さかしまのジゼル
<第4回>
第1部 III リヨンの家出少年

さかしまのジゼル <第4回>

第1部 III リヨンの家出少年

かげはら史帆

 

 フランス南西部の街・ボルドーから、若い男性ダンサーが移籍してくる。

 そんな噂を耳にしたのは、ジュールが10歳の頃だった。

 そのダンサー──シャルル・マズリエは、入団の挨拶も済ませないうちに、いきなり人気演目『ヴェニスのカーニヴァル』の道化師役に抜擢された。先輩の男性ダンサーたちの動揺と嫉妬の色を感じ取って、ジュールもまたこの年上の新入りにねちっこい視線を投げた。

 ジュールはすでに、先輩たちに混ざって大劇場の給金の列に並ぶ身分になっていた。もらえるのは群舞の隅っこでちょろちょろする子どもや動物の役ばかりだったし、月給はたかが12フランだったが、学校の同級生がやっている市場の野菜の泥落としやら、蚕の飼育箱掃除やらのアルバイトと比べたら破格の待遇だ。給料はその場でそっくり父に渡していたが、家に帰ると母がいそいそとやってきて、エプロンの陰でこっそりと小銭を握らせてくれるのが常だった。「あんたのおかげで、父さんはクビにならずに済んでるよ」

 もう、職業ダンサーとしての自負はある。だからこそ新人に向ける目は無遠慮だった。さあて、どんな実力の持ち主か、お手並み拝見といきましょうか。

 

 けれど本番が始まると、そんなぴりぴりした空気は一変した。

 シャルルが舞台上で披露したのは、ダンスとサーカスの曲芸とを融合したようなパフォーマンスだった。カーニヴァルの先頭で元気に行進のステップを踏んでいたかと思うと、次の瞬間、ギロチンでばっさり斬られたみたいに、首から上が吹っ飛んで消えてしまう。みんながあっと息を呑んでいると、首は一瞬でよみがえり、シャルルは涼しい顔でまた踊りだす。なんのことはない、単に首を後ろに大きく反らしていただけなのだが、あまりにスピーディーにやってのけるので、観客は誰もそのからくりに気づかないのだ。

 ゴンドラ乗りの見習い少年の役を踊りながら、ジュールの眼はすっかりシャルルの一挙一動に釘付けになっていた。群舞越しに彼の後ろ姿を観察していてわかったのは、身体がとても柔らかいことだった。脚や肩や指の関節という関節をぐるぐると回し、最後は股を割って床にべったりと伏せる。まるで糸で吊られた操り人形だ。音楽が止むと、地面を蹴ってひょいと起き上がり、額と膝がくっつくほどに深々とお辞儀をした。

 

 あんな踊りを観たのは、はじめてだ。

 眠れないまま夜をやり過ごし、そのまま迎えた翌朝。ジュールは学校をさぼって、まだ誰もいない劇場のリハーサル室にしのびこんだ。あのシャルルのテクニックを自分のものにしたい。開脚して、脚をふくらはぎから付け根まで床につける。これはできる。肩を脱臼したみたいに自由自在に回すのは? 朝露で濡れたアーチ型の窓ガラスに身体を映しながら、やってみる。だめだ。ぜんぜん違う。でも、たぶん、身体の角度を工夫してぐにゃぐにゃに見えるようにしているのだ。

 それから、首が吹っ飛ぶあのパフォーマンスは? 窓に背を向けて、息をありったけ吐きだすと、腰と首を思い切り後ろに反らしてみた。ガラスに映る世界は二重にさかしまだ。胴体が天井から吊るされて、その下に頭が不気味にぶらぶら揺れている。まるで解体されるのを待つ豚みたいだ。けど、おかしく見えるのは、いま自分の目玉がひっくり返っているからかも。客席からはどう見えるんだろう。腰の角度をさらに深くすると、脚がよろけだした。額に血が溜まってきて、ガラスの向こうにいる自分の顔も赤黒い。もうダメだ。ぎゅっと目を閉じたところで、遠のく意識のかなたに青年の笑い声が響いた。

「おいおい、死んじゃうぜ」

 床にひっくりかえってあえいでいると、おかしそうに上から顔を覗きこむシャルル・マズリエの顔があった。「ほら」と、手が伸べられる。おずおずとその手を取った瞬間、魔法みたいに一瞬で抱き起こしてくれた。まだ頭がくらくらする。

 リボンやレースや小さなポンポンがたっぷりついた道化師の衣装を脱いで、着古した稽古用シャツひとつを肌にまとったシャルルは、どこにでもいるような小柄で細身の青年だった。助けられた恥ずかしさをはねのけるように、ジュールはつっけんどんに問うた。

「どうやったら、首がなくなるように見せられるんですか?」

「それは秘密。でも、きみは首を吹っ飛ばす必要なんてないんじゃないか?」シャルルは、薄い唇の端に笑みを浮かべていた。「ぼくから見れば、むしろきみの資質がうらやましいくらいさ」

 踊りもそうだけど、会話もなんだかトリッキーな人だ。訊きたいことは山ほどあった。彼の腕を引いて、無理やり床に座らせる。ジュールが自分の爪先を両手で持って前屈のストレッチを始めると、ふーん、と言って、シャルルもその動きに倣った。早朝の陽光を浴びながら、雑談が始まる。

「どうしてボルドーからリヨンに来たんですか?」

「きみはずっとリヨンでやっていくつもりなの?」

 訊き返されて、ジュールは驚きのあまりひゅっと爪先を丸めた。早く成長して、おとなのダンサーの一員になって、いつかは主役に選ばれたいと思っていた。けれど、知らない街に行って、知らない劇場のオーディションを受けて、そこで踊るなんて考えたこともなかった。「俺はリヨンしか知らなくて……」うつ伏せになりながら小さな声でそう言うと、「ぼくもリヨンの血筋だよ」ということばが返ってきた。

「ここに来たのは、地縁があったから。それに、いい劇場だって聞いていたしね。でも」声のトーンが落ちる。「ここもほんの足がかり。ぼくはいずれパリに行きたいんだ」

 パリ、パリ、パリ。背を弓なりに反らして床に戻す運動をしながら、ジュールは数をかぞえるように小さく繰り返した。パリ。馬車に乗って、ソーヌ川沿いをずっと北に向かって、それからシャロンで北西に進路を変えて──そうすれば着けることは知っている。でも、別世界も同然だ。ジュールにとっては、アメリカ大陸やインドに行く、と言われるのと大差ない。

「ぼくの踊りはポルト・サン=マルタン劇場やゲテ座にぴったりだって言われてる。まずはそこでパリ・デビューを飾って、キャリアを積むんだ。でも、いちばんの夢はまた別にある」

「いちばんの夢?」

「オペラ座だ」

 ジュールは背を反らしたまま、その畏れ多い名を唇にのぼらせた。アメリカ大陸やインドどころではない。名前だけはよく聞くその芸術の殿堂は、天国の門より遠いところにあるように思われた。

 

 それからというもの、ジュールはシャルルの背中を追いかけ回すようになった。レッスンでもリハーサルでも、必ず真後ろを陣取って、ひとつひとつのポーズや動きはもちろん、汗のぬぐい方まで真似をする。よく観察していると、シャルルは何から何までバレエの型を外しているわけではないことがわかった。ピケ・ターンの流れるような爪先の出し方も、軸足への素早い体重移動も、パッセの膝を折る高さも、すべてお手本みたいにきっちりしている。だからこそ、時折見せるおどけた仕草や曲芸が映えるのだ。

 最初は兄に憧れる弟のようだと笑っていた他のダンサーたちも、ジュールがまだ小さな足で鋭く床を刺し、鎖が連なるように細やかな弧を描いて回れるようになると、目を見張りはじめた。いつの間にかリヨンの劇場界隈では、ジュールは「ちっちゃなマズリエ」と呼ばれるようになっていた。

「マズリエがいなくなっても、おまえがいれば寂しくない」

 リヨンでの3年間の契約を終えて、シャルルがついにパリに進出するというニュースが公表されたとき。メートル・ド・バレエのロージャがそうつぶやいたのを聞いて、ジュールは自分の努力が間違っていなかったことを悟った。実際、シャルルがリヨンを去ると、ジュールの出番は格段に増えた。ときには大劇場以外の劇場からゲストとして招かれて、シャルルの十八番である『ヴェニスのカーニヴァル』の道化師役を踊る機会もあった。

 リヨンでプロのバレエダンサーとしてキャリアを築く道は、すでに開かれつつあった。けれどジュールの大きな目は、リヨン大劇場の舞台のセンターではなく、シャルルを乗せて去っていった馬車の轍の先に向いていた。彼のパリでの活躍のニュースはリヨンの人びとの耳にも届いていた。本人の望み通り、シャルルはポルト・サン=マルタン劇場でパリ・デビューを飾り、すでに主役を張る人気者になっていた。

 

 パリに行きたい。そして、オペラ座を目指したい。

 シャルルの夢は、いつの間にかジュール自身のものになっていた。

 

 

 自分の考えが浅はかだったと思い知らされたのは、家じゅうから機織り機の音が途絶えた瞬間だった。

 母も、祖母も、叔母も。女たちはみな仕事の準備の手を止め、どういうわけか一斉に目を伏せ、それからゆっくりと首を父のほうに向けた。パンくずの沈んだ茶をすすっていた父は、カップを唇のほうに傾けたまま、しばらく蝋人形のように固まっていた。父の頑健な喉仏が大きく上下し、それからカップがテーブルの上に置かれるまで、家のなかは物音ひとつしなかった。父もジュールとは目を合わせなかった。テーブルの反対側で幾何の教科書を読んでいた弟だけが、にわかに首を上げて、眼に微かな輝きを宿しながら、隣のジュールと向かいの父の顔を見比べていた。

「駄目だ」

 父が発したのは、そのひとことだけだった。言い終える間もなく、またカップを持ち上げ、音を立ててひとくちすする。母と祖母はふたたび機織り機に糸を通し、叔母は古着のボタンのほつれを探しはじめた。何事もなかったかのように、朝のいとなみが再開される。いささか面食らいながら、ジュールは立ち上がった。

「なんで?」父の座る椅子の脇まで駆け寄る。「なんで、なんで──?」

 パリはバレエの本場だ。劇場も仕事も、リヨンとは比べものにならないくらい沢山ある。シャルル・マズリエも順調にキャリアを重ねている。たくさん稼いで、いっぱい仕送りして、家の暮らしをもっと助けられる。

 そう説明しても、父は頑なに何も言わない。ぶんぶん飛び回るうるさい蝿を我慢するように、硬直した顔つきで、もう空になってしまったカップに口をつけたりやめたりを繰り返しているだけだ。見かねた叔母が「ねえ、兄さん」ととがめるように声をかけると、父はようやくカップをテーブルに置き、長いため息をもらしたあとでこう言った。

「おまえは──男だよな」

 予想外の返事にジュールはうろたえた。「え?」自分の素っ頓狂な声が部屋にこだまする。「そうだけど」

「だから、駄目だ」

 億劫なのか、気まずいのか、面倒なのか。抑揚のない声で、ぼそぼそと言葉を継ぐ。思えば、父がふたこと以上をしゃべるのをはじめて聞いた気がした。「死んだ俺の親父も、俺も、このリヨンで生まれた。リヨンで結婚して、リヨンで子どもが生まれた。この家は、ずっと、そうだったんだ」

「だからって、俺は別にじいちゃんや父さんと同じようにしなくたっていいじゃん」

 理屈もわからないが、もっと不可解なのは父のこの弱々しさだった。怒鳴ったり、撥ねつけるならまだ理解できる。しかし、父は予期せぬ事故に巻き込まれて成すすべを失ったような、まるで覇気のない声で「男だから、駄目なんだ」と何度も繰り返すだけだった。むしょうに腹が立った。子どもが大事な話をしているのに、目も合わせずに済ませるつもりなのだろうか。頑強さを隠すように弱々しく垂れたその肩をつかんで、こちらに振り向かせたい。もしもこの拳で殴りつけたら? 爪先で蹴り上げたら? 腹の底から重たく熱のある塊がこみあげて、ひどくむずむずする。手を突っ込んで吐き出さないと、気がおかしくなりそうだ。

 かろうじて、手よりも先に言葉が出た。

「わかった。俺がリヨンの劇場からいなくなったら、父さんがクビになるからだ」

 背後からジュールを抱き寄せようとする腕があった。母だ。小さな子をなだめるようにつむじを撫でる手と、背中に触れる柔らかな乳房の感触に嫌悪さえおぼえて、ジュールはその腕を振りほどいた。テーブルの脚に立てかけてあった鞄をつかんで、そのまま外へ飛びだしていく。

 ローヌ川の河岸に着いたところで、弟が、教科書を鞄に押し込みながら大通りを駆けてきた。「ひとりで行って」と言葉を投げると、ジュールは河岸通りを学校とは反対側に歩きはじめた。リヨン大劇場への最短の道。いつものおさぼりコースだ。だが、弟の小さな背中が遠ざかっていくのを見計らって、ジュールは歩みを止めると、朝陽を背に受けながら、ソーヌ川方面へ踵を返した。

 密集する住宅の壁に穿たれた細い抜け道をいくつもくぐって、半時間ほどかけてソーヌ川の河岸まで出る。船着き場の前に、いつも長距離用の集合馬車ディリジャンスが停まっていることは知っていた。枯れ木のような老馬丁が、馬の背にたかったノミをブラシで払っている。黄色の塗装が剥げた馬車の半開きの扉から、浅黒い裸の足だけがにゅっと突き出ていた。どうやら、御者は仮眠を取っているようだ。

「おじさん、ここからパリまで乗せてくれませんか?」

 しばらくの沈黙のあと、馬車の中からくぐもった声が返ってきた。

「金は」

「ちゃんと払います。今日は無理だけど、そう遠くないうちに」

 うなるようなため息が聞こえ、足の指が扉を軽く蹴り上げた。起き上がった御者は、無精髭を生やした口元をゆがめながら、馬車の足台に片脚をかけたジュールを眺め回した。

「ガキじゃないか……」指で目やにをこすり落とす。「歳はいくつだ」

「13歳」正直に答えたあと、間髪入れずにこう付け加えた。「ナポレオンは9歳でコルシカ島を出て、士官学校に入りました。俺はもう4年も遅れを取っています」

 ありがたいことに、御者はげらげら笑ってくれた。「なるほど。負けたフランスの仇をおまえが取ってくれようってわけか」

 

 劇場からの月給を渡さなくなった息子を、父も母も表向きは咎めなかった。反抗する年頃だと思わせておけばよいのは楽だった。ただ弟だけが、ベッドにもぐりこんでごそごそと金を数えているところに、添い寝のように横たわり、機織りの音にかき消えるくらいの小声で言った。「兄ちゃん。俺、実は建築家になりたいんだ。だから俺も、リヨンを出て勉強したい」

 ジュールは毛布から頭を出して、うっすら涙を浮かべる弟の手を握った。「俺が出世したら、必ず金を送ってやる。だから待っててな」

 シャルル・マズリエに手紙を書き送って、到着後の手助けを請う以外は、誰にも日取りを告げず、まるで亡命するように姿を消さねばならないのはつらかった。リヨンの外に出るのを恐れている父は、出ていってしまえば、居場所を知っても追っては来ないだろう。ただ、計画を感づかれ、軍資金を取り上げられたら最後だ。

 

 決行は、1823年の初夏だった。明け方、家族が起きだしてくる前、ジュールは音ひとつ立てずに起き上がり、ベッドの下に隠した鞄を抱えて、鼠のように家のドアを抜けると、まだ西の天に星がまたたく大通りを東に駆けていった。

 息せき切ってやってきた少年は、鞄を車体のてっぺんの幌付きの荷物置き場に投げ入れると、御者の手に金を押し込んで、10人乗りの乗客席のいちばん奥に身をひそめた。まだ他の客は来ていない。

「ぼうず、おまえの席はいちばん安いから、御者席の隣だぞ」

 声をかけられたが、こう叫び返した。

「リヨンを出たら、移動するから。いまはここで寝させてよ」

 出発までの時間は永遠に思われた。6頭の馬が一斉に土を蹴り、車輪が左右にぐらつきながら大きく回りだすと、ジュールはようやくほっとため息をついて小窓のカーテンを開けた。もうだいぶ高くなった太陽と、空を映して青みを増すソーヌ川の優しいまどろみに、ジュールは目を細めた。

 

 

 ジュールはうっすらと目を開けた。

 馬車の揺れだと思っていたのは、古い集合住宅の床のきしみだった。たぶん、壁を隔てた隣の部屋で、若い男女が朝っぱらから飽きもせずに愛し合っているのだろう。テーブルの上のワインの空瓶とコップが、ぶつかり合ってがたがた音を立てていた。

 幸いにして酒には強い。ただ、飲みすぎた夜には、たいがい昔の夢を見てしまう。思い返せば思い返すほど、武勇伝とはほど遠いような気がした。ジャン=ピエール・ダンタンは、ジュールの話を聞いていなかったのではない。見抜いていたのかもしれない。自分が、父を説得するでも殺すでもなく、ただ目の前から逃げ去った少年にすぎないことを。そのせいで、父にかけられたあの弱々しげな呪いのことばを捨て去れずにいることを。「男だから」──だから、何?

 

「きみは首を吹っ飛ばす必要なんてないんじゃないか?」

 シャルルの悪戯っぽい声が耳によみがえる。その声の主がもうこの世にいないことを思い出して、ジュールは魂を失ったようにぼんやりと天井を見つめた。ポルト・サン=マルタン劇場の花形として活躍している真っ只中に肺を悪くし、急死してしまったのだ。まだ30歳にもならない年齢だった。その最期は舞台上の端役の死のようにあっけなくて、音楽が終われば、何事もなかったかのようにむくりと起きだしてくるのではないかと思うくらいだった。

 ジュールがゲテ座でのキャリアアップの日々を経て、パリ・オペラ座の舞台を最初に踏んだのはその死の翌年だった。そのとき、心に誓った。自分は亡きシャルルの夢も背負って、このオペラ座で生きるのだと。

 夢は叶った。たぶん、最上の形で。「オペラ座の男性ダンサーといえば?」そう訊かれてジュール・ペローの名を挙げない人はいない。主役だって何度かもらった。待遇だって──これで悪いと言ってしまえば、ヨーロッパじゅうの男性ダンサーを敵に回すかもしれない。

 

 けれど、ならばどうして、これほど心を消耗させられているのだろう。

 目を見開いて苦悶の叫びを上げる醜男の石膏像が目の前をよぎる。あれが我が身の分身なのだとしたら。自分では舞台の上で精一杯の笑顔をふりまいているつもりで、その実、ほんものの姿があれに過ぎないのだとしたら……?

 

「吹っ飛ばせるものなら、とっくに吹っ飛ばしてるよ」

 宿酔いの微かな頭痛を抱えながら、ベッドから身を起こす。いっそ、楽屋裏の地面に埋めてしまおうか。帰り道のセーヌ川に沈めてしまおうか。浮浪者どもが暖を取る焚き火に投げ込んでしまおうか。そう思ったのに、結局できなかった。自分で自分の首をギロチンでかっさばくみたいで。

 それに勇気を持って吹っ飛ばしたところで、ひょいっと戻ってくるのは元の顔に他ならない。斬っても斬ってもよみがえるあの呪われし顔を、我が身の相似形として受け入れるしかないのだろうか。

──でも、いったい、どうやって?

 

 答えはなくても、容赦なく朝は来る。

 部屋の窓のカーテンを開けて、ジュールは、曙の光に溶け落ちていく最後の星を仰いだ。

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

Back Number

<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝

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