さかしまのジゼル
<第11回>
第2部 V 男のシルフィード

さかしまのジゼル <第11回>

第2部 V 男のシルフィード

かげはら史帆

 

「俺が、振付を……?」

 ジュールの口から、情けないほどにかすれた声が出る。目の前では、ウィーン・ケルントナートーア劇場の芸術監督カルロ・バロッキーノが、丸く赤らんだ頬に好々爺らしい笑みを浮かべていた。

「われわれの劇場で踊りたい、というご熱意は伝わりましたよ。ただ、問題は作品ですな。さっきご披露してくれたタランテラも見事でしたが、短すぎる。それに、庶民はさておき、批評家連中はあいにくイタリア嫌いが多い」ひょいと肩をすくめる。「ここは、あなたとマドモアゼル・グリジ、おふたりが満足される新作を作られるのがよいでしょう」

「私は振付の経験がございませんし……あくまでも身分はダンサーです」

 冷や汗をかきながら、ジュールは固辞し続けた。この音楽の都の大劇場で振付を任されるのが、大きな名誉であるとはわかっていた。もっと歳を取ったら、挑戦してみたいという想いは当然あった。

 でも、自分はまだ26歳だ。

 振付にかかわるのは、ダンサーとしての墓場の入口に立つような気がしてならなかった。振付師から贈り物のように新しい踊りを授かり、それを呑み込んでわがものにしていくプロセスが、ジュールは何より好きだった。無茶難題であればあるほど、挑戦する喜びは増す。自分だってまだまだ、ダンサーとして成長したい。

「では、こうしましょう。群舞はうちのメートル・ド・バレエに振付させる。あなたはご自分とグリジ嬢のパートのみを振り付ける、というのでは?」

 そう譲歩されても、なかなか首を縦には振れない。「なんとか、全部お任せするわけにいかないでしょうか……」蚊の鳴くような声でそう返そうとしたところを、小鳥が歌うようなソプラノの声がさえぎった。

「やってみたら?」

 驚いて、隣を見やる。グリジが、青紫色の瞳をまたたかせてジュールを見返していた。まじめな顔つきの端々に、この事態を面白がるような、あるいはジュールのへっぴり腰をからかうような、いたずらっぽい光をしのばせながら。

「私たちには作品が必要なんでしょ。だったら、作ってみるしかないんじゃない?」

 

 

 まさか、本当にやることになろうとは。

 聖堂の地下墓所カタコンベを思わせる、陽の光も入らない地下のレッスン室で、ジュールは頭を抱えていた。まだ秋口だというのにひどく寒々しくて、床に落ちるランプの影までもが蒼ざめている。

「なんだか、シルフィードが出てきそう」

 グリジがそう言うのを聞いて、はじめて、メートル・ド・バレエのピエトロ・カンピリがこの部屋をあてがった理由に思い至った。

 テーマは風の精シルフィードしかない、とはすでに心を決めていた。『ラ・シルフィード』の世界的なヒット以来、どこの都市であれ、観客はみんなシルフィードを見たがる。背に蝶々のような小さな羽根をつけた白銀のチュチュをまとって、この世のものとは思えない重力で宙を舞うダンサーを……。

 そうとなれば、グリジがシルフィード役。ここは問答無用で決まりだ。しかし、それ以上のアイデアがなかなか浮かばない。自分の役は、どうしよう? シルフィードと恋に落ちる青年役か。いや、それでは『ラ・シルフィード』と同じじゃないか。群舞には何の役をやらせる? 女性ダンサーだけを起用して、シルフィードの仲間たちに扮してもらうか。いやいや、それも『ラ・シルフィード』と同じじゃないか……。

 焦りがつのる。初演の日は3週間後だ。曲は、拍子と長さが決まれば劇場付きの作曲家がうまくアレンジしてくれるらしい。ぎりぎりまで粘れるとしても、あまりに時間が足りない。

 

 ストーリーは後回しだ。グリジの踊りを先に固めてしまおう。

 昼は汗も5秒で凍るような地下室で、夜は観客から罵声を浴びる悪夢のなかで、おぼろげに輪郭をまとってきたステップやジャンプをつなぎ合わせて、ようやく1、2分ほどの短いソロの振りをこしらえた。ところが、伴奏ヴァイオリニストを呼んで、拍をとらせながらグリジに振り写しを始めたものの、どうもしっくりこない。すぐに覚えてはくれるのだが、パ(動き)とパの間が妙にもたついて、なかなか身体になじまない。それに、動くたびにチュチュがカラスの羽みたいにバサバサと激しく上下に揺れて、ちっとも優雅に見えない。腕と脚の流れがそよ風を生み出して、チュチュが綺麗にふんわり舞い上がる瞬間もときたまあるのだけど……。

「あのね、思ったことがあるんだけど」

 そう切り出されて、ジュールは眉をひそめた。「うん?」

「踊りやすい部分は『ラ・シルフィード』を真似したみたいな振付なの」グリジの大きな目が、気まずそうに宙を泳いでいる。「で、踊りにくいのは、……あなたが自分で考えた部分」

 愕然とした。

 図星、としか言いようがなかった。それにしても、この娘がここまで鋭い意見を言うなんて。ロンドンやパリで積んだ経験が、度胸と知見を養ったのだろうか。これまで、技術は上達しても、いつもどこか不安げでひょろひょろして見えたのが、いまは身体にも心にも芯が備わったように見える。

 そういえば、暮らしの上でもずいぶん大人になった、と思うことが増えていた。同じベッドで過ごす夜も、明け方の柔らかな光のなかで交わすキスも、とりとめもないおしゃべりを交わしながらの朝食も、かつてはあれほどぎこちなく痛々しかったのに、いまはすっかり生活の一部になっていた。ともすると、まだ結婚していないことを忘れてしまうくらいに。

 頼もしく思うべきだったが、ジュールの方はすぐにはグリジの言葉を受け入れられなかった。

「そうとも限らないさ。何度もさらえば、そのうち自然な動きになるはずだ」

 1曲を通しで踊らせるのはやめて、うまくいかないセクションを何度も繰り返させた。やっぱりしっくりこない。想像のなかで紡いだイメージは完璧なのに、実際にやらせてみるとまるで違う。頭に血がのぼって、とうとうグリジを部屋の隅に追いやると自ら踊り始めた。「こうだ、ここで足の指にきちんと体重を乗せればいくらでも回れるじゃないか。で、ここは助走をそこまで大きくつけなくても、膝を深く踏み込めば、風に乗って高く跳べる。ほら」まくしたてているうちに、語気がどんどん強くなる。「できるじゃないか。きみの練習がまだ足りないだけだ。振付のせいにするな」

「あのねえ」グリジもやりかえすように強く声を発した。「わかった。あなたね、自分の身体を基準に置いてるの」

 予想外の言葉だった。額の真ん中で苛立ちの火花を散らしていた熱が、氷水をかけられたみたいに一瞬でジュッと冷める。見ると、グリジの方が顔を真っ赤にしていた。長いまつ毛をうっすら涙で濡らしているが、いつもの小さくしゃくりあげる子どものような泣き方ではない。ヴァイオリニストを押しのけるように、早口のイタリア語を浴びせながら詰め寄ってくる。シューズの爪先が床に当たってカンカン鳴る音が、がらんどうの地下室にこだました。

「いい? まずね、女はこれを履かなきゃいけないの! この固い爪先の窮屈な靴を! それに、チュチュだって意外と重いし、着けるとバランスを取りにくいんだから! いっそ、あなたも女の格好をしてみたら? そうしたら同じようになんか絶対に踊れっこないから!」

 グリジの怒りのソプラノが、壁の四方と天井から跳ね返ってジュールめがけて飛んでくる。その声に四肢を突き刺されて絶句していると、今度は背後から、男の低いしのび笑いが聞こえた。振り返ると、半開きのドアの前で、メートル・ド・バレエのカンピリが震えながら腹を抱えていた。

「お若いマエストロ・ペロー。認めなさい。あなたよりもっと若いパートナーのほうが、もっと正しい」そう言って、はじめて真顔になると、両腕をジュールとグリジの前に伸べた。「でも、おかげで、私はちょっとしたアイデアを思いつきましたよ。この妙案に乗っていただけませんか。もう、本番まで時間がありませんからね」

 

 

 大聖堂からケルントナートーアを統べるウィーン一の目抜き通りを、奇妙な噂が駆け抜けたのは、それから2週間後だった。

 たちの悪いゴシップだろう。そう思って劇場にやってきた人びとは、券売所の入口に掲げられた大判の公演ポスターの前であんぐりと口をあけた。

 

『新作バレエ──ニンフと蝶々』

 ニンフ役、カルロッタ・グリジ。シルフ役、ジュール・ペロー。

 

 男性ダンサーが、シルフィードを踊るだって……!?

 

 1836年9月29日。

 観客たちが固唾を呑んで見守るなか、ふたりのウィーン・デビュー公演の幕は開いた。

 女性の群舞が扮する妖精(ニンフ)たちが、緑おいしげる山野のなかでゆったり踊りだす。彼女たちに導かれて、ニンフの女王であるグリジが現れる。古代ギリシア風のシンプルな薄茶や薄青の一枚布をまとった姿は、妖精というより、神話に登場する女神のようだ。大勢の先輩女性ダンサーをしたがえてもなお霞まないグリジの堂々たる風格に、観客はどよめいた。

 なんと、これがまだ17歳の少女とは。

 後頭部に大きなまげをつくった金色の髪が、首を傾げるごとに光沢を帯びる。すらりとした肢体は、生ける彫刻のように無駄がなく美しい。踊りこそあまり派手ではないが、柳のように揺れる腕や首筋を眺めているだけでもうっとりする。

 しかし次の瞬間、人びとの視線がふたたび大きく動いた。

 岩間から首をのぞかせて、ひらりと舞台に現れたその男性ダンサーは。

 チュチュも着ていなければ、爪先の固いサンダルも履いていないし、真珠の首飾りも白い花の頭飾りもつけていない。肩から足首までを覆う白いつなぎ風の衣装の背中に、半透明の羽根をひらひらさせているだけ。どこからどうみても若い男のダンサーだ。しかも、桟敷席の端からでも、頭蓋が大きくて手足が短いのがわかる。平土間の前の席で見ればなおのこと、ぎょろりとした両眼と頬骨が目につく。お世辞にも美男子とはいえない。

 それなのに。どういうわけか、風の精シルフィードに見える。しかも、とびきり無邪気で、いたずら好きで、それゆえに恐れや汚れをまだ知らない子どもの精だ。毬のように舞台の端から端を跳ね回り、大きな口を開けて泉の水をひと呑みし、草むらに咲いたかわいい花にキスをする。

 ところが、天真爛漫に遊び回っているその姿が、森の奥で静かに暮らすニンフたちの癇に障ったようだ。シルフの行く手に、列をつくって立ちふさがってしまう。どうか通してほしいとシルフが懇願しても、ニンフの女王もニンフたちもあざ笑うだけ。恐れをなして逃げようとするが、草の茂みにつまずいて転んでしまう。泣き出すシルフの足元に、ニンフたちがゆっくりと近づいていく。

 古代の神々のように、弓矢を携えているわけでもない。『ラ・シルフィード』のジェームズのように、シルフィードをつかまえるヴェールをひらつかせているわけでもない。ニンフたちはただ、輪をつくって、無言でシルフを取り囲もうとしているだけだ。ニンフの女王は、微笑みさえも浮かべてその様子を眺めている。みんな、女だ。それなのに、背筋が凍るほど恐ろしい。いつもはバレリーナのチュチュの下のふくらはぎを覗きこむために身を乗り出したりかがみこんだりしている平土間の男性客たちが、今日は後ずさりするように背筋を椅子の背にくっつけて、拳を腿の上でかたく握りしめている。

 そのとき、奇跡が起きた。シルフの羽根をもぎとろうとニンフたちがゆっくりと腕を伸ばしたその瞬間、一匹の小さな蝶々がふわりと宙を舞った。驚いて天を見上げたニンフたちの頭の向こうで、蝶々が羽根をはためかせている。シルフが変身の魔法を使ったのだ。蝶々はあっという間に天まで飛んで、雲間にふっと消えてしまった。ニンフたちは腹を立てて、今度こそはシルフをつかまえようと追いかけはじめる……。

 

 拳を握りしめたまま、いつまでも動こうとしない観客もいた。

 けれど、オーケストラの最後の音が消えてまもなく客席から飛んできたのは、狂おしいほどのブラヴォーの声だった。その声に突き動かされるように、ほどなく、四方八方から情熱的な拍手が沸き起こる。

「成功だ」

 メートル・ド・バレエが浮き立つような声をあげる。バックステージも歓声でいっぱいになった。芸術監督が飛んできて、まだ息をはずませているジュールと、袖幕の端を握ったままぼんやりと立ちつくすグリジに声をかけた。「さあ、早くお辞儀レヴェランスを」

 自分の手で作った踊りや演出が、観客を魅了した。その感激と手応えの快さが、ジュールの胸を満たしていた。

 振付師としてクレジットされているのは、あくまでもメートル・ド・バレエのカンピリの名前。自分はあくまでも見習いとして、ソロの部分を振り付けただけだ。舞台に乗せてみてはじめて気付いた欠点もたくさんある。女性の身体に合わせて振り付ける、という段階にはまだ至っていない。でも、おぼろげながら勘はつかめてきた気がする。

 それも、グリジに朝から晩まで付き合ってもらったおかげだ。

「ありがとう」

 そう言って触れたグリジの手がひどく冷たいのに気がついて、ジュールは顔をのぞきこんだ。血の気がない。袖幕を伝うようにふらふらと数歩進んで、そのままジュールの肩に倒れ込んだ。メートル・ド・バレエが駆け寄ってきて、ふたりで介抱して床に寝かせた。吐きそう、と小さな声で言うので、舞台係に水と桶を持ってきてもらうように頼んだ。まだ客席の拍手は鳴り止まない。「レヴェランスは中止だ」そんな芸術監督の指示が飛んで、オーケストラがすぐに次の作品の前奏を奏ではじめた。バックステージの奥に控えていたダンサーたちが、そのメロディを聞きつけてあわてて舞台に飛びだしていく。

 

 横たわるグリジのそばに膝をついて、為すすべもなく励ましのことばをかけるジュールの肩に、そっと触れる手があった。群舞のリーダーをつとめる年かさの女性ダンサーだ。ジュールの耳元に顔が近づいて、片言のフランス語がすべりこんできた。

「この子、たぶん、妊娠してると思います」

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

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<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王
<第6回> 第1部 V 俺はライバルになれない
<第7回> 第2部 I 転落と流浪──1835年
<第8回> 第2部 II 救いのミューズ
<第9回> 第2部 III 新しい契約
<第10回> 第2部 IV “踊るグリジ”

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