16歳ですよ」

 16歳は子どもでしょう。そう返す間もなく、センターレッスンが始まった。ヴァイオリニストが弓を振り上げ、バーを離れたバレリーナたちが軽やかにジャンプをはじめた。

 他の娘と並ぶと、たしかに彼女は技術的に頭ひとつ抜けていた。しかし何より印象的なのは、その不可思議な存在感だった。子どもっぽい仕草と、陶器のようになめらかで冷たい肌の青白さと、柔らかさを帯びた成熟した体格が同居している。そのせいか、同じアッサンブレを跳んでいるのに、ひとつひとつがまるで違うように見える。1回目は、ぶどうの蔓の輪をかぶって橙の陽を浴びながら踊る村娘。2回目は、霧のけぶる夜明けの森で青く透けた羽根をはためかせる妖精。本性はいったいどちらなのか。その謎に引き込まれて目で追いはじめると、もう他の娘が視界に入らなくなる。

「いいと思いません?」

 たしかに、とてもいい。それは自信を持って言える。どう育つかはわからないが、化けそうな予感がある。たとえば、タリオーニにとっての「ラ・シルフィード」のような当たり役に出会えたならば。あるいは、彼女の個性を活かせる良きパートナーに出会えたならば。

「残念ながら、彼女だけは私の教え子ではないんですよ。ミラノのバレエ学校の出身でね。家族の都合でしばらく前、ナポリに来たとか」

「へえ……」

 観ていてわくわくする。飽きさせない。それにもかかわらず、ジュールの心からは暗雲が消えなかった。同僚ダンサーたちと同じバーを握り、同じパを跳び、同じ汗を流しているときには抱かなかったきまり悪さがつきまとって、落ち着かなかった。早く終わってほしい。そう思いながら長雨で濡れそぼった大きな窓に目を遣ったが、そこにも3拍子のステップを踏む娘たちの淡い影がさかしまに映っていた。

 つまりは、自分も物色する側に立ったのだ。若い女の踊り子たちの誰がいちばん美しいか。誰がいちばん自分の心の琴線に触れるか。誰がいちばん自分の「好み」か──。

 

「彼女、実はバレエをやめるかもと言っていましてね」

 え、とさすがに声が出る。ジュールの顔をのぞきこんで、老教師が意味深長な笑みを浮かべていた。しまったと思う間もなく、老教師は手を高く打ち鳴らしてレッスン終了を告げた。

「グリジくん、きみは残って。マエストロ・ペローにご挨拶を」

 ジュールに目配せを送ると、老教師はほかの娘たちを連れてさっさと部屋を出ていってしまった。

 

 

 劇場の舞台に劣らない大きなレッスン室とはいえ、密室にふたりきりは気まずい。彼女は据え付けのバーに片手をかけ、首を傾げてジュールの口が開くのを待っている。いったい、どうしろというんだ。手持ち無沙汰をごまかすために、壁に無造作に貼られた次作の配役表に指を這わせる。群舞の一員としてそれらしき名前があった。

「ええと、グリジ。シャルロット……」

「カルロッタ」

「すまない。カルロッタ・グリジ」

 イタリア語にはまだ慣れない。

「グリジで構いません」

 そう返す口調のつっけんどんな感じが、またいかにも若かった。子どもだ。ジュールは胸のうちでもう一度繰り返した。子どもだ。まだ、他の誰かに憧れているだけの。ジュールがかつてシャルル・マズリエの芸を必死で真似たように、この子はマリー・タリオーニをかたどった人形になろうとしている。

「なかなか上手に踊るね」

 小さなお辞儀が返ってくる。崩れかけたシニヨンが、頭の左右で兎の耳のように跳ねた。

「バレエをやめるかもしれないと聞いたけど、どうして?」

「私のお姉ちゃんやいとこは、歌手なんです。だから、みんな、私にも歌手になってほしいらしくて」

 ──なるほど、あのグリジ一家か。

 ジュデッタとジュリアのグリジ姉妹は、オペラの世界に明るくないジュールでもよく名前を聞くほどの有名歌手だ。特にジュリアはロッシーニやマイヤベーアの新作オペラのヒロインを務めるほどの実力者で、パリのイタリア座でも大人気だった。

「そうすると、もう歌の世界には有名なグリジがいるということだ。でも、バレエの世界にはまだいない」

 そうですね、と返事をしつつ、彼女はあからさまに不服そうな顔を見せた。イタリアはバレエ発祥の国だし、このナポリのバレエ団だって、ロンドンやウィーンに肩を並べるくらいに有名だ。だが、この土地の華はやはりオペラなのだろう。なにしろ、サン・カルロ劇場の音楽監督はガエターノ・ドニゼッティで、前任はジョアキーノ・ロッシーニ。いずれもオペラの大作曲家だ。その威光を浴びてなお、歌手の道を捨てたいとは思わないだろう。

「きみはオペラのほうが好き? バレエも好き?」

「どちらも……好きです」

「では、どちらが得意だと思う?」

 そう訊くと押し黙る。答えたら、そちらに決まってしまう。それを静かに拒んでいる風だった。

 彼女の大人びた肉づきの理由が腑に落ちた。歌手の道か、バレリーナの道か。その迷いが身体に出てしまっている。「もう大人です」という老教師の言葉がよみがえった。たしかに、そろそろ決断しなければならない時期だ。ひょっとしたら老教師は、彼女をバレエの世界に引き止めてほしくて、自分に助言を請うたのかもしれない。

「……きみは」

 きみは。

 

 口を開いたそのとき、ジュールの脳裏に思いがけない光が閃いた。

 自分こそが、この娘の「良きパートナー」になればいいじゃないか。

 彼女をバレエの道に進ませて、専属の師となって技術を教えこみ、一緒にパ・ド・ドゥを踊る。そして、オペラ座が欲しがるほどの一流のバレリーナに育て上げれば。

 自分も、彼女と一緒にオペラ座に返り咲けるかもしれない。

 

 利用してやればいい。娘のマリーをオペラ座に売り込んで自分も出世したタリオーニ・パパのように。そうして、自分を軽んじたあの連中の上に立ってやる。魅力的な若い女を駒として使って何が悪い。あそこで甘い汁を吸っている男どもは、つまるところみんなそうしているのだから。華やかな女たちのヒエラルキーを造り上げ、ここは女王の統べる王国でございと呼びかけて客を集め、自分たちはその裏で舵を取り、金と権力を我が物にしている。

 あの連中に泡を吹かせてやるのだ。

 底しれぬ欲望が腹から這い上がってくる。恨みか、憧れか。どっちだっていい。失われた楽園を取り返す。この娘は、きっと、その救いのミューズとして自分の前に現れたのだ。

 

 どんな言葉がふさわしいだろう。ほんの子どもにすぎない、将来の進路に迷える16歳の心を動かすには。

 頭をすばやくめぐらせて、ジュールはとっておきの一言をひねりだした。

「──きみは、天才だ。天才にふさわしい場所で踊ってみないか」

 青紫色の瞳を見開いたグリジの前で、ジュールは少女を導く大人の男にふさわしい微笑みを浮かべた。

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

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<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王
<第6回> 第1部 V 俺はライバルになれない
<第7回> 第2部 I 転落と流浪──1835年

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