さかしまのジゼル
<第16回>
第3部 II  夢見る詩人

さかしまのジゼル <第16回>

第3部 II  夢見る詩人

かげはら史帆

 

「客が立ち入っていい時間帯じゃないはずだ」

 男の短い右腕を引っ張って、背骨の近くまで力いっぱいひねりあげると、また悲鳴が上がった。小脇に抱えていた書類鞄とステッキが、一張羅のジャケットを伝ってすべり落ちた。

「団に──いや、警察に突き出すぞ。観念するんだ」

「違います、違います」拾いかけたステッキを自分で踏みつけて、男はあえなく床に転がった。ドアに頭を打ちつけたらしく、すすり泣くようなうめき声を上げている。逃げ出せる様子でないのを見てとって、ジュールは男の首根っこをつかんでドアを開けた。窓のないバックステージとは対照的に、客用廊下は天国のように明るい。まぶしいほどの白日の下に、彼の姿が顕わになった。見れば見るほど、ダンタンの胸像とは似ても似つかないので驚いた。指の先まで丸っこい小太りの男で、不健康に見えるほど色白な顔に淡い口ひげをたくわえている。

「いったい何が違うというんだ。きみ、団の関係者なのか」

「いいえ。しかし近いうち、関係者になる予定です」

「何を言っているのかさっぱりだ」

「僕をご存知ありませんか? 詩人で批評家の──」

「批評家だって? メディアの犬がリハーサル中のフォワイエに侵入するなんて、なおのこと論外だ」そのぼってりした腹を蹴り上げたくなるのをこらえながら、凄みをきかせた声で言い放つ。「貴様、カルロッタをずっと追っていたんだろう。ゴシップでも探る気だったか?」

「めっそうもない!」男は叫んだ。「僕はただ、彼女に恋をしてしまっただけです!」

 ジュールの顔色がまた変わるのを見て、男は慌てふためいたように手をついて立ち上がった。「ああ、誤解はなさらないでください。偉大なるジュール・ペロー……あなたが彼女の婚約者であることは承知していますし、手を出したりなんて決していたしません。ただ……ただ……彼女は僕の最愛のミューズであり……恋は僕の創作の源であり……」

 眉をひそめるジュールの前に、真剣な顔がずいと近寄った。

「それに、僕はあなたの大ファンでもあるんですよ!」

「見えすいた嘘はいいよ」

「嘘ですって!? 読んでくださっていないんですか? このテオフィル・ゴーティエの『ジンガロ』評を……」

 その名を聞いて、すべてを合点したジュールは目を見開いた。「ああ、あんたか……俺を“男版のタリオーニ”とか書いていた……」

 

 男の素性はようやく把握したが、ジュールの胸にやりきれない思いが満ちた。あの舞台評にきまり悪さをおぼえた理由が、その書き手を前にしていまいちど腑に落ちた気がした。しなやかな脚……風……シルフィード……タリオーニ…………女であれば無条件で手に入れられた栄誉の称号を、“男版”という無邪気な留保つきで見せつけられることの虚しさ。しかも、年の頃は自分とさして変わらない、この脂肪に覆われたつるりとした頬の男に。

 押し黙るジュールを見やって、ゴーティエは口髭を左右に広げて満面の笑みを浮かべた。両手でラッパの形をこしらえて、ジュールの耳に当てる。

「僕にはお見通しですよ。あなたのご算段は」

「なんだって?」

「あなたは尊い殿方だ。これほど素晴らしい才能の持ち主なのに、グリジ嬢に尽くすとご決意なさって、彼女のオペラ座の新しい女王の座に押し上げるために、ご自分のキャリアを犠牲にした。そうでしょう?」

 生温かな息が耳たぶにかかって、ジュールは思わず身震いした。あらゆる意味で気味が悪い。この男からは、いまの自分がそういう風に見えているのか。いや、場合によっては彼以外の連中からも……。

 そんな阿呆みたいな美談があるものか。高笑いをぶつけてやりたくなった。俺がそんな人間のよくできた下僕だとでも? 俺はグリジを利用したんだ。まだ16歳だった、バレリーナになるかどうかすらまだ決めていなかった彼女を半ばそそのかすように、公私ともに自分のパートナーにして、オペラ座を目指すことこそが唯一無二の価値ある夢だと教えこんで、あちこちの劇場に連れ回して、虎視眈々とチャンスを狙っていたんだ。しかもその計画は、つい先日までこの胸にあって、実行の日を待っていた。コラーリから届いたあの契約確認の手紙を見てしまうまでは。

「つまり、きみは俺を裏切ったということだ」

 グリジを責め立てる自分の言葉が、意識の淵から現れて耳を衝いた。あの恐ろしい冬の日の晩の記憶がよみがえる。テーブルの上でびりびりと震える手紙。許しを乞うて床に這いつくばる若い女性。そして、獰猛な獣のように声を荒げ、拳をいまにも振り上げそうになっている30歳の男──。

 その男こそが、他ならぬ自分だ。みにくい顔をますますみにくく歪めさせて、正体を失い、自分の過去の罪さえも忘れ、つい先日まで少女だった女を一方的に責め立てているその男こそが。

 俺には、彼女の裏切りを責める資格なんか何ひとつない……。

 

「ねえ、ねえ、」

 ゴーティエの詩人らしからぬ甲高い声が耳に飛び込んで、ジュールはにわかに我に返った。

「そうとなれば、ここは提案なんですがね。僕をあなたの共犯者にしてくれませんか?」

「共犯者……?」

「グリジ嬢をトップに立たせたい。そんなあなたの悲願を叶えるための、とっておきの計略があるんですよ。どれ、ちょいとお見せいたしましょう」

 

 そう言うなり、ゴーティエは、足元に落ちていた書類鞄をかがんで拾い上げた。その丸っこい背中の輪郭がにわかに黒ずみはじめて、ジュールは目を瞬いた。

 

 ──まぶたを開くと、そこにはもう男の姿はなかった。

 代わりに眼前に広がるのは、闇と、闇をほんの少し溶かす蒼白の月の光。そして、足元から匂うようにたちこめる乳白色の靄。

 そよ風が吹いて、樺の葉や野の花々がかすかに音を立てる。

 たぶん、森だ。──『ラ・シルフィード』にも『ニンフと蝶々』にも『コボルト』にも登場した、この世の神秘をすべて封じ込めた不可思議な舞台。

 その蒼白色の世界に、ひとりの女性ダンサーがゆっくりと姿を現す。死装束のようにも見える、シンプルな白銀のチュチュをまとって。生気のない顔色にかすかな哀れみをたたえ、爪先を細やかに動かしながら、右へ左へと風のように身をゆらめかせ、柳の枝のように腕をしならせる。

 その透明な瞳に映っているのは、地面に倒れ伏して嘆いているひとりの若い男。彼は頬を涙に濡らしている。かつて恋人だった彼女を裏切り、ゆえに彼女は死んで、さまよえる精霊になってしまった。そのあやまちに心を押しつぶされそうになりながら──。

 

「──いかがですかな?」

 ゴーティエの声が、にわかにジュールを現実に呼び戻した。

 いつの間にか、自分の手に数枚ばかりの原稿がある。彼から手渡されたような気もするが、まるで記憶がない。このペンの走り書きは彼自身のものだろうか。目の前にあるのは黒インクの素っ気ない文字にすぎないのに、ほんの数行を追うだけで、舞台と、そこにうごめくダンサーたちの姿が、淡い色彩をともなって立体的に浮かび上がる。

 ──まるで魔法だ。

 小太りの男が、不安と期待がないまぜになった困り顔でジュールの表情を伺っている。胸の高鳴りを鎮めようと努めながら、なんとか喉から声を絞り出した。

「つまりこれは、グリジのためのバレエ台本ということか」

「ええ、はじめて書きました。ここはいちばんのお気に入りの部分でして……」

「てんで駄目だな」

 唇をひきつらせて立ちつくす彼の前で、大きく踵を返してふたたびドアを開け、舞台裏を早足で歩き出す。慌てふためいたように、ゴーティエがあとをついてきた。「お待ちください。いったい、どこが悪いんです」

「ここに登場する幽霊のような女は、なぜ死んだんだ」

「恋人の男に裏切られたからです」

「裏切られて、自殺したのか?」

「いえ、自殺ではありません。失恋のショックを受けて……」

「婆さんでもない限り、ショックだけじゃ人はそうそう死なないと思うがね」

「でも、純真な乙女ですから……ありえなくもないかと……」

 声が、いかにも気まずそうにぼそぼそと小さくなった。

「きみは、だいぶ夢みがちなんだな」

 先とはうってかわって、辟易とした感情がジュールの胸に満ちていた。グリジが出産の直前まで気丈に踊り続け、産後わずか数ヶ月で復帰したといったら、彼は卒倒するだろうか。

「その設定は……練り直します」

「ああ、そうしたほうが賢明だろうな」

 

 あえて冷然と言い放った理由は、当のジュール自身にもわからなかった。まだ追いかけてこようとするゴーティエを振り切って、ふだんは開けっ放しの渡り廊下のドアを、わざと鼻先で閉めてやった。

 

 

 フォワイエでのリハーサルは終わり、ダンサーの姿はすでにまばらになっていた。これから、衣装を身に着けて舞台上での最終リハーサルに入る。清掃係の女たちがたらいを抱えてやってきて、雑巾でバーや鏡を拭きはじめていた。今宵もまた、舞台のあと、ここに客を入れるのだろう。目当ての女性ダンサーの肩を抱き、プレゼントを渡し、なんとかここから連れ出そうと甘言で口説くブルジョワの紳士たちを。

 夢見るように美しく、そして消え入るように儚げな乙女たちを、彼らは求め続ける。実際には、いまこの世界で消え入りそうになっているのはこちら側──男の方なのに。

 

 湿り気を帯びたバーを、ジュールはそっと手で撫でた。

 渡り廊下を伝って、オーケストラ・ピットから、ヴァイオリンの練習の音がかすかに聞こえてくる。全5幕のグランド・オペラ『ラ・ファボリータ』。国王の愛人と修道士の悲劇的な愛の物語。グリジとリュシアンのパ・ド・ドゥは、その第2幕の祝宴のシーンで踊られる。

 華やかな調べに耳を傾け、意識をゆだねようとする。それなのに、さっきあの詩人が見せてくれた青ざめた死の世界が、移り香のように身体に残って、離れていかない。百合の花弁のように優雅に垂れる白いチュチュも。重力から解き放たれて宙に浮かぶ精霊たちの半透明の肢体も。恋人に裏切られ、死の世界に堕とされた乙女の哀しげな表情も。

「ジュール」

 振り向くと、今宵の衣装をまとったグリジが立っていた。祝宴の場面の衣装だけあって、細部まで手が込んでいて華やかだ。上半身をぴったりと覆うロイヤル・ブルーの布地に、胸元や肩をたっぷりと飾る黄金色のレースがきらめいている。紅色の花びらを細かく散らした腰回りも可愛らしい。オペラ座側が、彼女のデビューに力を入れてくれていることは一目瞭然だった。

 ただ、その豪奢な衣装とはうらはらに、彼女の大きな瞳は不安をたたえてうるんでいた。元気づけるために、優しく声をかけてやる。

「怖気づくことはない。ロンドンやウィーンと同じようにやれば大丈夫だ」

 そう言って睫毛を伏せる彼女を、ヘアセットを崩さないように気をつけながらそっと抱き寄せた。ささやく声に、涙が混じって曇る。

「……ごめんね。本当に、ごめんなさい」

 

 ……俺の方こそ。

 その一言を胸の奥に押し込めたまま、ジュールはこわばった手でグリジの背中を撫でさすった。

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

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<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王
<第6回> 第1部 V 俺はライバルになれない
<第7回> 第2部 I 転落と流浪──1835年
<第8回> 第2部 II 救いのミューズ
<第9回> 第2部 III 新しい契約
<第10回> 第2部 IV “踊るグリジ”
<第11回> 第2部 V 男のシルフィード
<第12回> 第2部 VI 交渉決裂
<第13回> 第2部 VII さかしまのラ・シルフィード
<第14回> 第2部 VIII 最高のプレゼント
<第15回> 第3部 I 仕組まれた契約──1840年

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