箕面市立メイプルホール(大阪府)
坂入健司郎×大阪交響楽団『ブラームス交響曲全曲演奏』完結
指揮者の飛翔を目撃する【前編】
text by 八木宏之
photo by 樋川智昭
2022年9月15日にスタートした箕面市立メイプルホール(大阪府)の一大プロジェクト、坂入健司郎×大阪交響楽団『ブラームス交響曲全曲演奏』は、第2回演奏会(2023年4月28日)、第3回演奏会(2023年10月27日)を経て、2024年6月21日の第4回演奏会で無事完結した。本人がインタビューで認めているように、プロの指揮者として活動を開始して間もなかった坂入にとって、2022年9月の第1回演奏会は難しい挑戦であった。手探りのなか、若き指揮者は百戦錬磨のプロのオーケストラに全力でぶつかり、会場を沸かせる熱演を披露した。演奏会は間違いなく成功だった。しかし、坂入はこの結果に満足せず、第1回演奏会から貪欲に学んで、第2回、第3回で飛躍的に成長を遂げた。オーケストラとのコミュニケーションやリハーサルの進め方は、若手指揮者の誰もがぶつかる壁だが、坂入は誠実な態度で大阪響と向き合い、演奏家たちの信頼を得ていった。
指揮者は若手であっても「完成」していることが求められる職業である。実際には、プロのオーケストラと仕事をし始めて間もない20代、30代の指揮者と、豊富な演奏経験を誇る50代、60代の指揮者が同じように振る舞えるわけはないのだが、指揮台に立つ以上、両者は同じように扱われる。若い指揮者は自分よりもはるかに多い回数、その作品の演奏を重ねているオーケストラに対して、彼らが納得するビジョンを示さなければならない。僅かな隙も見せてはならない。指揮者の言動に少しでも矛盾があれば、オーケストラはそれを見逃さず、鋭い指摘が飛んでくる。指揮者たちは皆、キャリアの初期に多かれ少なかれ、オーケストラに揉まれ、失敗も経験している。しかし、そうした指揮者の修行が音楽ファンの前に可視化されることはほとんどない。指揮者は常に「完成」した存在であり続け、指揮者の成長プロセスは秘密のヴェールに包まれている。
そうした点で、箕面のブラームス・ツィクルスは画期的であった。坂入の指揮者としての成長はこのプロジェクトの大きなテーマであり、オーケストラ、ホール、そして聴衆がそれを見守り、支えた。FREUDEはその記録者であった。坂入は虚勢を張ることなく、謙虚にオーケストラと向き合い、自身の成長を隠そうとはしなかった。第4回演奏会のゲネプロで、限られた時間を有効に使いながら、演奏の細部を整えていく坂入の頼もしい姿は、プロジェクトに携わるすべての人の期待をはるかに超えたものだったに違いない。情熱を前面に押し出して駆け抜けるのではなく、音楽の余白を楽しみながら、ホールの空間と一体となって鳴り響いた交響曲第4番は、坂入が指揮者として新たな段階に入ったことを強く感じさせる名演であった。
4回の演奏会を終えた坂入に、ブラームス・ツィクルスが自身にもたらしたものを本音で語ってもらった。坂入のまっすぐな言葉からは、指揮者の仕事の本質が垣間見えるだろう。
プロの指揮者としてじっくりと育ててくださった
――大阪交響楽団との『ブラームス交響曲全曲演奏』の完結、おめでとうございます。3年にわたるツィクルスを通して、坂入さんにはどのような学びがありましたか?
『ブラームス交響曲全曲演奏』が始まる前の2021年6月25日に、私は箕面市立メイプルホールで大阪交響楽団を指揮しました。これは私にとって、関西プロデビュー公演でした。プロのオーケストラから指揮の依頼があったのはこのときが初めてで、とても嬉しかったのを覚えています。この演奏会をきっかけにマネージメントが付くことになりましたし、翌年のブラームス・ツィクルスにも繋がりました。コロナ禍による2度の延期を乗り越えて実現したこの演奏会は、私がプロの指揮者として歩み始めるにあたり重要な一歩になりました。
2021年6月のベートーヴェンは、指揮者、ソリスト(ヴァイオリニストの石上真由子がベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏)、オーケストラ、ホール、そしてお客様の想いがひとつになった、忘れ難い演奏会でしたが、プロの指揮者としてはまだまだ経験不足でした。2022年9月のブラームス・ツィクルスの第1回演奏会でも、プロのオーケストラのリハーサルの進め方がわからず、オーケストラにはいろいろとご迷惑をおかけしてしまいました。本当に右も左もわからない私に、大阪響の皆さんはプラクティカルなアドバイスをたくさんくださり、プロの指揮者としてじっくりと育ててくださったんです。
私は長い間、東京ユヴェントス・フィルハーモニーの仲間たちと演奏を重ねてきましたが、そこではリハーサルの時間をたっぷりと取ることができました。一方プロのオーケストラはリハーサル時間が限られていますから、それに適した効率の良いリハーサルが求められます。今回、大阪響の皆さんにプロのリハーサルを一から教えていただけたことはかけがえのない経験でした。リハーサルが上手くいかない原因は、指揮者とオーケストラのコミュニケーション不足にあることがほとんどです。こうしたコミュニケーションの力は一朝一夕には得られないもので、リハーサルの経験を重ねていくしかありません。キャリアの初めに同じオーケストラと継続的にリハーサルを行うチャンスをいただけたことは、本当にラッキーでした。
――大阪響のコンサートマスターの林七奈さんも、FREUDEの座談会でプロのオーケストラのリハーサルの難しさ、厳しさについて語られていましたね。林さんはツィクルスが進むごとに成長していく坂入さんに、とても驚かれていました。
第1回演奏会のリハーサルでは、私の指揮に対して、さまざまなご意見をいただきました。ツィクルスの初回ということもあって、私も緊張していて、理論武装し過ぎていたところもあったと思います。まずなにより、指揮者はタクトで音楽を示さなくてはならず、言葉が先行してはいけないんです。第2回演奏会のリハーサルでは、初回でいただいたアドバイスを活かしてクリアな指揮を心掛けましたし、必要以上に話さないように意識しました。
大切なことをほんのひと言だけ
――私が取材できたのはゲネプロだけですが、第1回よりも第2回の方が、指揮者とオーケストラのコミュニケーションがスムーズになっていたように感じました。オーケストラの響きにも力みがなくなって、音楽に動きが増していました。
第2回演奏会の成功がターニングポイントとなり、第3回、第4回と、オーケストラとの音楽的なコミュニケーションはどんどんスムーズになっていきました。メイプルホールのコンパクトな空間でブラームスの交響曲をどう鳴らすべきかもいろいろと悩みましたが、オーケストラとの対話のなかで、雛壇を試してみたり、楽器の配置を変えてみたりして、少しずつブラッシュアップされていったと思います。
――第1番や第2番ではオーケストラがよく鳴っている印象でしたが、第4番ではメイプルホールがオーケストラを包み込んで、ひとつの楽器のように響いていました。サウンドの重心がとても低く、足元から音楽が立ち昇ってきたんです。ゲネプロも、坂入さんが言葉をかけるとアンサンブルの精度がグンと上がって、オーケストラとの信頼関係が深まっているのを実感しました。
ゲネプロは、ただ単に全曲を通すだけではオーケストラが不安になりますし、なにも話さないとアイデアや意見がないように思われてしまいますが、たくさんの言葉は必要ないので、確認すべきことだけを簡潔に話すように心がけています。ゲネプロでは、大切なことをほんのひと言だけで良いんですよね。
――指揮者の仕事の本質は、「なにを語り、なにを語らないか」なのかもしれませんね。
オーケストラはおっかないと言われることもありますが、オーケストラが怖い原因は指揮者のコミュニケーション不足にあります。どんなに優れたオーケストラにもミスはありますが、それはほとんどの場合、指揮者のせいで起こります。プロのオーケストラは演奏がうまくいっているのかいないのか、皆よくわかっていますから、指揮者は広い視野をもって演奏と向き合うべきであって、細かなミスをいちいち指摘すべきではないのです。
前編では、リハーサルにおける指揮者とオーケストラのコミュニケーションの重要性について、じっくりと語ってもらった。後編では、ブラームス・ツィクルスを終えた坂入のこれからに迫っていく。
後編へつづく
公演情報
箕面市立メイプルホール
坂入健司郎×石上真由子×大阪交響楽団
『みんなのリクエスト・コンサート』2025年3月26日(水)19:00開演
※18:45〜音楽評論家の奥田佳道によるプレトークあり坂入健司郎(指揮)
石上真由子(ヴァイオリン)
大阪交響楽団(管弦楽)演奏曲目は投票により決定(投票期間は10月1日 9:00〜10月31日 23:59まで)