さかしまのジゼル
<第12回>
第2部 VI 交渉決裂

さかしまのジゼル <第12回>

第2部 VI 交渉決裂

かげはら史帆

 

「よく隠し通せましたね。記者どもはマドモアゼル・グリジの秘密に最後まで気づかなかった」

 感嘆と呆れの入り混じったメートル・ド・バレエの声に、旅装のジュールは勝利の笑みを浮かべた。ウィーンの観客たちがアンコールを粘る拍手の音が、まだ、楽屋口にまで響き続けている。さっきまでまとっていた自分の衣装と頭飾りを、ジュールは彼の手の上に置いた。

「そして、この劇場とのシーズン契約の責務もしっかりと果たしましたよ」

「あっぱれだ。さあ、早く行っておいでなさい。カールスプラッツで長距離馬車が待っている」

 

 

 さしあたり、世間に公表はしないでおこう。

 それが、ジュールとグリジの間の話し合いの結果だった。

 幸い、グリジのつわりからの回復は早く、『ニンフと蝶々』に次ぐ新作『逢い引き』のヒロイン役を見事に踊りきった。美しい村娘のリーザに、農夫のジュリアンと内気な音楽家のコラスが想いを寄せる、三角関係のラブ・コメディだ。振付はジュールが全面的に担当し、名前もはじめて公式にクレジットされた。

 この振付に取り掛かって、初心者が精霊や妖精の役を振り付けるのは無謀だった、とやっと気がついた。村の若者たちの元気いっぱいのダンスや、恋のさやあてのマイムを考えるほうがずっと易しくて、アイデアもスムーズに浮かんでくる。グリジも自分と同じ年頃の女の子の役だけあって、リアリティたっぷりに役をこなしていた。マイムのときは愛嬌たっぷりにくるくると表情を変え、踊るときはひときわエネルギッシュに地面を蹴る。ピルエットのときにジュールがそっと手を添えたそのお腹に新しい命が宿っているとは、誰も思わないだろう。

「もっとこういう役を踊りたいな。また作ってね」

 汗に濡れた顔に浮かべたはつらつとした笑みを見た時点で、ジュールの結論は出ていた。まだ17歳の売り出し中のバレリーナに、母親のイメージは早すぎる。ウィーンではグリジの知名度は日を追うごとに上がり、大勢ファンがつきはじめていた。ボックス席を陣取る成金はもちろん、安い桟敷席で恋の矢に射られているうぶな貧乏学生の姿さえ見受けられる。いつまでも隠しとおすわけにはいかないだろうが、あえて公言する必要もない。出産はウィーンから遠く離れて、パリの街はずれのオートゥイユで行うと決めた。ここならグリジの顔はほとんど知られていないから、ばれる危険性はない。

「ええ、もうカルロッタから聞いたわ。あたくしとしては文句なくてよ」

 娘の出産の世話のために、ジュールよりひと足早くオートゥイユに滞在していたグリジの母親は、赤子用の綿の産着を縫いながらにんまりと笑みを浮かべた。ジュールにとっては意外な反応だった。独身のまま子を極秘出産させるという計画は、グリジ家の人びとから反対される可能性が高いと思っていた。ナポリの海辺のレストランで「男としての責任」を迫られたのは、いったいなんだったのだろう。

 そういえばグリジ自身も、ロンドンでジュールがほのめかした結婚の誘いをやんわり退けて以来、その話題にはまったく触れようとしなかった。今回の出産の件でも、未婚のままにしておこうという結論に達すると、「しばらくは仕方ないね」と口では言いながら、どこか安堵したような表情を浮かべていた。その真意が、ジュールにはいまだにつかめずにいた。

「教会にも確認したわ。洗礼証明書には、未婚の父母の名前を書いても問題ないって」

「そうなんですか」妙に用意周到だ。「しかしそうなると、問題は代父を誰にするかですね……」

 カトリック教会での洗礼の儀式には、代父と代母が必要だ。代母はグリジの母がつとめてくれる。そうなると代父はもう一方の家、つまりジュール側から用意しなければならない。しかし、ジュールにはパリやその近郊に住んでいる血縁者がいなかった。

「恩師でも構いませんか? 俺をダンサーとして一人前にしてくれた人なんです。オーギュスト・ヴェストリス先生という──」

「お待ちなさいな」母親の笑みが、唇が裂けるかと思うくらいに大きく広がった。「ここはあたくしにお任せになって。あなたは、出産の無事だけ祈ってくれれば結構よ」

 

 生まれた女の子は、ふにゃふにゃ柔らかい肉の塊みたいだった。

 とても母親には見えない若くて華奢な身体なのに、ちゃんと乳は出るらしい。赤子を抱っこして、いつまでも飽き足らずに吸わせているグリジの姿を見て、乳母の仕事に明け暮れていた実の母の不憫がジュールの胸をよぎった。

 産後で疲れているはずなのに、グリジは赤子をあやしたり、小さな手をそっと握ったり、陶器のようになめらかな頬にキスするのをやめようとしない。洗礼式の今日も、赤子を他の誰にも渡さずに両腕にずっと抱え込んで、教会の長椅子の上で、自分がゆりかごになったみたいにしじゅう身体を揺らしている。

 ──判断を早まったかな。

 ジュールは内心そう思った。いまのタイミングだったら、結婚も、出産の公表も、彼女は積極的に承諾したかもしれない。彼女のキャリアにとって最良の選択とはわかっていたが、この決断によって、自分が彼女の夫になる道が遠のいたのはもどかしく思えた。

 マリー・ジュリー・ペロー。彼女の腹から生まれた娘に、未婚の父たる自分の苗字が付けられる。それもなんだか不思議だった。自分の肉体の一部からこの赤子ができたという実感はまるでなかった。いったいこれから先、自分はこの娘に何をしてやれるだろうか。できるのは、容姿が自分に似ないように毎日毎夜お祈りすることと、衣食住に不自由させないことくらいだ。とても威張れたものではない。そもそも、代父さえもまともに用意できない父親なのに……。

「来たわ」

 声をあげたグリジの母親の目が、いわくありげな輝きをたたえていた。教会後方の扉が開いて、もやのかかった春の光のなかから姿を現した、頑健だがうつむき加減の中年男のシルエットを見て、ジュールは思わず小さな叫び声をあげた。

「父さん……」

 グリジの母に、それからグリジに、そして最後にジュールに、ぎこちない辞儀をする。わけがわからないまま、ジュールはグリジの母に背中を押されて、つんのめるように父にお辞儀を返していた。まさかこの臆病ものの男が、馬車に乗って、はるばるリヨンからパリにまでやってくるなんて。「いつか俺の舞台を見に来てよ。たぶんヨーロッパのどこかで踊ってるからさ」最後に会ったときに、そう言ってもまったく生返事で、もぞもぞと唇を噛むきりだった父が。

「みなさま、お揃いですね」

 乳児用の小さな洗礼台が、祭壇の前に運ばれてくる。金の十字架を胸に提げた白い祭服の老司祭が現れて、その場にいるひとりひとりに温かな視線を伸べて、祝福のことばを告げた。子と、その父と母と、そのまた父と母。司祭の灰色の瞳に映るのは、完璧な家族の肖像だった。父と母のふたりが未婚であることを除けば。

 

 

 ジュールがパリ・オペラ座総裁のアンリ・デュポンシェルを訪ねたのは、それから1週間後だった。楽屋口に現れた彼は「驚きました」とつぶやきながら、それでも丁重にジュールを出迎え、自ら総裁室に案内してくれた。

「まさかパリにおいでとは、存じませんでした」

 部屋のドアをきっちりと閉め、示された椅子に掛け、秘書役がコーヒーを運んでくるのを待ったあと、ジュールははじめて目深にかぶった帽を外した。それから、テーブルを挟んで向かいの総裁席にようやく届くくらいの静かな声で切り出した。カルロッタ・グリジが出産したこと。母子ともに健康そのもので、彼女は2、3ヶ月もあれば舞台に復帰できそうなこと。ウィーン・ケルントナートーア劇場ではすでに1シーズン、ふたりで主役を踊り、芸術監督から次シーズンの契約継続を懇願されるほどに人気を博していること。ジュール自身は、振付家としても頭角を現していること。

 このキャリアに対する正当な評価を期待し、いまいちど、オペラ座への入団を志願したいこと。

 デュポンシェルは、一度も話をさえぎらずにジュールの話を聞いていた。話し終えたあとも、眉間の皺を深くしたまま、舞台背景のデザイン画を吟味するときのように長いこと黙っていた。目の前に置かれたピンクの薔薇の絵付きのカップが、ウィーン製であることに気がついて、ジュールの胸を不穏な影がよぎった。いやな予感がする。

「ありのままをお話しましょう」腰をゆっくりと上げながら、彼はやっと口を開いた。「いまのオペラ座は、スター・ダンサーの不足に苦しんでいます。私の前任のルイ・ヴェロンの急進的な施策の反動です。あなたも含め、ヴェロンとうまくいかなかったダンサーがみな国外に流出してしまった。看板のファニー・エルスラーもいつまで居てくれるかわからない。このままでは、ほどなく、オペラ座は危機的な状況を迎えるでしょう」

 売り込みをはじめたくなるのを懸命にこらえて、ジュールはデュポンシェルの次の句を待った。彼は窓際に立って、両手を腰の後ろに回しながら、パリの春の青空を仰いでいる。階下から、ヴァイオリンのいななきがかすかに聴こえてきた。教師がステッキで床を叩くリズム。固い爪先が床を蹴る音。フォワイエ・ド・ラ・ダンスで、若い女性ダンサー向けの昼のレッスンが始まったのだろう。

「マドモアゼル・グリジは、生まれたお子さんをかわいがっておられますか?」

 不意に話が飛ぶ。いささか面食らいながら、ジュールはつとめて明るく答えた。

「ええ。それはもう」

「それなら、それでいいのではないでしょうか」

 ジュールの怪訝な表情が窓ガラスに映ったのを確認したのだろうか。デュポンシェルはゆっくりと振り返り、ふたたび総裁席の椅子に腰を下ろした。そして口を開いた。

「最高の待遇でお迎えしましょう。ただし──欲しいのはあなただけです」

 呆然とした。デュポンシェルは、生まれつき眉が悲しげに寄っている男だ。表情がいまひとつ読み取れない。空転する頭をなんとか落ち着けようとしながら、ジュールはやっとの思いでこう返した。

「彼女はすぐれたバレリーナです。昨年のオーディションよりも、いまは格段に上達して……」

「ええ、ええ、存じています。ケルントナートーア劇場の評判はパリにも届いておりますよ。実をいうと、ウィーンにこっそり視察を送ったくらいです」

 薔薇の花びらの画が、カップの表面でつややかに光っている。

「もちろん、グリジ嬢は魅力的なバレリーナです。美少女だし、才能もある。しかし、オペラ座への入団となれば話は別です。世界一しつこいパリの新聞屋の目を出し抜いて、彼女の秘密を隠し切れますか? 彼女がフォワイエ・ド・ラ・ダンスで酒臭い客からちょっかいを出されても、黙って見ていられますか? 重々ご承知でしょうが、多少のことは我慢しなければやっていけないのがオペラ座ですよ」

 ことばが出ない。

「まあ、群舞からのスタートでいいなら考えなくもありません。いずれにしても、あなたと一緒に踊らせることはできません。いかんせん、格が違いすぎる。あなたの踊りのパートナーは、ベテランの女性ダンサーでなければなりません。いまならばエルスラー一択です」

 口調はごく事務的で物腰柔らかなのに、ひとことひとことがジュールを真正面から殴り、頭が真っ白になる。殴られるごとに、別の思惑が頭をよぎった。何を戸惑っているんだ。喜んで受けてしまえばいいじゃないか。おまえの目的はそもそもオペラ座に返り咲くことであって、彼女を育てるのはその手段に過ぎなかったはずだ。

 デュポンシェルはすべてを見透かすようにジュールを見つめている。

「グリジ嬢は引退して、妻になり、母になる。あなたは踊って、振付をして、妻子を養うために稼ぐ。いまの状況であれば、出世街道に乗って、ジョゼフ・マジリエに先んじてメートル・ド・バレエになれる可能性もあるでしょう。それが最良の選択だとは思いませんか?」

「最良……」そのことばの意味を確かめるように、つぶやきを漏らす。「これがグリジではなくタリオーニだったとしても、あなたはそれが最良とおっしゃるんですか」

 デュポンシェルの顔色がはじめて変わった。眉根の緊張がゆるんで、目がわずかに細くなった。ジュールに対して敬意を示すように。

「なるほど。タリオーニがあなたを買っていた理由をようやく理解できましたよ。オペラ座で実力も人柄も尊敬できるダンサーはジュール・ペローだけだ、ほかは誰も信用できないと漏らしていたものです。『悪魔のロベール』の頃からずっとですよ」

 知らなかった。タリオーニがそんなことを言っていたなんて。いまさらのように彼女に懺悔したくなった。『後宮の反乱』の初日の騒動のときに謝るべきは、彼女じゃなかった。自分だ。あのとき、ジョゼフとヴェストリス先生が止めてくれなかったら、間違いなく自分の拳は暴発していたのに。

 

 オペラ座の総裁室をすがすがしい思いで出たことは、団員だった頃からただの一度もない。

「冷静にお考えなさい。われわれがこの提案をできるのはいまだけですよ」

 そうまで言ってくれたデュポンシェルを振り切って、部屋を飛び出してしまった自分にジュールは愕然とした。いったい何をしているんだ。喉から手が出るほどほしかった切符を、本当に捨ててしまう気だろうか。

 足は、オペラ座の建物を正確に覚えている。

 無我夢中で階段を降り、廊下を歩いているうちに、フォワイエ・ド・ラ・ダンスにたどりついていた。レッスンは終わったらしく、すえた汗の匂いだけがかすかに漂っていた。ダンサーも教師も掃除人も誰もいない。

 ふいに、舞台に連結する上手側の渡り廊下の入口で、大きな影が動いた気がした。ダンサーか、それとも舞台係か。顔を隠すようにして、身をよじりながら半歩退く。だが、誰もやってくる様子がない。いぶかしんでいると、今度は下手側から気配がした。見ると、頭蓋が大きくひしゃげて、目をぱっくり見開いた青白い顔の紳士が、ステッキの先端を銃のようにこちらに向けている。

 吐き出しかけた息が、そのまま口元で凍りついたのは覚えている。だが、そのあとの記憶がない。気がついたときには、壁際まで逃げ込んでいた。動悸が心臓を破り、悪寒が吐き気のように喉を駆け上がる。低くかがめた背骨にバーが強く当たって、その衝撃で膝が崩れかけた。痛いのに、びっくりしすぎたせいで呻き声すら出ない。

 ところが、バーに片手をかけながらようやく身を起こすと、もうその紳士の姿は消え失せていた。

 亡霊のたぐいか。はたまた、年間予約席持ちの常連客か。しかし、いまはまだ昼過ぎで、フォワイエが客に開放されている時間ではないはずだ。不法侵入ならば、通報したほうがいいだろうか。

 ──いや、俺に関係のある話じゃない。

 ジュールは乱れた衣を整え、帽をふたたびかぶりなおして、オペラ座の楽屋口から表に出た。先ほど目撃した紳士の顔がジャン=ピエール・ダンタンの石膏像にそっくりだったと気づいたのは、オペラ座の前のパサージュで、ブティックのショーウィンドウに反射する自分の顔を見た瞬間だった。

 

※主要参考文献は<第1回>のページ下部に記載

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<第1回> イントロダクション──1873年
<第2回> 第1部 I みにくいバレエダンサー──1833年
<第3回> 第1部 II 遠き日の武勇伝
<第4回> 第1部 III リヨンの家出少年
<第5回> 第1部 IV オペラ座の女王
<第6回> 第1部 V 俺はライバルになれない
<第7回> 第2部 I 転落と流浪──1835年
<第8回> 第2部 II 救いのミューズ
<第9回> 第2部 III 新しい契約
<第10回> 第2部 IV “踊るグリジ”
<第11回> 第2部 V 男のシルフィード

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