今井信子 室内楽の奥義を伝承する
サントリーホール室内楽アカデミー特別指導レポート
クロンベルク・アカデミーとの日本ツアーに寄せて
text by 八木宏之
撮影:池上直哉/写真提供:サントリーホール
今井信子は、ヴィオラの生ける伝説である。今井は常々「人が踏んだことのない雪道を行きたい」と語ってきたが、今井の半世紀を超える演奏家人生は、まさにその言葉通りの道なき道を歩むものだった。今井がヴィオラ奏者としてのキャリアを歩み始めたとき、日本にヴィオラを専門に弾く奏者はひとりもいなかった。桐朋学園の卒業試験でヴィオラを弾いたのも今井が初めてだった。そんな時代にヴィオラ1本を背負って、今井はアメリカ、そしてヨーロッパへと渡り、瞬く間に世界中から演奏依頼の絶えないスターとなる。
今井はソリストとして国際的な演奏活動を展開するだけでなく、教育者としても多くの優れたヴィオラ奏者を育てた。1992年には、ヴィオラの振興のために『ヴィオラスペース』を立ち上げるなど、今井はその類い稀なリーダーシップでヴィオラの存在感を大いに高めた。今井から直接指導を受けたか否かに関わらず、世界中のヴィオラ奏者が彼女に敬意を示し、今もその背中を追っている。
そんな今井の特別ワークショップが、2025年12月22日に、サントリーホール室内楽アカデミーにより開催された。今井はソロだけでなく、フェルメール弦楽四重奏団やミケランジェロ弦楽四重奏団のメンバーとして活動した経験も持つ室内楽の達人である。2023年の『サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン』(以下CMG)で、クロンベルク・アカデミーが来日公演を行った際に、サントリーホール館長のチェリスト、堤剛が今井に室内楽アカデミーでの指導を依頼し(今井と堤は桐朋学園の同級生でもある)、今回のワークショップが実現した。

ソロを弾いているときの感覚を忘れずに!
指導を受けたのは、カルテット・シュトゥルム(1stヴァイオリン:城野聖良、2ndヴァイオリン:松北優里、ヴィオラ:長谷山博史、チェロ:髙木優帆)とカルテット風雅(1stヴァイオリン:落合真子、2ndヴァイオリン:小西健太郎、ヴィオラ:川邉宗一郎、チェロ:松谷壮一郎)の2団体。カルテット・シュトゥルムはベートーヴェンの弦楽四重奏曲第5番(Op.18-5)を、カルテット風雅はブラームスの弦楽四重奏曲第1番(Op.51-1)を取り上げた。
カルテット・シュトゥルムの演奏からは、アンサンブルとしてすでに成熟している印象を受けたが、音楽を綺麗にまとめようとし過ぎている点を今井は見逃さなかった。「アレグロ」をもっとうきうきと楽しげに捉え、リラックスして演奏するようにアドバイスし、1stヴァイオリンの城野聖良に冒頭のアップビートの感じ方、躍動感を作り出す息の吸い方や弓の使い方を、実演を交えて指導していく。すると4人のアンサンブルには自然な呼吸が生まれ、音楽は生き物のように動き出した。たったひとつのフレーズの指導から、これほどの変化を引き出すことができるのかと驚かされる。

2ndヴァイオリンの松北優里には、内声のパートだからと遠慮せずに、もっと自らの存在を主張するように助言する。「カルテットでも、ソロを弾いているときの感覚をいつも忘れずに!」との今井の言葉は、カルテットは互いに助け合い、支え合うものという固定観念を見事に打ち砕いてくれた。
「ワインで例えると1st ヴァイオリンはラベル、チェロはボトル、そして2nd ヴァイオリンとヴィオラはワインそのものです。4声のバランスはもちろん大切ですが、内声のふたりが主張したいときにはしっかりと存在感を発揮することが、カルテットの充実に繋がります」(今井信子、以下同)
第2楽章のメヌエットでは、細部まで磨かれたカルテット・シュトゥルムの緻密な演奏を評価しながらも、レントラー風のトリオの田舎くさいキャラクターをもっと出すために、弓の根本を使ってガリガリと弾くように指導する。
「カルテットの演奏で大事なことは、まず4人でしっかりと楽譜を読み、音楽の持つストーリーやキャラクターを全員で共有し、自分はどう弾きたいのかを話し合うことです。気をつけなくてはならないのは、作り込み過ぎて、演奏が固くなってしまうこと。どんなに練習を重ねても、音楽は自然発生的に聴こえて欲しい。なにより弾いている本人が音楽に感動していなくては、聴き手の心を揺さぶることはできません」

楽器の音ではなく、あなたの音を聴きたい
カルテット・シュトゥルムのレッスンでは、完成度の高いアンサンブルを目指すなかで、いかにして音楽の余白を保つかに焦点が当てられたが、2番目の団体、カルテット風雅への指導では、反対に4人のアイデアを擦り合わせ、アンサンブルをどのように磨いていくかを掘り下げた。
カルテット風雅が取り上げたブラームスの弦楽四重奏曲第1番は、ブラームスらしい、情熱をうちに秘めた仄暗いロマンティシズムが魅力的な傑作だ。カルテット風雅はメンバー全員がソリストのようにはっきりとした主張を持ち、その演奏は一聴すると非常に力強い。しかし、カルテットとして4人が同じゴールへ向かっていく、アンサンブルとしての統一感にはまだ改善の余地がある。今井も、冒頭から皆が違うことをやっていて、演奏がどこへ向かっているのかが見えてこないと指摘した。音楽の印象を決める「刻み」のニュアンスや、主要主題の付点の処理など、細部の語り口を4人で再確認すると、演奏の解像度は見違えるように高まった。

第2楽章でも、ブラームスにふさわしい重みと深みのある音色を4人で作り上げていくように指導が続く。カルテット風雅のレッスンでもっとも印象的な場面となったのは、今井が2ndヴァイオリンの小西健太郎に語りかけた「とても良い音が出ているけれど、それはあなたの楽器の音であって、あなたの音ではない」という言葉だった。小西は在京オーケストラのゲスト・コンサートマスターも務める名手であり、音色、音程、テクニックのいずれも極めて高いレベルにあるが、今井の一言ではっと表情を変え、そこから小西の音は見違えるように柔らかく、あたたかみを持ったものになっていった。すでにプロの演奏家として第一線で活躍している小西のようなフェロー(サントリーホール室内楽アカデミーではアカデミー生をそう呼ぶ)にとって、今井との対話は、自身の演奏を見つめ直す貴重な時間となっただろう。ハイレベルなプロの現場では、そうした言葉をかけてもらう機会はそう多くないからだ。室内楽の真髄を探求することが、このアカデミーの教育の核にあることは間違いないが、室内楽を通して、ひとりの演奏家として気付きを得ることもまた、若い演奏家が室内楽アカデミーに参加する意義のひとつだろう。

カルテット漬けの5年間があったからこそ、今がある
今回のワークショップの終わりに、今井に話を聞く機会も得た。インタビューの最初の質問は「良いカルテットとはなにか?」というやや漠然としたものだったが、今井は自らの人生を振り返りながら、誠実に答えてくれた。
「カルテットにとってなにより大切なのは、作曲家が求めていること、作品の意図を理解することです。自分たちの趣味よりも、作曲家が実現したかったことのほうが優先されます。そのうえで、4人の色を付けて、演奏を深めていく。もちろん作曲家ごとに求められるものは違っていて、ベートーヴェンでは構成や様式への理解が必要ですし、ブラームスでは一人ひとりの個性がより重要になってきます。私は1973年から1978年にかけて、フェルメール弦楽四重奏団のメンバーとして、シカゴを拠点に世界各地で年50回ステージに立っていました。4人でいつも一緒にいれば喧嘩にもなりますし、カルテットだけを突き詰める生活は精神的にとても難しい。でも、カルテット漬けだったフェルメール弦楽四重奏団での5年間は、私のかけがえのない財産になっていますし、この経験があったからこそ、今があると思っています」
ソリストとしてのイメージが強い今井だが、その土台にはカルテットをはじめとする室内楽での豊富な経験が根を張っているのだ。今井の室内楽への情熱は、常設カルテットでの活動を離れた今なお失われていない。
「ソロ、室内楽、レッスンの活動がそれぞれ三分の一ずつというのが、今の私にはとても良いバランスです。ソロと室内楽での切り替えに苦労する人もいるかもしれませんが、作品がなにを求めているかをじっくりと考えれば、自然と弾き方は定まってきますし、その点で悩むことはありません」

クロンベルク・アカデミーと共に
名教師として知られる今井が長年教鞭を取ってきたのが、ドイツのクロンベルク・アカデミーだ。このアカデミーは前述の通り、2023年のCMGで初来日し、FREUDEでもその教育について特集した。2026年6月には、クロンベルク・アカデミーゆかりの指導者とアカデミー生が3年ぶりに来日し、CMGで室内楽のプログラムをふたつ披露する。今井も6月18日と20日の両公演に出演する予定だ。
「クロンベルク・アカデミーでは、ヴィオラのレッスンばかりで、室内楽はほとんど教えていません。クロンベルク・アカデミーの教育の中心はやはりソロになりますから、アカデミー生が室内楽に取り組む機会は、実はそう多くないんです。2023年の日本ツアーは、アカデミー生たちにとって、日本に来るだけでも特別なことでしたが、普段なかなか演奏するチャンスのない室内楽作品にじっくりと向き合えたことも大きな収穫でした。優れたソリストである彼らにとっても、室内楽は簡単なものではありません。2026年の来日でも、アカデミー生たちが日本という特別な場所で、室内楽に集中できることをとても嬉しく思っています」
2026年の日本ツアーに参加するアカデミー生は、シベリウス国際ヴァイオリンコンクールやエリザベート王妃国際音楽コンクールで上位に入賞し、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団では第1ヴァイオリン奏者としてトライアル中のMINAMI(吉田南)、フリッツ・クライスラー国際コンクールで南米出身初の優勝者となったギド・サンタナ(以上ヴァイオリン)、ミュンヘン国際音楽コンクールとプリムローズ国際ヴィオラコンクールで相次いで優勝を果たしたイ・ヘス(ヴィオラ)、ブダペスト国際チェロコンクールとパブロ・カザルス国際賞で第1位に輝いたアルナ・ツェラー(チェロ)、ナウムブルク国際ピアノコンクールなどいくつもの国際コンクールで受賞歴を持つアンナ・ハン(ピアノ)の5名。ツアーには今井や講師のミハエラ・マルティン(ヴァイオリン)、フランス・ヘルメルソン(チェロ)が帯同し、アカデミー生たちと同じステージに立つ。今井、マルティン、ヘルメルソンの3人は、ミケランジェロ弦楽四重奏団のメンバーとして音楽を共にした仲間であり、共演を通して、アカデミー生たちに室内楽の技を伝授することになるだろう。ロマン派から現代まで、多彩な作品を含むプログラムのうち、今井が出演するのはドヴォルザークのピアノ五重奏曲第2番(Op.81)、リヒャルト・シュトラウスの弦楽六重奏のための《カプリッチョ》、そしてシューベルトの弦楽五重奏曲(D956)の3曲である。
「ドヴォルザークのピアノ五重奏曲第2番は、かつてマールボロ音楽祭でルドルフ・ゼルキンと共演した思い出深い作品です。演奏するのは久しぶりですが、ヴィオラが活躍する、ヴィオラ弾きにとってもやり甲斐のある曲だと思います。R.シュトラウスの《カプリッチョ》は、しばしば演奏する機会がありますが、プログラムの前菜にぴったりの作品です。10分に満たない短い曲ですが、ヴィオラに大きなソロがあります。そしてシューベルトの弦楽五重奏曲ですが、これは弾く側、聴く側の双方にとって、室内楽の喜びが凝縮された、私の大好きな作品です。マルティンさん、ヘルメルソンさんとも一緒に弾いたことのあるレパートリーで、日本ツアーの締めくくりに、これほどふさわしい作品はないと思います」

インタビューの最後に、サントリーホール室内楽アカデミーやクロンベルク・アカデミーで学ぶ若い音楽家たちへ、今井が期待することを聞いてみた。
「考え方ひとつで、演奏は驚くほど変わります。そのヒントを得るのがレッスンの意義であり、最後は生徒が自分自身で気付き、自分なりの答えを見つけていくのをいつも私は待っています。日本人を教えていると反応が良いですし、上達しようという意欲も感じられます。そしてなにより、日本人はとても器用ですね。一人ひとりが、人に染まらない、自分の考えをしっかりと持った音楽家になって欲しいと願っています」
クロンベルク・アカデミーの2公演は、日本で今井の室内楽の演奏を聴ける貴重な機会でもある。今井はその演奏を通して、若い音楽家たちに室内楽の喜びを伝えることになるだろう。それはマールボロ音楽祭で、ゼルキンと同じステージに立った今井の姿とも重なる。そうした現在進行形の伝承に、ぜひサントリーホール ブルーローズで立ち会って欲しい。

『サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン 2026』
「クロンベルク・アカデミー 日本ツアー 2026」
ミハエラ・マルティン(ヴァイオリン/講師)
今井信子(ヴィオラ)
フランス・ヘルメルソン(チェロ/講師)
ギド・サンタナ(ヴァイオリン/在校生)
MINAMI(吉田南)(ヴァイオリン/在校生)
イ・ヘス(ヴィオラ/在校生)
アルネ・ツェラー(チェロ/在校生)
アンナ・ハン(ピアノ/在校生)2026年6月18日(木)19:00開演
サントリーホール ブルーローズ
ショスタコーヴィチ:ピアノ三重奏曲第1番 ハ短調 作品8
シューベルト:弦楽四重奏曲第13番 イ短調 D 804「ロザムンデ」
ドヴォルジャーク:ピアノ五重奏曲第2番 イ長調 作品81公演詳細:https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/schedule/detail/20260618_S_3.html
2026年6月20日(土)13:00開演
サントリーホール ブルーローズR. シュトラウス:弦楽六重奏のための『カプリッチョ』
シェーンフィールド:『カフェ・ミュージック』
サラサーテ:『ナヴァラ』作品33
シューベルト:弦楽五重奏曲 ハ長調 D 956公演詳細:https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/schedule/detail/20260620_S_2.html
「ENJOY! 室内楽アカデミー・フェロー演奏会」
2026年6月6日(土)11:00開演
サントリーホール ブルーローズクァルテット・イーリス
カルテット・シュトゥルム
カルテット風雅
ほのカルテット
トリオ・フィデーリス(ピアノ三重奏)曲目は後日発表
公演詳細:https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/schedule/detail/20260606_S_1.html
2026年6月13日(土)11:00開演
サントリーホール ブルーローズクァルテット・イーリス
カルテット・シュトゥルム
カルテット・プリマヴェーラ
カルテット・ルーチェ
トリオ・フィデーリス(ピアノ三重奏)曲目は後日発表
公演詳細:https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/schedule/detail/20260613_S_1.html
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