毛利文香
静けさのなかの熱情【前編】

<Artist Interview>
毛利文香

静けさのなかの熱情 【前編】

text by 八木宏之
cover photo ©Andreas Malkmus

私は、その人でしか聴くことのできない音楽体験を与えてくれる演奏家が好きだ。ヴァイオリニストの毛利文香もそんなアーティストのひとり。毛利のヴァイオリンをなにより特徴づけているのは硬質で透き通るような音であり、その音はときに炎のように熱く、ときに氷のように冷たい。毛利の音はアンサンブルのなかでもはっきりと聴き分けられるほど、強い個性を持っている。毛利自身は絶えず冷静で、解釈も極めて理知的なのだが、そこに現れる音楽は次第に熱を帯びて高揚していき、聴き手は興奮の渦に包まれていく。それが毛利文香のヴァイオリン演奏なのだ。

プロコフィエフのふたつのヴァイオリン・ソナタを毛利の演奏で聴いたときも(ピアノは名手、實川風だった)、嵐のような激しい音楽のなかで毛利はひとり静かに佇んでいた。毛利の演奏にまだ触れたことのない人は、以下に挙げるモントリオール国際音楽コンクールの映像をぜひ観て欲しい。バッハでも、パガニーニでも、チャイコフスキーでも、シベリウスでも、毛利が音楽に溺れることは決してないが、聴き手は演奏の圧倒的な密度に呼吸や瞬きをするのも忘れてしまう。研ぎ澄まされたテクニックと正確無比な音程に裏付けられた毛利の「静けさのなかの熱情」は、とりわけパガニーニの《カプリス》第24番やシベリウスのヴァイオリン協奏曲の演奏を忘れ難いものにしている。

毛利のことを私に教えてくれたのも指揮者の坂入健司郎で(坂入の才能ある演奏家に対する嗅覚にはいつも驚かされる)、以来ソロでも室内楽でも、毛利の演奏を度々聴いてきたが、じっくりと話を聞く機会を持ったことは一度もなかった。今回、ドイツに拠点を置く毛利が一時帰国して、全国各地でリサイタルを行うタイミングで、これまでの歩みやドイツでの留学生活、これからのビジョンなどについて初めてインタビューする機会を得た。

父の勧めで手にしたヴァイオリン

――毛利さんがヴァイオリンを始めたきっかけから教えてください。

父は大学時代に学生オーケストラでヴァイオリンを演奏していて、大学卒業後は演奏からは離れましたが、ずっとクラシック音楽を好んで聴いていました。父がヴァイオリンを弾く姿を見たことはないのですが、私がヴァイオリンを始めたきっかけには父の希望もあったようです。私自身が「ヴァイオリンを弾きたい」と言った記憶はないので(笑)。 とはいえ、ヴァイオリンのレッスンが嫌になることはなかったですし、自然とヴァイオリンを続けることができました。

――お父様がヴァイオリンの扉を開いてくださったのですね。

私の父はヴァイオリンだけでなく、勉強など何事にも真剣なひとです。お母さんが子供のヴァイオリンに一生懸命というのはよくあることかと思うのですが、私の場合は父が熱心で、週末は父がずっと私の練習を見ていました。なので、父が仕事でいない平日は少し解放された気分でしたね(笑)。

――カルテットやトリオで共に活動するヴィオラ奏者の田原綾子さんとは、小学校の頃からの音楽仲間だと田原さんのインタビューで伺いました。

私は桐朋学園の子供のための音楽教室の横浜教室に通っていました。横浜教室は鎌倉教室の分校として始まった教室なので、おさらい会(発表会)は合同で行われていて、そこで鎌倉教室の田原さん(当時はヴァイオリン)とも知り合いました。私たちが小学校4年生のときには、恵藤久美子先生が弦楽アンサンブルの授業を始められて、それも鎌倉と横浜の合同授業だったので、その合奏を通して田原さんと仲良くなりました。とくにヴィヴァルディの《調和の霊感》のソリストを一緒に務めたことは良い思い出です。

――田原さんはこの弦楽アンサンブルのクラスが本当に楽しかったとお話しされていました。毛利さんにとってこの弦楽アンサンブルはどのようなものでしたか?

弦楽アンサンブルの授業は選択制だったのですが、父の勧めもあって参加することにしました。当初はそこまで積極的な生徒ではなかった私も、いざ合奏に参加してみるととても楽しかったですし、田原さんをはじめ周りの友人たちのこともアンサンブルを通してより深く知ることができました。
子供のための音楽教室は中学3年生で卒業になるのですが、優秀な成績だった生徒は浜離宮朝日ホールでの卒業演奏会に出演することができて、私の代では田原さんやピアノの反田恭平さん、五十嵐薫子さんなど今第一線で活躍している人たちが何人も出ていました。この卒業演奏会もとても記憶に残る経験でした。

©Hisashi Morifuji

ヴァイオリンと学問の両立を模索した10代

――毛利さんはその後桐朋学園のソリスト・ディプロマ・コースに進まれています。

私はヴァイオリンだけでなく、勉強も好きだったので、高校は洗足学園高校の普通科に進学して、同時に桐朋学園のソリスト・ディプロマ・コースにも通っていました。ソリスト・ディプロマ・コースでは、いしかわミュージックアカデミーをきっかけにレッスンを受けるようになった原田幸一郎先生に師事しました。

――高校生のダブル・スクールは大変だったのではないでしょうか?

高校は大学のように自由に時間割を組むことができないので色々な制約はありましたが、高校時代に桐朋学園で室内楽に取り組むことができたのは本当によかったですね。高校生のときに田原さんやヴァイオリンの山根一仁さん、チェロの上野通明さんと組んだカルテットは、エール弦楽四重奏団となって今でも演奏活動を続けています。

――大学は慶應義塾大学の文学部に進学され、ドイツ文学を専攻されました。音楽大学ではなく一般大学に進んでドイツ文学を専攻されたのはなぜなのでしょう?

すでに桐朋学園で勉強していたこともあって、なんとなく大学では音楽から少し離れたことを学びたいと思っていました。慶応義塾大学の文学部には美学美術史専攻もあって、音楽から美術まで幅広く芸術史を学べるのですが、美学美術史専攻もあえて選択しませんでした。ただ、ヴァイオリンで留学したいという希望はずっとあって、留学先として漠然とドイツをイメージしていたので、ドイツ文学を専攻したという側面もあります。ドイツ文学専攻にはクラシック音楽に造詣の深い先生もいらっしゃって、私の演奏会に来てくださり、ずっと応援していただいて、とても良い出会いに恵まれました。

――慶應義塾大学在学中には、指揮者の坂入健司郎さん率いる慶應義塾ユースオーケストラ(現在の東京ユヴェントス・フィルハーモニー)のゲスト・コンサートミストレスを務められています。

坂入さんと大学の学年は離れているのですが、ヴァイオリニストの大江馨さんが坂入さんの知り合いで、その縁で慶應義塾ユースオケのゲスト・コンサートミストレスをやって欲しいと声をかけていただきました。それで大学1年生のときに、ストラヴィンスキーの《プルチネッラ》などのプログラムで坂入さんと初めて共演しました。桐朋学園の子供のための音楽教室の弦楽アンサンブルで合奏は経験していましたが、大きな編成のオーケストラのコンミスを務めるのは初めてのことだったのでとても緊張しました。

――その後も度々坂入さんと東京ユヴェントス・フィルハーモニーと共演されています。

《プルチネッラ》の後、マーラーの交響曲第3番でもゲスト・コンミスに呼んでいただきました。《プルチネッラ》は比較的小さな編成ですが、マーラーは本当に巨大な音楽で、コンミスにたくさんソロがありますし、自分にとってはチャレンジングな体験でした。コンミスとして弾くソロは、ソリストとして弾くコンチェルトのソロとはまた違った難しさがあります。弾いていると100分があっという間に過ぎていき、このときの演奏会をきっかけにマーラーが大好きになりました。東京ユヴェントス・フィルにはソリストとしても呼んでいただいて、バルトークのヴァイオリン協奏曲第2番を共演しましたし、坂入さんとは川崎室内管弦楽団でも度々共演しています。

――東京ユヴェントス・フィルはメンバーのひとりひとりが本当に熱い想いを持ったオーケストラですよね。

東京ユヴェントス・フィルの団員の方たちは、平日、日中は音楽以外の仕事をしているアマチュアの演奏家ですが、時間が限られている分、本当に練習熱心で、音楽に対する愛情、音楽が好きな気持ちが演奏から溢れ出ています。そういう活気ある雰囲気が私は好きでしたし、一緒に演奏していてとても楽しかったです。

――毛利さんはオーケストラのなかでコンサートミストレスとして演奏することにも関心があるのでしょうか?

今はヴァイオリンのソロの勉強に集中して、レパートリーもどんどん増やしていかなくてはいけないなと思っているのですが、オーケストラも室内楽の延長線上にあるものですし、ソリストとしてコンチェルトを弾くときも、私は室内楽だと思って弾いているので、将来チャンスがあればオーケストラでの演奏も経験してみたいと思っています。

 

前編では、ヴァイオリンと学問の両立を模索した毛利の10代の歩みを掘り下げた。後編ではいよいよ、ドイツのクロンベルクアカデミーでの留学生活や室内楽の仲間たちへの想い、12月のリサイタルへの意気込みなど、毛利の今とこれからに迫っていく。

後編へつづく

毛利文香 Fumika Mohri
2012年に第8回ソウル国際音楽コンクールにて、日本人として初めて最年少で優勝。2015年に第54回パガニーニ国際ヴァイオリンコンクールにて第2位およびエリザベート王妃国際音楽コンクールにて第6位入賞。2019年にモントリオール国際音楽コンクールにて第3位入賞。これまでに、川崎市アゼリア輝賞、横浜文化賞文化・芸術奨励賞、京都・青山音楽賞新人賞、ホテルオークラ音楽賞を受賞。
ソリストとして、神奈川フィル、東京フィル、東京シティ・フィル、東京交響楽団、群馬交響楽団、大阪交響楽団、韓国交響楽団、ベルギー国立管、クレメラータ・バルティカ、ヨーロッパ室内管など、国内外の主要なオーケストラと共演を重ねるほか、サー・アンドラーシュ・シフ、アブデル・ラーマン・エル=バシャ、タベア・ツィンマーマン、イリヤ・グリンゴルツ、堤剛、今井信子、伊藤恵などの著名なアーティストとの共演も数多い。また、宮崎国際音楽祭、武生国際音楽祭、イタリア・チェルヴォ音楽祭、クロンベルクアカデミー・フェスティバル、ラ・フォル・ジュルネ、シャネル・ピグマリオン・デイズ等に出演。
ヴァイオリンを田尻かをり、水野佐知香、原田幸一郎に師事。桐朋学園大学音楽学部ソリストディプロマコース、及び洗足学園音楽大学アンサンブルアカデミー修了。慶應義塾大学文学部卒業。2015年よりドイツ・クロンベルクアカデミーを経て、現在はケルン音楽大学でミハエラ・マーティンに師事している。
トリオ・リズル(弦楽三重奏)、エール弦楽四重奏団のメンバーとしても活躍している。
https://www.fumikamohri.com
https://www.novellette-arts.com/fumika-mohri

公演情報
毛利文香 ヴァイオリン・リサイタル
2022年12月1日(木)18:30開演
クリエイティブ・スペース赤れんがホールII
公演詳細:https://concert-search.ebravo.jp/concert/164413

2022年12月3日(土)15:00開演
芦屋 アマックホール
公演詳細:https://www.kojimacm.com/digest/221203/221203.html

2022年12月5日(月)19:00開演
トッパンホール
公演詳細:https://www.toppanhall.com/concert/detail/202212051900.html

毛利文香(ヴァイオリン)
原嶋唯(ピアノ)

ベートーヴェン;ヴァイオリン・ソナタ第10番 ト長調 Op.96
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト短調 Op.27-1
ブロッホ:ヴァイオリン・ソナタ第2番《神秘の詩》
フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調

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