サントリーホール オペラ・アカデミー
ファカルティに聞く、人間が育つということ

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サントリーホール オペラ・アカデミー

ファカルティに聞く、人間が育つということ

text by 香原斗志
cover photo 撮影:飯田耕治 提供:サントリーホール

 

ファカルティが「先生」ではない理由

サントリーホール オペラ・アカデミーの見学を重ねているが、受講生たちが日本人のコーチング・ファカルティのことを「先生」と呼ぶのを聞いたことがない。その理由は、ファカルティの天羽明惠(ソプラノ)が次のように語ることからもわかる。

「教える人と教わる人になると一方通行になっちゃう。だから私は『どうだった?』と聞くようにしています。いま上手くいったけど、なにがよかったんだろうと。それを受講生たちが自分なりに分析して工夫する、という経験を積み重ねれば打率が上がるだろうと。『こうしなさい』『ああしなさい』という一方通行ではないので、先生じゃないんです」

天羽明惠 ©Akira Muto

同じくファカルティの古藤田みゆき(ピアノ)も、「『古藤田先生』といわれたら、『みゆきさんでお願いします』と伝えています」と話す。

古藤田みゆき

キャリアが豊かなファカルティたちからサジェスチョンを受けては、考え、自己分析を重ねる――。そういう機会を身近に得ている受講生は、なんと豊かな学びの場に恵まれているのか。いつもそう思う。

仮に、それぞれのファカルティが自分のやり方を受講生に押しつけたら、受講生は混乱してしまうかもしれない。しかし、ここではファカルティ一人ひとりの経験や考え方の差異が、学びの幅の広さと質的な豊かさを担保している。

ホール・オペラ®とともに成長していった学びの場

その豊かさの背景を知るために、このアカデミーの歴史を少し振り返っておきたい。天羽が説明する。

「1993年にサントリーホールがホール・オペラ®《ラ・ボエーム》を上演する際、指揮のグスタフ・クーンさんや副指揮のマルコ・ボエーミさんが、日本の歌手を育てたいから、カヴァーキャストやアンダースタディを募集しようという話になりました。というのは、かなりの人数がオーディションを受け、ピアノはみゆきさんが一人で弾いてくれたんですが、それぞれが持参した曲を歌うと、『日本の教育はどうなっているんだ』という話になった。『この年齢でこの曲をやってどうするのか』『この子の声には全然合わないレパートリーだ』といった疑問が出されたんです。長く歌うためにもレパートリーをきちんと選ぶべきで、それには自分の声を知ることが大事だ、と。そういう前提でレッスンをしてもらいました」

この流れで、クーン主導のもとホール・オペラ®で主役を歌ったジュゼッペ・サッバティーニ(テノール)、ダニエラ・デッシー(ソプラノ)、オペラ・プロデューサーらも出資し、サントリーホール オペラ・アカデミーが設立されたという。

「そして本公演も終わり、クーンさんは『来年、自分が帰ってくるまでに、自分がいったことをみゆきと一緒に勉強しておけ』といい残して帰国された。こうして先生がいないあいだ、みんなで集まって勉強するスタイルができたんです」(天羽)

撮影:飯田耕治 提供:サントリーホール

その後、毎年のようにホール・オペラ®が上演されるなかで、アカデミーの豊かさは増していった。

「私たちが一所懸命に勉強している姿を見て、レナート・ブルゾンさん(バリトン)がレッスンしてくださったりして。ほかにミシェル・クライダーさん(ソプラノ)とか、マリアンヌ・コルネッティさん(ソプラノ)とか」(同)

「ほかにボエーミさんやニコラ・ルイゾッティさん(指揮)も、指導してくださいました」(古藤田)

こうしてはじまったアカデミーが、現在のようなかたちになったのは2011年。毎年のように上演されていたホール・オペラ®に一区切り置かれたのを機に、エグゼクティブ・ファカルティとしてサッバティーニを迎え、大黒柱に据えたのである。

日本人の弱点補えるサッバティーニの指導

サッバティーニのレッスンについて、最初に筆者の感想をいうなら、とても厳しい。同時に感じるのは、本気で音楽を学び、世界にもはばたける力を身につけたければ、絶対に乗り越えるべき厳しさであり、それは今日の日本では、ほかではなかなか経験できない貴重な機会だ、ということだ。

撮影:池上直哉 提供:サントリーホール

サッバティーニの話を聞いておこう。

「楽譜に書かれていることを実践できるように2年間のプリマヴェーラ・コースでパイジエッロまでの古典歌曲を勉強し、モーツァルトも少し加え、その後、トスティやチマーラの歌曲を学びます。オペラ・アカデミーなのになぜオペラを学ばない? 多くの歌手は最初からオペラを学ぶのは無理で、基礎の過程をへて次の2年間のアドバンスト・コースへの準備をする必要があるのです」

しかし、教えながら困難にも直面しているという。

「先日、プリマヴェーラ・コースの受講生に、アドバンスト・コースのレッスンに参加するように勧め、自分がその子に指摘した点を、2年先を学んでいる受講生がオペラを歌う際、どのように処理しているかを聴いてもらいました。ただ、最初から真摯に取り組んでいれば、3、4年目のアドバンスト・コースに到達できると思うのですが、アジア人によくみられるのは、何曲かのアリアは非常によく勉強していながら、ほかの曲を歌うための基礎が身に着いていない、という問題です」

もう少し具体的に聞いてみたい。

「以前、日本で《ドン・ジョヴァンニ》を指揮して感じたのは、日本人の歌手たちが歌うフレーズが、言葉の意味や動作と重なっていないことでした。『Ti amo 愛している』なら、どう愛しているのかと。その感情には、どういう表現や動作がふさわしいのか。日本人は行儀がよすぎますが、行儀をかなぐり捨てて楽譜の世界を生きなければ歌になりません。大学でなにを勉強したのか、という疑問もいだきます。自動車の運転なら、いまはトランスミッションもコンピューターが自動で管理してくれますが、音楽の演奏はそのようにはいきません。とくに心の表現はそうです。イタリア語の正しい発音もあまり聞けず、日本人の指揮者も演出家も発音には無頓着なことが多いです」

私が見学しているかぎり、サッバティーニの指導はそういう点を徹底的に補ってくれる。そして、厳しいが考えさせる。

「私は基礎と基本的な規則を教えますが、自分の道を見つけるのは受講生です。『こうしなさい』という指導では思考が停止してしまう。本物の先生はこうして導くんです。『愛ってなに?』『それはどう表現するもの?』『すると、どんな感情が湧く?』『じゃあ、歌ってごらん』。ただ、基礎的な概念は理解したうえで私のもとに来てほしい」

多様性を担保してくれる7人のファカルティ

世界の主要舞台で活躍したイタリアの大御所の指導を、日本で受けられることに価値があるのはいうまでもないが、このアカデミーは大黒柱の周囲にファカルティがいることで、さらに豊かさが増している。たとえば、サッバティーニが指摘した発音の問題。イタリア人はナチュラルに発音するように指導するが、イタリア人と日本人とでは骨格も共鳴腔も異なるため、彼らのナチュラルはわれわれのアンナチュラルである。それを補って説明してくれるファカルティの存在は、とても大きい。

アカデミー生の公演にファカルティが出演することも。サントリーホール オペラ・アカデミー オペラティック・コンサート(2022年3月) 撮影:池上直哉 提供:サントリーホール

「ファカルティはいま7人いますが、それぞれやり方が違う。大学では1人か2人の先生としか勉強しないことが多いと思いますけど、経験が豊かでいろんなことをよく知っているみなさんと勉強することで、引き出しがすごく増えるんです。私たちはクーンさんやブルゾンさんらともたくさん勉強したので、サッバティーニさんとはやり方がまったく同じというわけではないけど、いろんな考え方があるのはいいことで、そこにアカデミーの意義があると思います」(古藤田)

「特技が異なる複数の人がいろんなことをいうことで、理解を深められ、技術の幅も広がります。その中心にサッバティーニさんのメソッドがありますが、それをかみ砕いて伝えることも、わからない人にはいろんな方向からサジェスチョンも与えられます」(天羽)

こうした学びは、むろん音大でも個人レッスンでも得られないものだ。加えていえば、このアカデミーはオペラの現場との距離がきわめて近い。

「もともとホール・オペラ®に付随していて、小さな役やアンダースタディを経験して本番を踏む、というところに意味があった。ホール・オペラ®がなくても、いまも本番ができるくらい勉強しよう、ということがベースになっています。そして、一緒にできる仲間を育てているんです」(古藤田)

価値ある仲間の存在も大きい。天羽がいう。

「クーンさんは最初に、『ここは一緒にアイスクリームを食べる仲間を探す場ではなく、一生かけて勉強する音楽を一緒に語れる仲間をつくる場だ』とおっしゃった。そういう人が増えればいいと思って私は関わっています。もっとも、いまの若い人は仲間どうしで音楽の話をしないそうです。最近の子は、ひとつの正解しか話したくないという傾向が強いようで、『いろいろいわれると迷う』と聞かされることが多い。でも、迷って当たり前だし、迷ったほうがいい。いろんなやり方をして、迷いとまちがいを繰り返しながら、自分の幹を太くしていけばいいんです。また、グループレッスンなので、人が指摘されているのを聴いてわかることもある。それもこのアカデミーならではですね」

そこにおけるコーチング・ファカルティの役割を、あらためて古藤田に尋ねた。

「一緒に考えて一緒に音楽をする。音楽づくりを押しつけず、『あなたたちはどう思う?』と問いかけています。ただ、ここで長いあいだ個性的な大指揮者や大歌手たちと一緒に仕事をしてきて、感じたこと、教えてもらったこともたくさんありますから、日本のほかの場所で仕事をしてきた人と違うことを伝えられる、と信じてやっています。サッバティーニさんの楽譜の読み方はすばらしいですが、指揮者や演奏家ごとにこだわるところや解釈は違う。サッバティーニさんの考え方を尊重しつつ、ほかの読み方や解釈の可能性も私たちが示せたら、と思っています。みんな『正しい道をひとつ教えてほしい』といいますが、それはない。自分で探すんです。その手助けをするのはファカルティの役割だと思います」

演奏家として、人間としての成長を支える

すぐれた演奏家であるためには人間的な成長も欠かせないが、その点でもファカルティの存在は心強い。

「人間が変わるくらいのことが起きて、それを機に音楽について『あっ、こうだったのか』と目覚めてくれる。そんなところにもっていけたらいいな、とは考えています」(天羽)

撮影:飯田耕治 提供:サントリーホール

「いろんな先生に違うことをいわれてわからなくなったとか、人間関係で困っているとか、そんな悩みまで聞いています。でも、私は必ず『いいことだから、いっぱい悩んでちょうだい』といっています。一つひとつの経験が糧になると思うので。その結果、天羽さんがいったような『人間が変わる』ことにつながれば」(古藤田)

こうした過程をへて受講生たちの成長を感じるときが、ファカルティにとって最高の瞬間だという。天羽がそれを感じるのは、

「目がキラッとして、『あっ、わかった』という顔をするときがあるんです。すると音が違う。またもとに戻りはしますが、その経験を繰り返して自分の耳と感性に記憶させるんです。それには一発勝負ではなく、コツコツと打率を上げるしかありません」

では、成長がみられるのは、どういうタイプの受講生だろうか。

「たとえば、プリマヴェーラ・コースをもう1回繰り返したい、と自分から申し出た子は伸びていますね。大田原瑶さん(ソプラノ)や木和田絢香(ソプラノ)さん。精神的にも強くなり、心が伸びると技術も伸びやすいんだと、2人を見て思いました」(天羽)

撮影:飯田耕治 提供:サントリーホール

「みんな一歩でも二歩でも上手になっていると思います。迫田美帆さん(ソプラノ)のようにアカデミーで努力を重ね、技術的にも人間的にも成長し、チャンスにも恵まれた人が世に出て活躍しているのを見るとうれしいですね」(古藤田)

ほかにもイタリアで活躍する林眞暎(メッゾソプラノ)や保科瑠衣(ソプラノ)、各地の舞台に引っ張りだこの髙畠伸吾(テノール)、フランスもので存在感を示す熊田祥子(ソプラノ)、テクニックがたしかな細井暁子(メッゾソプラノ)、地道に歌を磨き飛躍への準備をしている小寺彩音(ソプラノ)ら、ここから輩出した期待の逸材は多い。

天羽は「歌は空気の振動なので、上手に歌えるかどうかとは、空気といかに友だちになれるか。それなのに長いあいだコロナ禍で、マスクで空気を止めていたから、友だちになれなかった」と語る。その影響は、このアカデミーのレッスンにも大きな障害になっていたが、そんな障壁もいよいよなくなる。天羽が最後にいった。

「サントリーホールのリハーサル室のように天井が高く広い空間で歌えることの幸せ、たくさんの空気を響かせられるよろこびを味わってほしいですね」

 

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