坂入健司郎×大阪交響楽団
ブラームス交響曲全曲演奏 第1回演奏会を振り返る

坂入健司郎×大阪交響楽団

ブラームス交響曲全曲演奏 第1回演奏会を振り返る

text by 八木宏之
cover photo by 樋川智昭

プロのオーケストラとブラームスを演奏するということ

2022年春の発表以来、FREUDEが特集し続けてきた箕面市立メイプルホール(大阪府)『坂入健司郎×大阪交響楽団 ブラームス交響曲全曲演奏』。3年をかけて行われるこのプロジェクトの第1回演奏会が9月15日に行われた。

坂入のような若い指揮者にとって、プロのオーケストラとブラームスの交響曲、それも4曲全てを演奏することは、大きな挑戦である。プロのオーケストラ・プレイヤーはそのキャリアのなかで、ブラームスの交響曲を何十回、何百回と演奏する。彼らは自分のパートだけでなく、スコアの隅々まで把握し、どうすれば演奏がうまくいくのかを知り尽くしているのだ。そうした匠の技はオーケストラで長い時間演奏するなかで培われていく。

プロになって間もない若手指揮者は、自分よりもはるかに多くの回数演奏を重ねてきた音楽家たちを前に自分のブラームス像を語り、それを具現化していかなければならない。指揮者がどんなに若くとも、どういう演奏にするのかを決めるのは指揮者である。リハーサルでは、指揮者がなにを語るのか、オーケストラはじっと耳を傾け、指揮者の一挙手一投足を注意深く見つめている。指揮者の作品解釈が説得力あるものでなければオーケストラはついてこない。指揮者の言葉に曖昧な部分があれば、オーケストラの名人たちは鋭い質問を投げかける。

第1回演奏会で取り上げられた交響曲第1番は、ブラームスの交響曲のなかでもとりわけ演奏される機会の多い人気曲である。その分、オーケストラにも聴き手にも、作品に対する各々のイメージがあって、指揮者がオリジナリティを示すのは容易ではない。私はゲネプロ(本番前の最終リハーサル)から立ち会ったが、ゲネプロの段階でもまだ、坂入はいかにして自分の思い描くブラームスを実現するか悩んでいた。私と坂入は10年来の友人であり、坂入と東京ユヴェントス・フィルハーモニーのリハーサルには幾度か立ち会ったこともあったが、彼がプロのオーケストラを前にリハーサルする姿を見たのは今回が初めてだった。大阪響の前に立ってブラームスと格闘する友人の姿を見て、指揮者とは本当に孤独な仕事なのだと改めて思い知った。

今回は、ブラームスの交響曲第1番のほかに、モーツァルトの《魔笛》序曲とシューベルトの交響曲第5番も演奏されたが、これら2曲では、坂入はとてもリラックスした表情でリハーサルを進め、オーケストラとの対話を楽しんでいた。坂入のそうした様子の違いからも、ブラームスの交響曲を指揮することがどれほど大きな仕事なのか窺える。

坂入健司郎と大阪交響楽団©︎樋川智昭

今この瞬間にしか聴くことのできない音楽

迎えた本番。メイプルホールはほぼ満席となった。2021年6月にメイプルホールでベートーヴェンの交響曲第7番を指揮し、関西プロ・デビューを成功させた坂入に対する箕面市民の期待は大きい(そのときのオーケストラも大阪響)。コンサートの冒頭を飾る《魔笛》序曲は引き締まったテンポながら、オーケストラをしっかりと鳴らして、ドイツ音楽らしい奥行きのある響きを作り出していく。坂入が「ドイツ・オーストリア音楽とはなにか」という問いをテーマに掲げるツィクルスの始まりに相応しい演奏である。続くシューベルトの交響曲第5番は坂入のお気に入りの作品で、フレーズの処理のひとつひとつに坂入の細かなこだわりが感じられる。なにより印象的なのは、モーツァルトとシューベルトでオーケストラのサウンドがまるで違うこと。坂入はシューベルトからは19世紀ウィーンの退廃的な香りを引き出して、前世紀の《魔笛》とのコントラストを際立たせていた。坂入はモーツァルトとシューベルトで自身のやりたいことをしっかりと実現できたようだ。

後半はいよいよブラームスである。坂入がタクトを振り下ろすと、ティンパニの連打で名高い序奏が始まる。前半のモーツァルトやシューベルトと比べると、音楽が明らかに硬い。やはり若い指揮者にとって、ブラームスの交響曲で自分のイメージする響きをオーケストラから引き出すのは難しいのか。そう思ったときだった。音楽が展開部に入ると様子が明らかに変わる。サウンドがモノクロからカラーになり、オーケストラのテンションがどんどん高まっていく。いよいよ再現部に差し掛かるところで頭を殴られたような凄まじい音がした。坂入のブラームスのイメージとオーケストラのそれとが重なった瞬間だった。荒削りではあるけれど、今この瞬間にしか聴くことのできない音楽。それ以降はオーケストラもより柔軟になり、ニュアンスもどんどん豊かになっていった。最終楽章でも大きなクライマックスを形作り、会場は大いに沸いた。あの第1楽章の展開部から再現部に至る時間、坂入は確かになにかを掴み取ったように思う。細部まで整った演奏ではなかったかもしれないけれど、坂入と大阪響のブラームスはポジティブなエネルギーに満たされていた。

坂入健司郎と大阪交響楽団©︎樋川智昭

明るいサウンドを持つブラームス

ここまで、私があの日会場で体験したことを書いてきたが、FREUDEは、公演に来場した音楽評論家や、ステージで演奏に参加したオーケストラのメンバーなど計10名にもアンケートを実施した。3年をかけて行われる全4回の演奏会で、坂入とオーケストラの演奏にどのような変化が起きるのかを、私だけでなく、より幅広い視点で記録しておくためのアンケートである。前述のように私は坂入の友人でもあり、客観的なリポートを実現するには、第2、第3の視点が必要不可欠であった。また、演奏に対する専門家のさまざまな意見を、好意的なものから厳しいものまで併せて紹介することは、公演リポートをより立体的なものにするうえで効果的だろう。今回の坂入の挑戦を文字にして記録するうえで、ひとつの視点から語られる従来の演奏会批評とは異なる手法をとってみたかったのだ。

まず、ブラームスのサウンドはどのようなものだったか。アンケートでは坂入と大阪響のブラームスの演奏について、サウンドの「明るさ、暗さ」と「軽さ、重さ」についてそれぞれ10段階でもっとも当てはまると思う数値を選択してもらい、演奏について感じたことも自由に書いてもらった。アンケートを集計してみると、サウンドの「軽さ、重さ」については軽いと感じた人と、重いと感じた人が同数程度いて、平均値はほぼ中央を指していたが、「明るさ、暗さ」については多くの人が明るいと答え、その平均値は「最も暗い」を0として「最も明るい」を10としたところの6.9となった。坂入のブラームス演奏がはっきりと明るいサウンドを持っていたことがわかる。抽象性の高い音楽芸術において、聴いて感じたことを数値化することは難しい部分もあるが、あの日どんな音が鳴っていたのかを記録するうえでは一定の価値があるだろう。

ブラームスの交響曲というと、重く暗いサウンドをイメージしがちだが、そうしたブラームス演奏のスタイルは20世紀に形作られたものであり、ブラームスの生前の演奏はよりコンパクトなものだったと考えられている。坂入はこのツィクルスを始めるにあたり、初演当時の編成(今日の室内オーケストラに近い)や美意識に立ち返って、スコアに書かれていることを丁寧に紐解いていきたいと語っていた。上のアンケートの数値が示す「明るいブラームス」は、坂入が目指したものと矛盾しないものだろう。この演奏会でコンサートミストレスを務めた林七奈も「今回の演奏は今まで弾いてきたブラームスよりも軽く、すっきりとしたイメージで、音の処理の仕方、フレーズの捉え方など、随所に軽さが見られ、これまでのブラームスの交響曲第1番の概念を覆すものだった」と語っている。

坂入健司郎と大阪交響楽団©︎樋川智昭

さまざまな視点から

中村孝義(音楽評論家)は、モーツァルトの《魔笛》序曲について「奇抜なことをして人を驚かせようとすることは一切避け、メリハリを明快にしてこの作品の均整のとれた造形をくっきりと描き出そうという誠実さを感じた」と評価し、ブラームスについては「作品の複雑さを整理し、見通しよくきっちり仕上げた好演だったが、響きはブラームスにしては明るく軽すぎるという感もあり、いささか整理され過ぎてやや窮屈にも感じた」と課題を挙げ、次回の演奏会では「堅固な造形をベースに音楽とオケをより自在に羽ばたかせる」ことを期待すると記している。

伊東信宏(音楽評論家)も坂入の演奏の息の浅さや、弱音、無音を活かしきれていない点を課題に挙げ、小味渕彦之(音楽評論家)は「“若々しい覇気”と創造的演奏への“意欲”が強く感じられ、音楽の自然な流れがあったものの、オーケストラが“うねり”をもって、自発的に動き出すまでには至らなかった」と振り返った。

坂入にとって2度目となるプロ・オーケストラとのブラームスの交響曲第1番は(1回目は2022年4月29日の読売日本交響楽団甲府公演)、坂入のブラームスに対するビジョンがはっきりとかたちになった一方で、若手指揮者ゆえの課題も浮かび上がらせたということだろう。もがきながらも自らの思い描くブラームスを実現した坂入が、悪戦苦闘しながら交響曲第1番を書き上げた作曲家の姿と重なって、私自身は心を打たれたが、中村、伊東、小味渕各氏の指摘もあの日の演奏の真実を真摯に言語化したものだと感じる。

「ブラームスのテクスチャを丁寧に味わっていたら、言葉の解釈を紡ぐ間もなくいつの間にかコンサートが終わっていた」という長谷川諒(音楽教育学者)の証言も、この公演に対する誠実な振り返りのひとつ。長谷川はこの日の時間経過の感覚をシーシャ(水タバコ)バー、瞑想、サウナでの外気浴に例え、「言葉での解釈が起きる間もなく圧倒的な非言語情報にさらされる」ことこそがオーケストラを聴くことの醍醐味だと記している。

こうしてさまざまな意見が飛び交うのもクラシック音楽の面白さではないだろうか。奥田佳道(音楽評論家)の「指揮者の作品に寄せる愛と真摯な眼差しが、想いばかりでなく実際の音に現れていて、この先が本当に楽しみ」という言葉は、今回の演奏を聴いた全てのひとに共有された思いのはず。ツィクルスはまだ始まったばかりだ。残り3回の演奏会で、坂入の音楽がどのように変化し、大阪響がそれにどう応えていくのか。FREUDEは最後までその行方を追い続けていく。

坂入健司郎と大阪交響楽団©︎樋川智昭

公演情報

《身近なホールのクラシック》ブラームス交響曲全曲演奏会
箕面市立メイプルホール 大ホール(大阪府)
坂入健司郎指揮 大阪交響楽団

Vol.1 2022年9月15日(木)
モーツァルト:歌劇《魔笛》序曲
シューベルト:交響曲第5番 変ロ長調
ブラームス:交響曲第1番 ハ短調
ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウス:ピチカート・ポルカ(アンコール)
→本記事でリポートした演奏会(公演終了)

Vol.2 2023年4月28日(金)
メンデルスゾーン:《真夏の夜の夢》序曲
モーツァルト:交響曲第35番 ニ長調《ハフナー》
ブラームス:交響曲第2番 ニ長調
→第2回演奏会のチケット一般発売開始は2023年2月16日(木)
https://minoh-bunka.com/2022/11/02/20230428-brahmssymphony/

Vol.3 2023年10月27日(金)
ブラームス:《ハイドンの主題による変奏曲》
ハイドン:交響曲第88番 ト長調《V字》
ブラームス:交響曲第3番 ヘ長調

Vol.4 2024年4月~5月
J.S. バッハ/ストコフスキー編:平均律クラヴィーア曲集 第1巻-第24番 前奏曲
ドヴォルザーク:ヴァイオリン協奏曲 イ短調(ヴァイオリン独奏:石上真由子)
ブラームス:交響曲第4番 ホ短調

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