「最初の実験」の驚きと味わい
――期待値を超えてゆくこと
古楽実験工房 vol.1 コンチェルトの夕べ in 京都
text by 白沢達生
cover photo ©︎おのしの
最前線で活躍する10人の演奏家
2021年12月8日、京都の青山音楽記念館 バロックザールで18世紀の音楽とじっくり向き合ってきた。
国内外で経験と実績を重ねてきた10人の演奏家が一堂に会す生演奏となれば、大抵は多かれ少なかれ自宅以外の場への移動が必要になる。どこまで長距離移動を許容するかは公演の期待値次第だけれど、今回はSNSに流れたチラシのデータを見た時点で、どうにか関東から上洛して居合わせたくなった。バランス良いデザインでポートレートが均等に配置されている10人がことごとく、近年面白い立ち回りを見せ、「人に物語あり」で豊かな演奏を実らせてきたプレイヤーばかりだったから。フランスやベルギーの最前線でキャリアを重ねてきた人も多い。
一番上にはアーティスティック・リーダーとして、ベルギーのアントウェルペン(アントワープ)と高松を行き来しながら欧州第一線の古楽シーンで活躍してきたフルート奏者、柴田俊幸の名がある。たかまつ国際古楽祭の主宰者でもある彼が、4曲全てで独奏者を務めるという荒行のようなプログラム。大バッハの有名作2曲に、彼の次男C.P.E.バッハと同時代人クヴァンツの気になる曲が一つずつ。聴きに行かないと、この10人の同時代人として自分は後悔するだろう――東京以外の場所で発生する事案を首都圏在住者たちが見ないふりしていられる時代ではないな、と感じるのはこういう時だ(そもそもそんな時代は過去一度もなかったのだが)。山梨、福岡、滋賀、高松、静岡、札幌……他にも明敏な企画者たちはそこかしこにいる。その後、この京都での演奏会のチラシは東京でも何ヵ所かで目にした。旅する聴き手の存在を誰かが意識していて、チラシを東京各所にも届けていたということだ。
現場までの昂揚感と帰りの余韻まで含めての生演奏観賞である。その昂揚感や余韻が長旅と繋がるなら、なおのこと心に残る体験になるだろう。
古楽実験工房。今から300年ほど前の音楽を聴かせるプロジェクトを、彼らはそう名づけた。
楽譜は書かれた時代が古ければ古いほど、どういうつもりでそれが書かれていたのかわからなくなる。五線譜を共通言語だと思っていると読み違える。数百年前に書かれた演劇を、文字と言語が今と同じだからといってそのまま映画化するのが困難なように、当時の共通理解に立ち返って楽譜を読む必要がある。社会情勢も日常感覚も違う社会に生きた人が書いた楽譜だ。使っていた楽器も演奏法も、当時の話し方と同じくらい今と違っていた世界で。
産業革命以降にできた大型の金属フレームや複雑なキーなどのパーツを持たない当時の楽器(現代の楽器と区別して「古楽器」と呼ばれる)は、扱い方の勝手がさまざまな点で現代の楽器とは違う。弾きこなすには専門的な研鑽が必要で、プロになってからも生き証人がいない数百年前の実情を探り続けることになる(研究の末、これまで認識されてきたこととは全く違う答えが出ることもある)。「古楽」という言葉で総称されるそうした路線での演奏実践は、結果的に模索と実験の連続になる。彼らが掲げた「古楽実験工房」の6文字を見るたび、この大前提が思い起こされた。エッシャーの騙し絵を連想させるチラシの絵面も「読み解くべし」の意識を煽ってくる。よく見れば、掲げられた4曲の演目では必ずしも使われないリュートやファゴットなどの演奏者もクレジットされている。どういうことだろう?
彼らにとっての演奏解釈上の実験、それが客席と出会ったとき、その場にいた人それぞれにどんな思いが生じるかの実験。それを確かめに新幹線に乗り、京都中心部から上桂へ向かった。
古楽演奏は模索と実験の連続
嵐山方面へと向かう阪急電車は陽が落ちたばかりの冬の京都を抜け、さながら夕暮れ時、郊外に邸宅を構える音楽愛好の領主の館へと向かう馬車のような風情。演目にある《ブランデンブルク協奏曲》を捧げられた辺境伯はどんな城で暮らしていたのだろう……などと考えながら、宵どきの緩やかな坂道を会場へと向かった。
会場の青山音楽記念館 バロックザールは、入り口や屋根の穏やかな曲線からホワイエの天井を彩る楕円形モチーフまで、その名の通りバロック建築めいている。伝統的美学とは相容れない通念がバロック様式を生んだ。何が起こるかわからない当夜の演奏会にふさわしい会場だ。
席数200の広さにしては天井が高く感じられるホール内。奏者が客席と向き合う形で中央に置かれたチェンバロ。間もなく演奏者たちが現れた。驚いたことに、1曲目からファゴット奏者、長谷川太郎の姿が。ここまであえて曲順を見ずにいたけれど、ファゴットはどの演目にも楽譜上に指定がない。ただ、バロック期の通奏低音パートは演奏環境に合わせて楽器を選ぶものだったし、演目の作曲者の一人クヴァンツも自著の中で、演奏環境しだいで弦楽合奏にオーボエやファゴットを加えることを提案している。だからこれは18世紀への裏切りではない。しかし現代人の目から見れば充分ユニークな処置だ。
4曲を通じて柴田が吹く2種のフルートも始めに紹介された。大バッハが知っていたかもしれない、ライプツィヒの製作家アイヒェントップフの楽器に基づく1本と、プロイセンのフリードリヒ大王にフルートを教えていたクヴァンツによるモデル。ステージには顎当てを使わないヴァイオリンや色味の美しいヴィオローネなども見える。
果たして演奏は始まり、すぐにその実験の企図が見えてきた。
大バッハの《ブランデンブルク協奏曲 第5番》。チェンバロの向かいで全体の指揮を執るのがフルート柴田俊幸。向かって左側にヴァイオリン2人とヴィオラ。右側にチェロ、コントラバス、ファゴット。全曲フルートが独奏楽器として入るので、これに対しての低音でファゴットの音が聴こえるのが通奏低音楽器の選択として適切と感じられる。低音側から音がまとまって響いてくるのも明瞭で効果的だ。もう最初から面白い。
「実験」というキーワードを事前に刷り込まれていたことが、場に響く全てを肯定的に受け止める心の準備につながった。逆に言うと、しばらくは空間を掴みあぐねるように音が届きにくかったのは確かだ。けれど、だからこそ私たちは耳を澄ますことになる。厚みある低音でかき消されそうになるチェンバロの音を聴き分けようと、虚空を舞う笛や弦の調べのニュアンスを捕えようと、全身が耳になってゆく。どういう音楽を作ろうとしているのか?
そう意識が向かったのは、彼らが作り出す音楽の呼吸がその場限りではない、作品全体を見渡しての解釈姿勢に強く裏打ちされていたからでもあったかと思う。全員が違うバックボーンで育ってきた演奏者たちでありながら、形にしようとしている音楽がまとまっている。耳が慣れてくると、音量面での不利に怯まず音楽を紡ぎ続けてゆく中川岳のチェンバロの自然な音作りも浮かび上がって聴こえる。拍の刻みの中での音の流れ、18世紀の呼吸。ヴァイオリンの鳥生真理絵とフルートの柴田俊幸が綴る独奏パートは、歌を歌い継ぐようでもあり、歌詞を辿りながらの歌のようでもあり、ここぞというところで表現の一環として繰り出されるヴィブラートも小手先芸ではない、言葉運びの一環と感じられる。耳を傾ける人に向けて、声を荒げずに語らう音楽。
彼らの対話がじんわり空間を満たした1曲目の「実験」は、ゆったりしたテンポの楽章でも明確に打ち出されていた。4パートだけの室内楽編成になるこの曲、多くの場合チェンバロを補う通奏低音楽器としてチェロが添えられるけれど、彼らはここでヴィオローネ(≒コントラバス)だけを使う。チェンバロ、フルート、ヴァイオリンの3者の会話を支える、ジャズのベースのような静かな低音。奏者の布施砂丘彦は18世紀以前のヴィオローネを含む歴史的低音楽器を扱うコントラバス奏者。現代からの逆算ではない低音弦楽器の使い方に関して、音楽的にも効果の上がる実例をこうして体験させてもらえると、理屈抜きに古楽的アプローチの面白さに心躍る。
フルートが繰り出す物語のような独奏
柴田が楽器を替えて現れたC.P.E.バッハ(大バッハの次男)の《フルート協奏曲 イ短調》は、冒頭から颯爽とした作品本来の魅力が最大限に発揮されていた。ここでもバロック・ファゴットが他の2つの弦楽器とともに低音の響きに膨らみを作り、高音部と見通しの良いオーケストラサウンドを縁取ってゆく。音楽そのもののスタイルが父バッハの作品と大きく違うこともあるけれど、統一感のあるオーケストラの響きの中から、作曲者の同僚でもあったクヴァンツの手がけたモデルのフルートが繰り出す物語のような独奏が浮かび上がってくる様子は格別だった。同じ音楽理解を共有している古楽器奏者たちならではの解釈で、意外に(特に、古楽器で)生演奏を聴く機会に恵まれているとは言いがたい作品に触れられるだけでも自分は嬉しくなってしまうけれど、そういう一期一会の機会がこうした筋の通った解釈であってみればこそ、また次にこの作曲家をもっと知ろうという気になるものではないだろうか。
休憩時間を挟んでの後半2曲でも、彼らの実験精神はさまざまな点に現れていた。
次男の作品と同じくフルート独奏が大きな存在感を示す、ソロ活動をしている演奏家が客演することも多い大バッハの《管弦楽組曲 第2番》。作曲家が知っていた可能性もあるアイヒェントップフ・モデルの楽器に持ち替えて現れた柴田は、はっきり我を出すというより、他の奏者たちから個性を聴き分ける人の耳に届くような音遣いで吹いていたように感じられた。楽譜上では唯一の管楽器だが、ファゴットの存在ゆえステージ上の音でもその独壇場感が和らぐ……にもかかわらず、有名なポロネーズ楽章をはじめ確実に彼の音を耳で追ってしまう瞬間がそこかしこにあった。異国の料理で未知の味の正体を探る時のように、その音を耳で聴き取ろうとすると、おのずと他の楽器の音色も追うことになる。フランスで経験を積み日本では関西方面での活躍が多い大橋麗実のヴァイオリン、知られざる室内楽の名演で驚かされること多々の廣海史帆が奏でるヴィオラなど、内声部の味わいに心が向かったのも、自分は特にこの曲においてだった。
しかし視覚上とくに目を惹いたのは、この曲で初めて登場した撥弦楽器奏者、小暮浩史のテオルボだろう。チェンバロ同様、この人数でこの広さの会場では音量的にはきわめて不利で、この編成(しかも小暮のような手練のプレイヤーが弾く)なら可能であれば同編成で会場の広さが1/5程度であったなら……との願いを見透かしたかのように、ポロネーズ(ポーランド舞曲)の中間部では他の楽器がほとんど沈黙する中、その妙音がフルートを穏やかに支える様子をじっくり楽しませてくれた。バロック期の演奏家たちは曲ごとの性格を捉えて適切に伝えることを大切にしたそうだが、この楽章でことさら拍子をきびきび刻む演奏を聴かせた彼らの芸達者ぶりは、今回の演奏会でも最高の瞬間の一つだったと思う。大バッハがいたザクセン選帝侯領も、フルートを愛したフリードリヒ大王のプロイセンも、所領には現在のポーランドの一部が含まれていた。当時広く知られていたプロイセンの軍事教練をそこはかとなく連想しながら、戦乱止まぬ18世紀の軍楽の気配を、演劇的娯楽として享受できる平和の有難さをこの時は感じていた。翌年2月に何が起こるか誰も知らない中での音楽体験。その記憶が今では目の前の現実と結びつく。18世紀音楽に秘められた表現の意義を改めて噛みしめる思いだ。
低音といえば、ここまで言及してこなかったチェロも「なるほど島根朋史」と人選に膝を打つ立ちまわりが聴けた。フランス様式で書かれたこの組曲の特徴を際立たせるがごとく、彼は弓を上から掴むような現代式の持ち方ではなく、フランスで愛されていた楽器ヴィオラ・ダ・ガンバを弾く時のように、裏から持って弾く様子を聴かせたのである(低音弦の弓の持ち方は、こと18世紀前半以前に関しては現代チェロからの逆算では捉えきれず、こうした弾き方も全く一般的だった――大バッハはそういう時代の作曲家である)。島根も大橋同様、フランスの古楽シーンで経験を積んできた上に自身ガンバ奏者でもあり、他の演奏会でもこの持ち方でチェロを弾くことがあるが、今回の古楽実験工房の場でも最高の瞬間にその弾き方を披露したわけだ。
深く耳を澄ませた先にあるもの
そして最後のクヴァンツ作品、《2つのフルートのための協奏曲》。場が温まった末の真打ち演目として、よりによって一番知名度が低い、ここで初めて聴く人も多いであろう作品を持ってきた選曲の絶妙さを、作品の面白さで十全に味わった人が客席には多かったのではないだろうか。柴田と共に独奏を務めるフルート奏者として、10人目の奏者、小松綾も満を持して登場。滅多に聴けない曲で想像以上の世界が広がる。カードの切り方が巧みすぎる。
フリードリヒ大王のフルート教師をしていてベルリン/ポツダムの宮廷にいた印象が強いクヴァンツだが、もとは大バッハと同じザクセン選帝侯領にいて、彼も憧れたドレスデン宮廷楽団の一員だった。テオルボ入りの編成はこのドレスデンの楽隊に近い。オランダ語圏に欧州での活動基盤を持つ柴田に対し、バーゼル、フランクフルト、フライブルクとドイツ語圏の古楽拠点を渡り歩いてきた徳島人、小松は一聴して明らかなほどキャラクターの違う笛を聴かせ、両独奏パートが技を見せ合うような曲作りになっているクヴァンツ作品が途方もなく面白く聴けてしまう。余裕で個性がきわだつ小松に余裕の佇まいで返す柴田。知っている曲か否かなど、作曲家の知名度と同じくらい問題にならない。バッハ父子の中間ほどの世代に属するクヴァンツだが、ここまで聴いてきた両作曲家の作品の間をゆくような個性の作品で演奏会を締めくくる流れにも改めて納得がゆく。
そのスリリングな音運びのどこが楽譜通りでなかったか気づかない聴き手がいかに多かろうと、伝え間違いは作曲者への礼を失するとばかり、柴田は吹き損じを自己申告して問題の楽章をアンコールで繰り返したが、こうして「別テイク」を聴ける計らいも聴き手としては純粋にありがたかった。別の曲がアンコールで飛び出す機会は、このチームが共演を重ねた先に待っているはずだ。
古楽実験工房という未曽有のチーム、最初の実験からして満足度の高い公演だったと思う。穏やかな宵の日常空間に戻っての帰路も、静かに興奮しながら感想を分かち合う人々の姿がそこかしこに見られた。ここでいくつか紹介した通り、鮮烈に思い出せる瞬間がそこかしこにあった。世情が世情だけに演奏者のロビー挨拶がなかった分、音楽そのものへの余韻を反芻する時間を持てたのも良いことだったかもしれない。
ともあれ、この10人の平素の活動を考えると「彼らの本気はこんなものではない」との思いが強く残ったのも確かだ。今回の演奏会は告知がなされたのも比較的直前で、コロナ禍の混乱の中、むしろよく集客・実演を完遂できたとも思うくらいだが、裏を返せば彼らのポテンシャルを活かせるだけの準備期間がなかったとも想像できる。
一口でそれとわかるおいしさがなくてはリピートが期待できない世の中かもしれない。その点での印象の強さを誇りうる公演が今後も話題を紡いでゆくのだろう。そうしたインパクトの可能性も(今回は、とくに演奏編成と人選における期待値とその超え方において)ほどよく満たしながら、彼らの実験の真骨頂はむしろ、流し聴きでは捉えきれない、深く耳を澄ませた先にあるのだ……と感じさせられた一夜だった。そう傾聴する観賞姿勢そのものや、「音のみ」で終わらない古楽の面白さも、彼らの今後の活躍を通して伝わってゆくと良いと感じる。
冒頭の挨拶で、柴田は「古楽実験工房」という命名の由来として、瀧口修造や武満徹らによる20世紀半ばの芸術結社、実験工房に言及していた。演奏上の試みだけでなく、京都・嵐山線沿線へ向かう行為でも音楽鑑賞のあり方を問い直す機会となった今回の演奏会に、1950年代の実験工房が見せた越境型芸術活動の可能性を重ねながら、今後の活動に新たな期待感を募らせている。
【次回公演情報】
古楽実験工房 ver.2
「太陽にほえろ!〜太陽王ルイ14世の愉悦〜」2022年5月8日(日)
13時30分開演/16時30分開演(1日2回公演)
※配信付き会場:Sala Masaka(サーラ・マサカ)
〒244-0801 神奈川県横浜市戸塚区品濃町514-13
https://www.salamasaka.jp/柴田俊幸[フラウト・トラヴェルソ]
出口実祈[バロック・ヴァイオリン]
島根朋史[ヴィオラ・ダ・ガンバ]
荒井豪[バロック・オーボエ]
長谷川太郎[バロック・ファゴット]
レオナルド・瀧井[テオルボ]
石川友香理[チェンバロ]プログラム:
F.クープラン:王宮のコンセール(全曲)
M.マレ:三重奏の曲集 組曲第5番 ホ短調料金:一般¥5,000 配信¥3,000
チケットのご予約:https://ws.formzu.net/dist/S44186217/