「ただ音楽だけがある」ということ
波多野睦美&北村聡インタビュー

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「ただ音楽だけがある」ということ

波多野睦美&北村聡インタビュー

text by 原典子

ずんと響くコントラバスの足どり、もの哀しげに歌うバンドネオン、浮遊感に包まれる声――

もし何も知らずに聴いたら、これが17世紀の作曲家ヘンリー・パーセルの曲だとは誰も思わないだろう。古楽から現代まで幅広いレパートリーを持ち、唯一無二の存在感を放つメゾ・ソプラノ歌手、波多野睦美のニュー・アルバム『想いの届く日』は、バンドネオンの北村聡とコントラバスの田辺和弘を迎え、これまで波多野が歌ってきた大切な曲たちを中心に録音したボーダーレスな一枚。冒頭に書いたパーセルの《ソリチュード》のミュージックビデオ撮影を見学したあと、波多野と北村に話を聞いた。

歌、バンドネオン、コントラバスで描く
現代の《ソリチュード》

録音については「この“人”と演奏したい音楽を、いま、録る」と語る波多野。これまでにもつのだたかし(リュート)、山田武彦(ピアノ)、西山まりえ(バロックハープ)、栃尾克樹(バリトンサックス)、高橋悠治(作曲・ピアノ)ら多彩な面々とアルバムを録音してきた。自身のレーベルからリリースする今回の新譜も、北村と演奏したいという思いからはじまったという。

「もともと《ソリチュード》をコントラバスと演奏してみたいというアイデアが30年ぐらい前からあって。和音を奏でるもうひとつの楽器は何がいいだろう?と思い続けていたら、“ああ、北村さんのバンドネオンだ!”とひらめきました。北村さんとは2013年の王子ホールでの公演ではじめてご一緒して以来、たびたび共演させていただいてきましたが、今回のアルバムはぜひ北村さんと録りたいと思ったんです。コントラバスの田辺さんも、北村さんのご紹介で参加していただきました」(波多野)

波多野から《ソリチュード》の譜面を渡されたとき、北村も田辺もパーセルの存在を知らなかったそうだ。

「お恥ずかしながら……でも音楽の揺らぎが、詩の世界観とともに素晴らしい曲だなと思いました」(北村)

「おふたりがまっさらな状態で“面白いな”と言いながら演奏してくださって、楽しかったですね。バロックという概念から離れて、パーセルの音楽の面白さをしみじみ感じながら録音できました。しかも、“Solitude(孤独)”という曲名からしてそうですが、“remote”とか“noise”とか、コロナ禍の今にぴったりの歌詞が登場するんですよ。本当に、何百年も前のものだとはとても思えない曲です」(波多野)

波多野睦美

波多野は2010年リリースのアルバム『ソリチュード~ヘンリー・パーセル歌曲集』でも同曲をつのだたかしと録音していたが、それとは声の表情もまったく違う。

「やっぱり一緒に演奏する楽器で変わりますから。楽器というより“人”でしょうか、結局。蛇腹で空気を送って音を出すバンドネオンも、歌と同じく“息”の楽器だと思うんです。バンドネオンと歌っていると、はあーー、ふうーーと息づかいが聞こえて、バリトンのおじさんや、テナーのお兄さんが隣で歌っているように感じます。女性の息づかいとはちょっと違う、肺活量の多い声。“そっちのブレスが終わるまで、次のところに飛び込むのは無理かな”と間合いをとったり、まるで歌手と一緒に歌っているときのような面白さがあります。
今回の《ソリチュード》を録音しているときも、バンドネオンでしかできない一瞬に気づいて、“ああ、私はこれがやりたかったんだ!”と思いました。たった2拍の間なんですけど。ピアノともオルガンとも弦楽器とも違う、バンドネオンだからこその瞬間」(波多野)

「え、気づきませんでした!」(北村)

「北村さんはごく自然にやっていたから。でも、そこが肝です」(波多野)

アルゼンチン・タンゴから映画音楽まで
創意に満ちたアレンジ

《ソリチュード》以外にも、カルロス・ガルデル《想いの届く日》、リチャード・ロジャーズ《私のお気に入り》、アストル・ピアソラ《オブリビオン》、アリエル・ラミレス《アルフォンシーナと海》、ホセ・ラカジェ《アマポーラ》、フランシス・プーランク《愛の小径》など、再録音となる曲が数々収録されている。

「今回は、北村さんのアレンジで録音したいという思いも強くありました。ほかの方にアレンジをお願いした2曲と、ほぼ原曲通りに演奏した曲を除く大半が、北村さんのアレンジです」(波多野)

©Tsutomu Yano/Disc Classica Japan

「ピアソラの《私はマリア》はパブロ・エスティガリビアさんに、《アルフォンシーナと海》はマルティン・スエッさんにアレンジをお願いしました。エスティガリビアさんはアルゼンチンのタンゴ・ピアニスト。古典的なタンゴに軸足を置きつつ、クラシックやジャズの素養もある人で、それらを高い次元で融合して作曲やアレンジをしている方です。2019年に僕が個人的に招聘して、一緒にツアーをまわり、得難い音楽体験をさせていただきました。
スエッさんはアルゼンチンのバンドネオン奏者で、今はヨーロッパに拠点を移していますが、独自の和声感と作曲センスを持っている方です。彼がYouTubeにUPした自作曲を弾いてみたいと思ってメールをしたら、すぐに楽譜を送ってくださったところからやりとりがはじまって、今回もアレンジをお願いすることができました」(北村)

北村のアレンジによる《私のお気に入り》も意外性があって面白い。

「でしょう? この曲を録音するのは3回目で、最初は山田武彦さんのピアノと、2回目は角田隆太さんのアレンジで大萩康司さんのギターと録音しました。その2度もそうでしたが、今回の北村さんもまた、予想不可能なアレンジが新鮮でした」(波多野)

「いえいえ、僕は作曲家でも編曲家でもなくプレイヤーなので、アレンジは苦手でして……。いただいた資料や先人たちの演奏をもとに、自分で弾けるテクニックとほんの少しのアイデアを混ぜてやっているだけなので」(北村)

「北村さんはとてもストイックで職人気質だからそうおっしゃるけれど、決して“少しだけ”なんてことはないと思いますよ。北村さんがほんのちょっと入れるフレーズも創意に満ちていて、その匙加減が絶妙。テイクごとに毎回違うのも刺激的です」(波多野)

田辺和弘

音楽に気持ちよく通っていってもらうために
心身の状態を整える

北村は、波多野との共演をどのように感じているのだろう?

「大尊敬する波多野さんはもちろん、自分が好きな音楽家に共通して言えることは、ただ音楽のみが残る人であるということ。“何をしなきゃいけない”とか“ここはもっとこう弾こう”とか、どうしても作為的にあれこれ考えてしまうものですが、本当にすごい人は、ただ音楽だけをさっとそこに置く。音楽を征服しない、押さえつけない、そういうところがあると思います。
だから波多野さんも、いろいろなタイプの曲を歌いながらも、そこにはただ音楽だけがある。それを今回、アレンジするときも、演奏するときも意識しました。自分が支えるとか引っ張るとかではなく、ただ自然に“こうかな”と思う音を出すように」(北村)

たしかに「ただ音楽だけがある」という言葉は、筆者が波多野の歌を聴いて感じることを的確に言い表わしていると思う。アルゼンチン・タンゴ、古楽、フランス歌曲、映画音楽……あらゆるジャンルを“越境”するのではなく、音楽はいつでもそこに佇んでいる。

「アルバムを録音するたび、必ずディレクターから“こんなにバラバラな曲をどうやって一枚にまとめるの?”と聞かれますが、私のなかではリンクしているんです。今回のアルバムも、キーワードとしては“海”だったり、“砂浜”だったり、“道”だったり、似たような歌詞がいろいろな歌に出てきて、歌っているうちに単語がリンクしてひとつのイメージが像を結んでいきました。
アルゼンチンの作曲家が多いのは、もともと、つのだたかしさんの影響です。1990年に共演を始めてすぐの頃から“次はこれ歌って”とラテンアメリカの曲をたくさん紹介くださいました。《アルフォンシーナと海》は『アルゼンチンの女たち』という曲集のなかの1曲ですが、これを初演したメルセデス・ソーサの声をはじめてつのださんに聴かせていただいたとき、“うわあ、この人の声大好き!”と思いました。しかも私の祖母にお顔がそっくりで、骨格が似ていると声も似ているといいますが、なにか自分に流れている血と共通したものを感じましたね」(波多野)

北村もまた、アルゼンチン・タンゴに軸足を置きながらも、あらゆるフィールドの音楽家とコラボレーションしてきたアーティストだが、「ジャンルを越境しているとは思っていない」と語る。

「幸運なことに、いろいろな音楽の現場で、いろいろなアーティストとご一緒させていただく機会をいただいてきましたが、ジャズやクラシックが弾けるかといえば全然そんなことはなく、分からないことだらけです。ただ、門外漢ながらも異ジャンルに挑戦するときは、その音楽を追求している方々につねにリスペクトをもって、“とりあえずバンドネオンで弾いてみました“みたいな必然性のないことは避けなければならないと思っています」(北村)

「私はやっぱり、どうしたってクラシック歌手だなって思う瞬間があって。もちろん悪い意味ばかりではありませんが、作品に取り組むときも、“ちゃんとできると思われたい”という邪念が捨てきれない。そんな自分が鬱陶しくて仕方ないんです。そんな気持ちも《ソリチュード》が代弁してくれているように感じます。
それこそ昔は歌詞の世界に没入して、登場人物になりきって歌おうと必死にやっていました。でも今は、そうすることが作為的にも思えます。歌手は身体そのものが楽器なので、とにかく音楽に気持ちよく通っていってもらうために、心身の状態をニュートラルにすることを意識しています。体と声の関わり方、捉え方は、いつも更新しているつもり」(波多野)

最後に、このアルバムをどんなふうに楽しんでもらいたいかを尋ねた。

「バンドネオンというとピアソラ、哀愁といったイメージが強いかもしれませんが、じつは小さな手回しオルガンのような音、笙のような音、鳥が鳴いているような声、獣がンガッて鼻を鳴らすような音! など、ヴァリエーション豊かです。レコーディングでは大ベテランのエンジニア、櫻井卓さんにバンドネオンの蛇腹の魅力、“息づかい”を余さず録っていただいたので、ぜひ味わってみてください。
アルバムを流した途端に、バンドネオンのそばで、同じ空間にいるように楽しんでいただけたらと思います」(波多野)

 

新譜情報
『想いの届く日』

01. 想いの届く日(ガルデル)
02. 私のお気に入り(ロジャーズ)
03. ソリチュード(パーセル) with bass
04. もしもまだ(ピアソラ)
05. 私はマリア(ピアソラ/編曲:エスティガリビア)with bass
06. オブリビオン(ピアソラ) with bass
07. 首の差で(ガルデル)bandoneon solo
08. 夏のクリスマス(ラミレス)
09. アルフォンシーナと海(ラミレス/編曲:スエッ)
10. 薔薇と柳 (グアスタビーノ)
11. アマポーラ(ラカジェ)
12. 愛の小径 (プーランク)
13. クロリスに(アーン) with bass
14. もし〜ニューシネマパラダイス(モリコーネ)
15. ククルクク・パロマ(メンデス)

波多野睦美(歌)
北村聡(バンドネオン)
田辺和弘(コントラバス)

録音:2022年4月13-15日  浦安音楽ホール
office sonnet/キングインターナショナル <MHS-007>
7月22日 王子ホールにて先行発売

公演情報
波多野睦美 歌曲の変容シリーズ 第15回
想いの届く日ふたたび 〜氷と熱の楽器 バンドネオンと共に〜
2022年7月22日(金)19:00開演
東京・王子ホール

公演詳細:https://www.ojihall.jp/concert/lineup/2022/20220722.html

 

波多野睦美(歌) Mutsumi Hatano
ロンドンのトリニティ音楽大学声楽専攻科修了。シェイクスピア時代のイギリスのリュートソングでデビュー後、受難曲、オラトリオなどのソリストとして寺神戸亮、鈴木雅明、C.ホグウッド指揮ほか、多くのバロックオーケストラと共演。バロックオペラでも深い表現力で注目される。現代の作品にも作曲家から厚い信頼を得て取り組み、間宮芳生作品のアメリカでの世界初演、オペラ『ポポイ』、水戸芸術館『高橋悠治の肖像』、サントリーホール『作曲家の個展2013権代敦彦』、サマーフェスティバル2016『ジャック・ボディ/死と欲望の歌とダンス』ほかに出演。『歌曲の変容』シリーズを2005年から王子ホールで続け、古楽から現代にいたる独自の歌曲プログラムを開拓。NHK『ニューイヤーオペラコンサート』『名曲アルバム』『BSクラシック倶楽部』『題名のない音楽会』などに出演。CDは古楽器との共演による『イタリア歌曲集』(レコード芸術特選盤)などのほか、高橋悠治(作曲/ピアノ)との『ねむれない夜』、シューベルト『冬の旅』、栃尾克樹(バリトンサックス)とのトリオによる『風ぐるま』、大萩康司(ギター)との『コーリング・ユー』『プラテーロとわたし』など多数。自身の訳詞と山本容子の版画による詩画集『プラテーロとわたし』を発表。
公式サイト:http://hatanomutsumi.com

北村聡(バンドネオン) Satoshi Kitamura
関西大学在学中にバンドネオンに出合い、小松亮太、フリオ・パネに師事。世界各国のフェスティバルに出演。2011年、アストル・ピアソラ五重奏団元ピアニスト、パブロ・シーグレルのアジアチームに選抜される。2014年、東京オペラシティ リサイタルシリーズB→Cに出演。2021年、ピアソラ作曲《シンフォニア・ブエノスアイレス》の日本初演に参加。これまでに鈴木大介、舘野泉、川井郁子、EGO-WRAPPIN’、東京交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団と共演。NHK『青天を衝け』、映画『マスカレード・ナイト』をはじめさまざまな録音に参加している。喜多直毅クアルテット、クアトロシエントス、三枝伸太郎 Orquesta de la Esperanzaなど数多くの楽団に参加、活動中。

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