『古楽の終焉
HIP〈歴史的知識にもとづく演奏〉とはなにか』

<Review>
『古楽の終焉
HIP〈歴史的知識にもとづく演奏〉とはなにか』

『古楽の終焉
HIP〈歴史的知識にもとづく演奏〉とはなにか』
ブルース・ヘインズ 著
大竹尚之 訳
アルテスパブリッシング 2022年
原書:The End of Early Music: A Period Performer’s History of Music for the Twenty-First Century(Oxford University Press 2007年)

text by 柴田俊幸

古楽はクラシック音楽に喧嘩を売った?

「HIPとはアンチ・クラシックである」

そう書いたのは、この本の著者であるブルース・ヘインズである。なるほど、古楽というジャンルが生まれてからというもの、バッハでヴィブラートをかけることは禁止され、ベルギーでもモーツァルトの交響曲を現代のオーケストラで演奏することが禁止されるかもしれないと、音楽家たちがビクビクした時代があった。我々古楽器奏者たちはクラシック業界の乗っ取りを狙っているのだろうか?

ヘインズがこの本で指摘したのはそこではない。ロマン主義時代のフランス革命や産業革命後に発生したクラシック界の「正典主義」、つまりクラシックの「グレイテスト・ヒット集」の誕生、そしてそれを書いた「天才作曲家=英雄たち」への崇拝が、西洋の音楽のあり方を変えてしまった、ということだ。

ベートーヴェンの《第九》ヘンデルの《メサイア》など、限られた数の作品を繰り返し聴くという習慣、バッハやモーツァルトに装飾を入れるのはタブー、または音楽院で学ぶことそのものがこの正典主義の賜物である。「同じ200本の映画だけを繰り返し映画館で上演する。お客は来るのだろうか?」とヘインズは読者に問う。なぜクラシックのファンはこれでもの足りるのだろうか?

ロマン主義時代に起こった革命以前のクラシック音楽シーンは、現代人が思うそれとはだいぶ乖離がある。というのも、ポップスと同じように、演奏されたあと後世に曲が残り、再演されることを前提とせずに書かれていたからだ。当時の演奏会の主権は観衆にあり、音楽家にはない。音楽家の社会的身分は観衆よりも低く、あくまでも「召使い」なのだ。芸術性が高いものをひたすら演奏し、お客を置いてきぼりにする、そんなコンサートが連発される今日のクラシック界のあり方は、果たしてサステイナブルといえるのであろうか?

ミイラ取りがミイラになった「古楽」

なるほど、古楽復興運動は歴史的な演奏習慣の研究だけではなく、当時の正典主義に対するカウンタームーヴメントだったのだ。ところがどうだろう。クラシック界の革命を担ってきた我々、古楽の人々が、今度はこの正典主義の恩恵を受けようとしているのではないだろうか?

当時の楽器や奏法について研究し、演奏習慣の再発見を行っていったHIP。当時のいわゆる「モダン」楽器を教えていた音楽院の教授陣たちからは多くの批判があった。ヘインズはそれに対し、「現代のグランドピアノでバッハのチェンバロ協奏曲を弾くのは、ブラームスのピアノ協奏曲をチェンバロで弾くよりも馬鹿げているだろうか?」とHIPのコンセプトを擁護する。

一方で、我々HIPの人種は「オーセンティック」という言葉のもと、当時の演奏法をコピーすることに躍起になる。しかしこのオーセンティック運動自体がパラドックスである。「全部透明な事実はない」――これはシューベルト研究で著名な堀朋平氏の言葉だ。なにより「オーセンティックだ」と口に出した時点で、それは主観を含むのものである。

大体、即興自体が古楽の精神に限りなく近いことを、現代の音楽家も観衆も忘れている。ヨーロッパ全土に産業革命が広まり、メンデルスゾーンなどロマン派の作曲家たちが台頭してくる頃まで、作曲家と演奏家は「≒」の関係だった。つまり、みんなインプロ(即興)ができたのである。

歴史的に見ても、真に正確な態度というのは、オーセンティックであろうとする「試み」であり、仮説にもとづいた過去の演奏を再生するという行為そのものが、「オーセンティック」ではないのだ。

古楽はクラシック界の救世主たりえるか?

ブルース・ヘインズ(1942 – 2011年)

我々クラシック音楽家たちは、バロック時代の習慣に戻ることはできるのか? 戻る必要はあるのか? 「修辞学的音楽の時代に演奏家が自動装置のように何も加えず演奏した、と私はいうつもりはない。むしろその逆だ」とヘインズはいうが、現代の古楽界の演奏を聴いてヘインズは悲しむだろうか? コンクールも増え、いびつだが美しい物語ストーリーよりも安定性をよしとする21世紀の音楽界の風潮の中で、彼は一体何を思うのか。

おそらく、我々はいい意味で裏切っていると思う。隙間産業であった古楽がクラシック業界に進出し、パトリツィア・コパチンスカヤ、イザベル・ファウストなどのソリストがHIPの語法に歩み寄り、古楽のスターたちとコラボ。ジョン・エリオット・ガーディナーがベルリン・フィルを振り、サイモン・ラトルが古楽オーケストラを振る。古楽器オーケストラが古典と現代曲を一緒に演奏する演奏会が出てくるなど、HIPのスタイルがクラシックの響きを変容させ続けている。フランソワ=グザヴィエ・ロトとケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団によるブルックナーの交響曲第4番の演奏会も記憶に新しい。

ヘインズが2000年に古楽の終焉を宣言した後も、古楽は全世界で生き続け、いまやクラシック音楽の中でなくてはならない存在になっている。古楽とは芸術であり、学問でもあり、社会運動でもある。それを改めて教えてくれるのがこの本であった。マンネリ化したクラシック界の起爆剤になると信じたヘインズの、未来へメッセージなのだ。

残念なことにヘインズ本人もこの本に一つのパラドックスを残した。当時のフレージングなどについて、細かい例証をまとめて残したことで、これらの演奏法を「正典」として信じる読者が出てくることである。

ニコラウス・アーノンクールは「真に歴史的な演奏とは(作曲家の)亡霊に話しかけることだ」といった。我々もこの本を通してヘインズと語り合い、古楽、いや音楽界の未来について考えようではないか。全ては、観衆の心を動かす演奏をすること、つまり彼が著書にまとめた修辞学の創作手順の5つ目、音楽を観衆に「デリヴァリー」するために!

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