FREUDE試写室 Vol.9
『彼女のいない部屋』

FREUDE試写室 Vol.9

『彼女のいない部屋』

text by 有馬慶

ピアノが象徴するもの

主人公のクラリスはひとり車を走らせている。場所はフランスの地方都市らしい。彼女は家族を捨てて家出してきたようである。

本作の監督はフランス映画界の名優として知られ、『さすらいの女神たち』でカンヌ国際映画祭監督賞などを受賞したマチュー・アマルリック。主演は『ファントム・スレッド』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)や『オールド』(M・ナイト・シャマラン)などに出演のヴィッキー・クリープス。映画資料に記されたあらすじは「家出をした女性の物語、のようだ」の一言だけで、フランスでの公開時にも物語の詳細は伏せられていたという。ここでも物語の核心に触れることは避けるよう努めるが、気になる方は鑑賞後にお読みいただければ幸いである。空想と現実を区別なくワンショットで納めてしまう映像の手際良さや、「あえて」前半で真実の断片を提示して見せる構成の巧みさなど興味深い要素はたくさんあるが、そうした側面についてはプログラムのインタビューにて監督自身が詳細に語っているため、ぜひそちらを参照いただきたい。

© 2021 – LES FILMS DU POISSON – GAUMONT – ARTE FRANCE CINEMA – LUPA FILM

「FREUDE試写室」では『彼女のいない部屋』の音楽について掘り下げることにする。本作に登場する音楽はほとんどがピアノ曲である。その理由はクラリスの娘リュシーがピアノを弾く設定だからなのだが、ピアノという楽器が持つ特性に注目してみよう。まず、ピアノは家庭において最も身近な楽器であり、親が子供に与えるものだということである。それは親と子の結びつき、さらには親が子を支配する関係を象徴する。例えば、クラリスはリュシーに音階練習をやめさせ、ドビュッシーの《子供の領分》の「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」(クレメンティの練習曲をパロディ化した曲)を弾かせる。また、クラリスがマルタ・アルゲリッチのドキュメンタリーを観ると、その後のシーンではアルゲリッチそっくりの恰好をしたリュシーが登場する。いずれも空想のなかでの話なのだが、ピアノを通して母は娘を支配しているように見える。

それと同時にピアノはひとりで演奏できるため、自らの内面を吐露する独白としても機能する。もちろんヴァイオリンやフルートにもソロの曲はあるが、多くは他の楽器との共演が前提となっている。クラシック音楽においてはポリフォニーが重要であるため、同時に多くの音を鳴らすことができるピアノは自己完結しやすいのである。本作の後半でリュシーがリゲティの練習曲を弾く場面が2度出てくる(やはり空想のなかだからこんな曲もバリバリ弾けちゃうのである)。1度目は新しいピアノの試し弾きをする場面。2度目は弟との喧嘩の後の場面。前者は湧き上がる喜びに任せて指を躍らせているのに対し、後者はやり場のない憤りを鍵盤に思い切りぶつけている。その様は既存の曲を弾いているのではなく、まるで彼女自身が即興で演奏しているかのようである。いずれも同じ作品を演奏しているのだが、映画における音楽の引用でこれほど幅広いニュアンスを表現してみせた例を他に知らない。

©Roger Arpajou – 2021 LES FILMS DU POISSON – GAUMONT – ARTE FRANCE CINEMA – LUPA FILM

結局、リュシーはピアノをやめてしまうようである。それは単にピアノを弾くことをやめたという以上に、母の支配からの独立(=親離れ)を示している。だが、それもあくまで母である主人公の空想であるため、正確には子離れ(=過去への執着からの訣別)を意味している。

音楽家を描いた作品を除いてピアノが出てくる映画と言えば、私は是枝裕和監督の『そして父になる』や黒沢清監督の『トウキョウ・ソナタ』を思い出す。前者は父と子の関係性において、後者は子が自立する過程においてピアノが象徴的な役割を果たす。『彼女のいない部屋』は、ピアノが全編にわたってストーリーとより有機的に結びついている点で、ピアノが鍵となる映画の新たな傑作だと言えるだろう。


映画『彼女のいない部屋』
8月26日(金)よりBunkamura ル・シネマほか全国順次公開

原題:SERRE MOI FORT /英語題:HOLD ME TIGHT
監督: マチュー・アマルリック
出演:ヴィッキー・クリープス、アリエ・ワルトアルテ
2021年|フランス|97分|DCP|1:1.85 ビスタサイズ|5.1ch|カラー|一般 G
日本語字幕:横井和子 配給:ムヴィオラ
© 2021 – LES FILMS DU POISSON – GAUMONT – ARTE FRANCE CINEMA – LUPA FILM
公式サイト:https://moviola.jp/kanojo/#

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