「改革」の精神を受け継ぐプロダクション
新国立劇場 グルック 歌劇《オルフェオとエウリディーチェ》

<Review>
「改革」の精神を受け継ぐプロダクション

新国立劇場 グルック 歌劇《オルフェオとエウリディーチェ》

text by 有馬慶
cover photo 撮影:堀田力丸/提供:新国立劇場

現代日本のオペラ改革

クリストフ・ヴィリバルト・グルック(1714-1787)は「バロック・オペラ」を終わらせた作曲家である。バロック後期のオペラはカストラートをはじめとするスター歌手が幅を利かせており、彼らの技巧を披露する場と化していた。それに異を唱え、ドラマを重視しようとしたのがグルックである。
例えば、語りや会話を扱うレチタティーヴォをそれまで主流であったセッコ(通奏低音による伴奏)からアッコンパニャート(管弦楽による伴奏)に改めた。こうすることで、その後に続くアリアが劇の流れを止めることがなくなり、劇の推進力と統一性が生まれた。これは後にワーグナーが楽劇という形式で発展させることになる。これをグルックによる「オペラ改革」と呼び、《オルフェオとエウリディーチェ》(1762)はその集大成に位置付けられている。

新国立劇場で5月19日から22日にかけて上演された《オルフェオとエウリディーチェ》は、こうしたグルックの「改革」の精神を正統に受け継いだプロダクションであった。舞台装置や衣装はシンプルな現代風で、抽象的なダンスが活躍するなど、古典的な舞台とは一線を画す。「オペラのあり方とは何かを今一度問い直す」という作曲家の思想を視覚化しており、大げさな言い方をすれば「現代日本のオペラ改革」を実現してみせたのがこの舞台であった。

新国立劇場《オルフェオとエウリディーチェ》より 撮影:堀田力丸/提供:新国立劇場

まず幕が開くと目に入るのは、中央の円形の舞台である。その上でソリストは歌と演技を行い、合唱はその脇に黒子のような衣装で直立している。この構図は「オルケストラ(円形の舞台)」や「コロス(合唱隊)」といった古代ギリシャ劇の要素を想起させる

前景で緩急自在に踊る4人のダンサーは、単なるドッペルゲンガーではない。ダンサーたちは群衆も含めた人間の感情やドラマ上で起きている現象を、抽象的に表現する役割を担っており、エウリディーチェが死んだ悲しみを、漂う死霊の不気味さを、天上の大気の清明さを体現してみせるのだ。

それらは音楽と密接に結びついており、踊り(視覚)と音楽(聴覚)が主役であることを明確に提示している。オペラが「総合芸術」と呼ばれることを改めて確認できるだろう。

新国立劇場《オルフェオとエウリディーチェ》より 撮影:堀田力丸/提供:新国立劇場

第2幕以降では黒色の背景から浮かび上がるように白百合が登場する。ポスターにもなっているビジュアル・イメージである。白百合はキリスト教では「純潔」の象徴であり、聖母マリアのアトリビュートとなっている。また、献花としても用いられるため「死」とも結びつけられる。この世とあの世、死と復活、愛と不信、幸福と不幸……本作を構成する要素は相反するものから成り立っており、そうした二元性の象徴として「白百合」を配置していると私は理解した。

第3幕では複雑な気持ちを抱えたオルフェオと、自分を見ようとしない彼に不信感を募らせるエウリディーチェのすれ違いが描かれる。この場面は円形の舞台を二人が逡巡することで表現されており、袋小路に陥った不安が巧みに視覚化されていた。

そして、最後の最後、原作通りのいささか強引なハッピーエンドを迎えた後に、オルフェオだけに照明が当たって幕というラストがある。一言で言えば、「すべてはオルフェオの幻想だった」というアンチ・クライマックスである。一般的な観客の理解を考慮すると、もっと露骨に表現した方が親切ではあっただろう。しかし、あえて曖昧な含みのある表現にすることで、舞台全体の美を逸脱しない配慮となっていたと思う。

新国立劇場《オルフェオとエウリディーチェ》より 撮影:堀田力丸/提供:新国立劇場

具体化を避けた、抽象度の高い舞台

現代は神が存在しない、信じられない時代である。代わりに経済が君臨したのが20世紀であったが、それもいまや危うくなっている。リアリズムが私たちを幸福にするとは限らないのだ。人間が生きるために本当に必要なのは「ドラマ」かもしれない。たとえ、それが「幻想」であっても――そんなことを考えさせられた。

このように勅使川原三郎の演出・振付はあえて具体化を避けた、抽象度の高い舞台であった。それにより、観客の想像力や多様な解釈の余地を残している。彼がプロダクション・ノートで落語を引き合いに出しつつ、「隙間」と呼んだものである。

加えて、彼のイメージを見事に体現したアーティスティック・コラボレーターの佐東利穂子をはじめとするダンサーの活躍も素晴らしい。特に昨年の『羅生門』での共演も記憶に新しいアレクサンドル・リアブコ。彼の力強さと繊細さを併せ持った身体表現には、息をするのも忘れて見入ってしまった。ハンブルク・バレエでの彼の当たり役「ニジンスキー」と並んで、本作をレパートリーとしてほしいくらいである。

新国立劇場《オルフェオとエウリディーチェ》より 撮影:堀田力丸/提供:新国立劇場

鈴木優人の指揮による東京フィルハーモニー交響楽団の演奏は、歯切れ良く舞台に推進力を与えていた。東フィルは慣れない古楽奏法ながら、非常に健闘していたように思う。特に第2幕第1場から第2場への繋ぎの役割を担う〈復讐の女神たちの踊り〉と〈精霊の踊り〉は印象的だった。前者では金管をはじめ各セクションを強調、後者では極めて抑制された弱音をまろやかにブレンド。地獄のおどろおどろしさと楽園の平穏さが見事に対比されていた。

オルフェオ役のローレンス・ザッゾは出ずっぱりであるが、少しも弛緩することなく見事に歌いきった。それでいて演技も達者である。例えば有名なアリア〈エウリディーチェを失って〉も単に美しく歌い上げるのではなく、ときに逸脱を恐れず、切実な嘆きを表現していた。

エウリディーチェ役のヴァルダ・ウィルソンは、オルフェオの信念に揺さぶりをかけるに足る強さを持っていた。あの気迫で迫られたら振り返らざるを得まい。一方、アモーレ役の三宅理恵は、女神の神々しさというよりは親しみやすいチャーミングさを持っており、それぞれの個性が存分に発揮されていた。

この素晴らしいプロダクションがたった3回しか上演されなかったことは惜しい。今回の上演にはバレエ・ファンをはじめ、普段あまりオペラを観ない層も多く来場していたように思う。2年後3年後でも構わないので、ぜひプロダクションの再演をお願いしたい。

新国立劇場《オルフェオとエウリディーチェ》より 撮影:堀田力丸/提供:新国立劇場

 

【新国立劇場《オルフェオとエウリディーチェ》公演Webページ】
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/orfeo-ed-euridice/

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