さかしまのジゼル <第6回>
第1部 V 俺はライバルになれない
かげはら史帆
客席のどよめきが、ジュールの全身を快感に包んだ。
批評家たちが腕組みをする平土間席から、成金紳士たちが禿頭をずらりと並べるボックス席から、貧乏学生や芸術家の卵たちがひしめく桟敷席から、視線が波のようにうねりながら押し寄せる。ジュールがひとつ跳ぶたびに彼らの両眼が天空を仰ぎ、膝を落として深く沈めば一緒に地底を這いずりまわる。まるで、客の心を操る魔術師になったみたいだ。
自分じゃないけど、それは自分なの──。
タリオーニの言葉が実感となって胸にこみあげる。本当に、そのとおりだ。
ひさびさに、ジュールの身体に踊る歓びが戻ってきていた。
タリオーニは、稽古の初日とは別人のような進化を遂げていた。神経のゆきわたった細い腕を鮮やかに広げ、長い脚を宙で華麗に打ち鳴らす。色気よりも強さとしなやかさを前面に出した、シャープな動きと精確さが映えるダンス。妖精の女王から、奴隷の女王へ。新時代のヒロイン誕生の瞬間だ。
俺も負けてはいられない。ジュールは、タリオーニが長いおさげの髪を鞭のようにひるがえしてグラン・ジュテするその背後から、加速をつけて、さらに大きく飛翔した。真っ赤な腰飾りと靴が、アルハンブラ宮殿の中庭で自在に跳ね回る。
「ブラヴォー、ジュール!」
「ブラヴォー、ペロー!」
知っている。ヴェロン社長が、“運営推し”のダンサーに野太い歓声を飛ばすブラヴォー屋を何十人も雇って、客席に座らせていることを。そして、自分にそのブラヴォー屋があてがわれたことはかつて一度もないことを。
つまり、いま響いているこの声は、まぎれもなく自分が勝ち得たものだ。
タリオーニも眼をうるませ、微笑みを浮かべて、客席に深々とお辞儀をしている。彼女の冷たく震える手をやさしく握りながら舞台袖にはけていく間、ジュールは幸福の絶頂にいた。袖に飛び込むやいなや、タリオーニが膝を床について泣き崩れる。よほど感極まったのだろうか。ジュールは、抱きかかえるようにその細い肩を支えて起こそうとした。
その瞬間、彼女は身を大きくよじって、ジュールの腕を無理やり振りほどいた。
「なんであんたが私より目立つわけ!?」
中腰のまま、ジュールは凍りついた。パ・ド・ドゥの成功に湧いていたバックステージのダンサーやスタッフたちも、水を打ったように静まり返った。
「私の力になってくれるって言ったじゃない! なんで私より高く跳ぶの? 綺麗に回るの? 喝采をいっぱいもらうの? あんたの役目はそれじゃないでしょ!」
タリオーニの切れ長の眼から頬に流れ落ちる、漆黒と紅と白粉の入り交じった涙を、ジュールはしばらく呆然と見つめていた。身体に溜まった熱気が、動揺とともにぐらぐらと煮立っていく。
「どういうこと? 俺は跳んじゃいけないっての? 回っちゃいけないっての? 役目って何? どうしてそんなことを、……」
「男のくせに」
その声がどこから発せられたのか、はっきりとはわからなかった。タリオーニの唇からか。泣きむせぶ彼女の周りを囲むダンサーたちからか。スタッフからか。客席からか。あるいは──楽屋の片隅に追いやられ、ネッカチーフで顔を覆われたあの醜いジュール・ペロー像からか。口を封じられた石膏像の苦悶の叫び。
男のくせに──その声が幾度も頭にこだまして、眼前が真っ白にはじけ飛んだ。
「落ち着け、ジュール」
我に返ったときには、ふたりの男に身体を拘束されていた。首に両腕を回して羽交い締めにしているのはジョゼフ。右手を強く掴まえているのはヴェストリス先生だった。いつの間にか、舞台袖から遠く離されて、楽屋の建物につながる小さな階段の前まで引きずり出されていた。タリオーニの姿は、ダンサーやスタッフたちの人だかりでほとんど見えない。ただ、タリオーニ・パパとヴェロン社長が、膝を床について、彼女を必死でなだめている様子が目に入った。
ジュールの顔をのぞきこんだジョゼフが、腕をゆるめて一歩退いた。先生はまだ手を離そうとしない。血の流れが止まりそうなほどの強さで、黄色の縁飾りがほどこされた袖口を掴みつづけている。全身から力が抜けて、階段の手すりに腰がぶつかった。
「俺……彼女を殴ろうとしてましたか?」
ヴェストリス先生は哀しげな眼でジュールを見返すと、耳に小声でささやいた。
「大丈夫。誰も気づいてはいなかったから」
次の幕、あと5分で始まります。バックステージに舞台監督の声が飛ぶ。ジョゼフはジュールの肩をそっと叩くと、乱れたショールを直しながら小走りで舞台袖に向かった。ヴェストリス先生もようやく手を離し、「気に病むなよ」と言い残して、群舞の整列をチェックするために舞台へ戻っていく。タリオーニがパパに抱き起こされる姿を遠目で確認してから、ジュールは踵を返して、楽屋に続く階段を降りた。無人のフォワイエ・ド・ラ・ダンスは、舞台袖の騒乱とはうってかわって静けさに満ちていた。しびれきった右手をバーにかけて、ジュールは脂汗を床に落としながらへなへなと崩れ落ちた。
「ま、きみも災難だったね」
ヴェロン社長が放ったその第一声に、ジュールはかすかな震えを含んだため息をついた。オペラ座の総裁室に入るのは、昨シーズン末のギャラ交渉以来だ。若い秘書役がイギリス紅茶を運んできて、中国風の大柄な花もようのウェッジウッド製のカップと角砂糖入りのボウルを目の前に置く。どうやら、ヴェロンは自分に怒ってはいないようだ。彼は総裁席のテーブルの前にどっかりと腰を下ろして、突き出た太鼓腹を撫でさすった。
「マリーときたら、困ったものだ。実力も人気もあるのは間違いないが、わがままが過ぎる。あの父親のもとで甘やかしたのが良くなかった」
「彼女は努力家なので……」
小さな声でジュールは答えた。タリオーニに対する怒りや失意は、一晩でほとんど消え失せていた。今回の新作に対して、彼女はそれだけのプレッシャーを抱えていたのだ。片やジュールはジュールで、自分のスキルを観客にアピールしたいという願いがあった。その衝突自体は仕方がない。
それよりも心に重くのしかかっていたのは、ヴェストリス先生に強く掴まれた痕がまだうっすら残る自分の右手だった。もし先生やジョゼフが止めてくれなかったら、この腕は暴発していたかもしれない。タリオーニの青白い頬を、細い肋骨を、バレリーナの生命に等しい脚を、一撃で砕いていたかもしれない。右手をテーブルの上に晒すのが怖くて、膝の上で拳をかたく握りしめながら、左手でカップの取っ手をつかむ。茶葉の苦みが、喉だけではなく眼にまでしみた。
「実はね。マリーにライバルを立てようと思っているんだ」
思いがけない言葉に、ジュールは目を見開いた。
「ライバル……」
「ライバルがいると、客は盛り上がるし、ダンサーも張り合いが出る。マリーには少しお灸を据えないとね」
「ヴェストリス先生も、現役時代はライバルがいましたよね。ルイ・デュポールとの対決は大盛り上がりだったとか」
カップをソーサーの上に置いて身を乗り出したジュールに、社長はいささか面食らったような表情を浮かべた。「ああ……まあね」
「もっとさかのぼれば、ミシェル・ブロンディとクロード・バロン、それから……」
「うん、まあ、それはさておきだね」ヴェロンはジュールの話をさえぎって手を振った。「エルスラーという、ウィーン出身のバレリーナの姉妹がいるのは知っているかね? 妹のファニーが特にすばらしい才能の持ち主で、色気のある官能的なダンスが大得意ときている。マリーとは正反対のタイプだよ。いまロンドンのキングズ劇場で踊っていて、秘書にはもう偵察に行かせた。今度、私が直々に出向いて、彼女をスカウトして来ようと思っている」
なるほど、だからイギリス紅茶というわけか……。
ふくらみかけた希望が急激にしぼんでいく。だが、昨夜の万雷の喝采がジュールの背中を押した。目の前に、パリ・オペラ座の総裁がいる。しかも部屋にふたりきり。いま言わないで、いつ言うんだ。
「タリオーニさんのライバルは、女性でなければだめですか」
社長は微かな笑みを向けた。「ん?」
「つまり、俺ではいけませんか。俺は彼女のライバルになりたいです。総裁にも、彼女にも、それを認めてほしいんです」
言い終わる前に、唾が飛んできた。
か、か、か、と声をたてるヴェロン社長を、ジュールは呆然と見返していた。笑いは止まらない。でっぷりと肥えた腹を揺らし、紅茶の水面が揺れるほどに笑い続ける。
何がおかしいんですか、という問いを、なんとか穏便に組み替えて訴える。「昨夜は、タリオーニさんよりブラヴォーをもらいました。でも今夜はそうじゃないかもしれない。そうやって競い合って、切磋琢磨し合う関係に……」
「ジュール・ペロー君。きみにもお灸が必要かな?」社長は、椅子の背もたれに体重をあずけ、嘆息とともにジュールを一瞥した。「昨夜のマリーは、ライバルに怯えたんじゃない。脇役の猿がヒロインよりしゃしゃり出たから怒ったんだ」
ジョゼフの声は、きちんと耳に入っていた。ただ、返事ができなかっただけだ。
「ジュール。……どうした、ジュール」
ジョゼフの視線がジュールの青ざめた顔を仰いだあと、胸の下まで落ちる。右の手首を腹の前で抑えつけているのに気づいたらしい。
男子ダンサーの楽屋には、まだ彼しかいない。いないはずなのに、どこからかもう一対の視線を感じる。窓のない小部屋をぐるりと眺め回して、床に置きっぱなしになっていたダンタンの胸像に目を留めた。なんだって、こっちを見ているんだ。せっかく顔をぐるぐる巻きにしてやったのに。その首を乱暴につかんでネッカチーフを解くと、異様に見開かれた両眼と、苦悶にゆがむ唇が目に飛び込んできた。
──こいつ、ただの醜男じゃない。
怒りと憎しみと哀しみに憑かれて、そのせいで、頭蓋骨がゆがむほど痛々しい表情を浮かべているのだ……。
「ジョゼフ、きみは正しかったよ」乾いた声が出る。「社長に言われたんだ。あまり頑張られるとギャラをもっと上げなきゃいけないから、男はほどほどにやってくれって」
ジョゼフは答えない。ただ、息を詰めてジュールを見上げている。床に座ったままではあったが、両方の足の裏を床につけ、手を空にして、すぐに立ち上がれるように身構えていた。ジュールがこの場で石膏像を振り回したり、壁にぶつけようとしたら、自分が身体を張って止めなければ。……
そんな同僚の警戒心を感じ取って、ジュールは小さく肩をすくめると、乾いた笑い声をあげた。
「これを作ったやつに、礼を言ってくるんだ。よくできた諷刺だよって」
ジャン=ピエール・ダンタンのアトリエは、モンマルトルのふもとにあった。
数年前に建造されたばかりの新しい建物群の一角だ。はじめて訪れたときには、ロンドン風とギリシア風の折衷のような佇まいが目新しくて、白亜の外壁や青銅色の噴水にしばし見とれたものだった。でも、今日は何も目に入らない。手前の建物に穿たれたアーチをくぐって、冬枯れの芝が点々と残るスクエア型の中庭に出ると、行き慣れた左の手前の棟に入ろうとした。
そのとき、ふいにピアノの音が聞こえた。
建物の四面に反響して、どこから音が鳴っているのかわからなかった。思わず足を止めて、その流麗なパッセージに耳をそばだてる。明らかに素人の演奏ではない。そういえば、パリ音楽院の有名な教授がこの集合住宅の一部屋に住んでいると聞いた気がした。
初冬の曇天を映した長方形の窓のひとつひとつを目で追っていると、背後から気配がした。アーチを抜けて、ひとりの若い男が早足でやってくる。通りすがりに、彼のコートの裾と、ジュールが右手にぶらさげた石膏像が軽く触れ合った。
「失敬」
ドイツ風のアクセントとともに、顎にかかるほど長い金髪が風にそよいだ。顔は逆光で見えないが、長身のほっそりしたシルエットが地面に投げられる。男は中庭を颯爽と抜けて、左奥の棟に向かった。おどろくほど長い指が、腰の上で軽やかに跳ねてピアノの音をなぞっている。あ、とジュールは声を漏らした。
フランツ・リストだ。
いま、パリの街で一世を風靡している若手ピアニスト──。
だんだんと耳が慣れてきて、音のありかがわかってきた。ちょうど彼が入っていった棟の3階、窓が半開きになっている部屋だ。あとを追うように、ジュールは中庭を駆けてその棟に飛び込んだ。陽の入らない階段は、冷気を溜めてほのかに白い。踊る指の影を踏みつつ階段を上がると、ピアノの音がどんどん耳元に近づいてきた。
3階の部屋の扉は、中庭の窓と同じく半開きになっていた。ジュールが階段を上がりきったところで、ピアノの音がふいに止む。「続けてくれていいのに」ドイツ訛りの声が廊下にまで響く。それから彼とはまた別の、掠れとため息を含んだ小さな声。「きみの前で弾くのは遠慮したいですね」
扉に身を隠しつつ、ちらりと部屋の中を覗き込んで、ジュールは息を呑んだ。朱色のカーテンとマホガニーの大きな食器用キャビネット、それにひとつひとつ形の違うビロードや革張りの椅子が並ぶサロン風の居室の中央に、ピアノが所狭しとひしめいている。ジュールにはピアノのメーカーや種類はわからない。だが、全部で7、8台はあるだろう。それらを囲んで、5人の男たちが立ったまま談笑している。みんな、若い。ジュールとさして変わらない年頃だろうか。しかし身なりはとても良い。漆黒のジャケットから薔薇のレリーフの入った金のカフスボタンをのぞかせ、ネクタイには洒落た結び目を作り、紫煙のくすぶる長いパイプや美しい房飾りのついたステッキをもてあそんでいる。
「どうして? これはきみが書いた曲なのに」
「だから余計にいやなんですよ」
「いいことを思いついた」リストが手を鳴らした。「それなら、ここにいる全員で弾けばいい」
苦笑して、掠れ声の男はピアノの前に座り直した。どうやら、さっきまでの弾き手はこの青年らしい。白い鹿革の手袋をじれったいほどにゆっくりと外して、あらわれた小さな手を鍵盤の上に置く。対するリストは、身をひるがえして、馬の鞍に飛び乗るように隣のピアノの椅子に腰掛けた。「いいねえ。このノクターンも好きだ」周りの男たちもそれぞれピアノの前に陣取る。夜風にたゆたうようなメロディは、ジュールも聞き覚えがあった。フレデリック・ショパンの曲だ。すると、あの掠れ声の青年が作曲者本人だろうか。
ところが、彼が独り言のように控えめに奏でだした弱音の調べは、リストの長い指が放つきらきらした装飾音にかき消されてしまった。「おいおい」みなが吹き出して、じゃれ合うように、手きままな変奏をはじめる。ある者は転調に転調を重ねて優美なメロディを悲劇調にアレンジし、ある者は左手ですさまじい高速の反復音を繰り広げる。「まるで鉄道じゃないか!」「乗ったことはあるか」「ないね」くすくすと笑い声を漏らす。「そら、次はきみの新作だ」「おお、名誉だねえ」「これも次の演奏会で弾くのかい」「見破ったな?」
サロンの来賓たちのおふざけ。そう言えば聞こえはいい。けれどその音の洪水を浴びているうちに、ジュールはめまいを覚えだした。扉から離れ、壁づたいに後ずさりして、階段を後ろ足でゆっくりと降りはじめる。まるで崖からずり落ちるように。
彼らは愛されている。
認められている。稼いでいる。蔑まれることも、耐えることもなく。このパリの街で、若き芸術の獅子として。立身出世の光の道を歩む男たちとして。彼らは人生の賭けに勝った。幼い日、開けた目の前にあったのがたまたま1台のピアノだったゆえに。成功の神に愛された、傲慢で無邪気な、こわいものなしの青年たち。その行く手を阻むものはない。それは彼らの才能や努力のみのおかげではない。なぜならピアノという世界においては、彼らの性別こそが何よりも勝者の証だからだ。そこには女はいない。いるとしても、それは誰かの女弟子か、誰かの娘か、誰かのファンでしかない。
いや、そもそもそれが「普通」の世界なのだ。画家、彫刻家、建築家、作家、ヴァイオリニスト、政治家、軍人、みんなそうだ。
どうしてバレエの世界はそうではないのだろう。いや、かつては同じだった。太陽王ルイ14世が自ら主役を踊り、ヴェストリス先生が天下を獲った一時代があった。
けれどいまは違う。王侯貴族に護られていた踊る男たちは、革命で弱りきって没落しつつある。そして新たに、踊る女たちがヒエラルキーを造り、その頂点に女王が君臨する世界が現れた。しかもその肉体の美でもって、異性という力でもって、金と権力を持つ成金の観客たちを誘い、力ずくでひれ伏させる世界が。爪先立ちという武器を手に入れた女たちだけが、超絶技巧を我が物にしたピアニストと同じ高さまで飛翔できる世界が。
フレデリック・ショパンのエチュードの洪水に押し流されながら、ジュールは自らの分身の首を、割れるほど強く握りしめた。尊重されて、正当な報酬をもらって、踊りたい。人生の望みはただそれだけなのに。儚げな白銀のチュールの下からのぞく蹄のようなトウに蹴られて、崖の下まで転げ落ちながら、どうか俺たちをここから追い出さないでくださいと懇願して生きねばならない。たぐいまれなる不運を引きあててしまった男として。
故郷の母、祖母、叔母。そして父のうつむき加減の横顔が、ジュールの眼前をよぎった。
(『さかしまのジゼル』第1部 終)
※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載
Back Number
<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王