アリス=紗良・オット『Echoes Of Life』
自身の人生を振り返る心の旅で見えたもの

<Review>
アリス=紗良・オット『Echoes Of Life』

自身の人生を振り返る心の旅で見えたもの

text by 原典子
写真提供:ジャパン・アーツ

ショパン《24の前奏曲》と7つの現代作品を
映像と演奏のコラボレーションで

ピアニストのアリス=紗良・オットは近年、クラシック音楽を日常的に聴く人々だけでなく、より広く若い層に届けるべくクリエイティヴな活動に情熱を注いできた。昨年、アルバム『Echoes Of Life エコーズ・オヴ・ライフ』をリリースしたときのインタビューで、「もう“普通”のコンサートはやらない」と宣言していたが、その言葉どおりのステージがこのたび実現した。建築家のハカン・デミレルがデザインした映像と演奏によるコラボレーション。5月30日のサントリーホール公演の模様を振り返る。

アルバムと同じく『Echoes Of Life エコーズ・オヴ・ライフ』と題されたリサイタルは、ショパンの《24の前奏曲 作品28》に、7つの現代作品を挟み込む構成となっており、それら7作品には、アリスのこれまでの人生を物語る副題がつけられている。

私にとって《24の前奏曲》は、人生そのものを表わしているように感じられます。24曲それぞれが違った個性を持ちながら、ひとつの大きなまとまりとして存在している。それは、そのまま人生に置きかえられるのではないでしょうか。ひとつの事象が起きて、その事象が次の出来事の前奏曲になる。人生ってそういうことの繰り返しで、ときには行き止まりに突き当たることもあるし、予定していた道とは反対の方向に進むこともある。人生で起きるいろいろな変化、その瞬間瞬間が《24の前奏曲》のなかにリフレクション(反映)されているような気がします。

今回のプログラムでは、この《24の前奏曲》と、私の人生の場面を象徴する7つの現代作品を並べて演奏することで、音楽同士が相互に関係し合い、“Echoes Of Life =人生のこだま”として現代を生きる我々に語りかけてくれることと思います。皆さんもご一緒に、心の旅をお楽しみください」

いつものように裸足でステージに登場したアリスは、リラックスした雰囲気でそのように説明して、70分にわたる旅がスタートした。

抽象とも具象ともつかない
いつか夢で見た風景のよう

照明をすべて落とした暗闇で、アリスは盟友のフランチェスコ・トリスターノが書き下ろした《イン・ザ・ビギニング・ワズ》を弾きはじめる。ステージ後方に設置された大型スクリーンに映し出されたのは満天の星が輝く夜空。曲が進むにつれ星の数が増え、疾走感とともに天の川が横たわる宇宙空間へと吸い込まれていく。

一転して真っ白な光のなか、《24の前奏曲》の第1番へ。スクリーンには2つの四角形が現れ、それらが窓とドアのように見えたり、窓の外に木の影が揺らめいたり、第4番まではアブストラクトな映像が提示される。

突然の激しい響きとともに「インファント・レベリオン 幼い反乱」という副題がつけられたジェルジュ・リゲティの《ムジカ・リチェルカータ第1曲》。薄明かりに扉が浮かび上がり、新しいフェーズへと足を踏み入れていく。

ふたたび《24の前奏曲》に戻り、第5番から第9番では廊下を進んでいく映像が展開する。両サイドに柱がそびえ立つ、西洋の石造りの建物。今回のプロジェクトは、アリスが『Echoes Of Life エコーズ・オヴ・ライフ』のアルバムを発表したあとに建築家のハカン・デミレルと知り合い、3ヶ月にわたって毎日会話を続け、彼の映像チームとともに何ヶ月もかけて作り上げたのだという。「自分の心のなかに没入する」というアリスの言葉どおり、抽象とも具象ともつかない不思議な空間は、いつか夢で見た風景のようだ。

廊下を進んだ先に、水をたたえた円形の空間が現れる。優美なニーノ・ロータの《ワルツ》は、この流れのなかで聴くとショパンとの境目がわからなくなる。水面を漂う小舟に乗っている人影はアリス? 世界がすべて薔薇色に見えていた青春時代のノスタルジーにひたる、憩いのひととき。

次の《24の前奏曲》第10番から一気に物語が展開する。無限に本が並ぶ巨大な書庫が出現し、そのなかをゆっくりと移動していく。一冊一冊の本には、その時代を生きた人々の人生と叡智が刻まれている。第15番《雨だれ》のフォルティッシモに合わせて、書庫を映し出すカメラは下へ、下へと潜っていく。それは歴史という時間軸を過去へと遡っていくかのように見える。クラシック音楽がそうであるように。

書庫、石庭、泉、聖堂
それぞれが象徴するもの

書庫から外に出て、「ノー・ロードマップ・トゥ・アダルトフッド(道しるべのない大人への旅」と副題がつけられたチリー・ゴンザレスの《前奏曲 嬰ハ長調》へ。続く《24の前奏曲》第16番から第18番までは、森のなかを彷徨ったり、迷路に入り込んだり、暗いトンネルを抜けたりと、まさに道しるべのない旅の光景が描かれる。

やがて、石のある小さな中庭へとたどり着く。周囲の白い西洋的な建物とは雰囲気を異にしており、日本の石庭のようだ。というところで、今演奏されている曲が武満徹の《リタニ 第1曲》だと気づく。アリスはこの曲に「アイデンティティ」という副題をつけた。ドイツ人と日本人の両親のもとに生まれ、自身のアイデンティティの在処を探し続けてきた彼女にとって、「西洋音楽のなかに日本的な要素を入れた武満さんもまた、自身のアイデンティティを模索し、格闘し、獲得した作曲家」なのだとアリスは語る。

《24の前奏曲》第19番と第20番では雨が降りだし、小さな円形の泉が現れる。泉の奥底に向かって螺旋階段が伸びており、一歩一歩降りていくにつれ、水が引いていく。薄暗い階段を降りた先、湖の底にあるのは、真の暗闇。絶望的な和音が鳴り響き、アルヴォ・ペルト《アリーナのために》のガラス細工のような音が空間に飛び散っていく。全神経を集中しないと聴き落としてしまうようなこの作品は、アリスが多発性硬化症と診断された時期の状態に似ているのだという。

《24の前奏曲》第21番から第24番ではふたたび光が差し込み、旅の終着地へと到達する。大きな教会の聖堂のような空間で、第24番は華麗に力強く、それでいて現代的な軽やかさをもって飛翔する。最後の低音が3つ打ち鳴らされたところで、聖堂の中心へ。ラストはモーツァルト《レクイエム》のラクリモーサをもとにアリスが作曲した《ララバイ・トゥ・エターニティ》。映像は聖堂の天井から夜空に昇ってゆき、ふたたび星々が瞬く宇宙へと還って、終わりを迎えた。

アルバム『Echoes Of Life エコーズ・オヴ・ライフ』と同じプログラムだが、アルバムで聴いたときよりも、《24の前奏曲》と7つの現代作品との間がシームレスになり、すべてが自然に一体となって聴き手に届けられたのが印象的だった。リリースからときを経て、映像というもうひとつの要素が加わり、ツアーで旅をするうち、演奏もより深く変化していったのだろう。

人はこの世に生を享けた瞬間から、死に向かって1秒1秒進んでいく――。サントリーホールにいたすべての聴衆が自身の心の旅を体験した70分。私の頭のなかにはこんな言葉が浮かぶと同時に、だからこそ、時間の芸術である音楽は美しいのだとあらためて感じたひとときだった。

 

アリス=紗良・オット オフィシャル・サイト
https://www.alicesaraott.com/

ジャパン・アーツ
https://www.japanarts.co.jp/artist/alicesaraott/

ユニバーサル ミュージックジャパン
https://www.universal-music.co.jp/alice-sara-ott/

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