サントリーホール オペラ・アカデミー
アカデミー生に聞く、ここにしかない学びの本質
text by 香原斗志
cover photo 撮影:飯田耕治 提供:サントリーホール
オペラほど刺激的な芸術はない、という実感を、歳を重ねるごとに深めている。全方位から五感を覚醒させられるので当然だが、構成要素のひとつである歌唱にかぎっても、おそろしく奥が深い。ことに日本人の演奏家には、言語の壁はもちろん、西洋人と異なる日本人の骨格、西洋の文化や西洋人の肌感覚といった壁が立ちはだかり、それらを一つひとつ乗り越えなければ本物に近づけないというハンディを負っている。たとえ歌手が乗り越えても、ピアノを弾きながら音楽稽古をつけるコレペティトゥアもまた、歌手と同様に壁の向こうを見通せなければ、そこで行き詰まってしまいかねない。
ところが、「サントリーホール オペラ・アカデミー」の研修生や修了生の歌にかぎって、「壁」の存在を感じることが少なく、歌唱が耳に心地よいことが多い。理由がこのアカデミーの指導にあることは明らかである。
往年の名テノール、ジュゼッペ・サッバティーニがエグゼクティブ・ファカルティに迎えられ、日本人ファカルティたちが支えるこのアカデミーは、イタリア古典歌曲などを学ぶ2年間の「プリマヴェーラ・コース」と、その修了生から選抜され、オペラの楽曲を学ぶ2年間の「アドバンスト・コース」からなり、コレペティトゥアをめざすピアニストも一緒に学んでいるのも特徴だ。
ここの指導はなにがどう違うのか。私が説明するよりも、近未来のスターかもしれない現役アカデミー生にたずねたほうが早い。アドバンスト・コースの岡莉々香(ソプラノ)、プリマヴェーラ・コースの横山希(ピアノ)、伴野公三子(メゾ・ソプラノ)の3人に聞いた。
歌手とピアニストが一緒に学ぶ場
月4回、午前中から夕方までが基本で、そこにサッバティーニによるオンライン、および年に数回来日してのレッスンが組み込まれるが、その内容は――。
岡 ファカルティの先生方はレッスン時から、お客さんとして聴いたとき、プロになる人材としてどうか、という視点で細かく教えてくださいます。学校では「できているね」で終わってしまうところも、お金を払って聴く聴衆にとっては、それだけでは済みませんから。
伴野 歌手の先輩としてアドバイスしてくださる感覚で、生徒というより若い「歌手」として扱ってくださるので身が引き締まります。
横山 古藤田みゆき先生(ピアノのファカルティ)には、「おたがいに得るものがある時間にしたいよね」とよく言われます。大学のレッスンだと、10の質問に10とか12が返ってくるのに対し、5つ返して、あとの5つは自分で考えさせるように教えてくださることが多いです。
歌手とピアニストが一緒に学んでいるが、岡は「声楽も器楽も、結局は同じアプローチなのだとわかり、おたがいに理解し合える」と言い、横山は「歌手の人たちはステージでの出入りの仕方や立ち姿をふくめ、表現者としての見せ方がうまい。それを見て補い合えることも多い」と加えた。
日本にいながら無償で「イタリア留学」
では、どうしてこのアカデミーで学びたいと思ったのか。
横山 私はずっと、歌うようにピアノが弾けたらいちばん音楽的だという思いがあって、歌への憧れを抱いていました。ウラディミール・ホロヴィッツのピアノを聴いてもカンタービレで、歌だよなあと。そこで大学2年のときに『東京・春・音楽祭』でリッカルド・ムーティの《リゴレット》の指導を聴講してみて、これはおもしろいと感じました。ちょうど同じころ、このアカデミーの要項を見つけ、こんな先生方と無償で学べるのはすごいと思ったんです。
岡 私は大学生のとき、ベッリーニのオペラを勉強してベルカントに触れました。でも、それを本当に知るにはイタリアで学ばなければなりません。大学を卒業し、進路をどうするかというとき、このアカデミーを知り、サッバティーニ先生が教えてくださるというじゃないですか。日本にいながらイタリア人から学べる機会を定期的にいただけることほど幸せなことはないと思って受けました。マエストロ・サッバティーニが歌っただけで、フレージングもレガートも生きたものになって、その教えは私にとって大きな財産です。
伴野 このアカデミーの修了演奏会を聴きに行ったとき、皆さんイタリア語が美しく、大学で聴いているイタリア語と全然違いました。私は大学時代、ドイツ・リートばかり歌っていたのですが、卒業した年の春にここの募集を見て、オペラが歌えないと食べていけないだろうし、それにはイタリア語も勉強する必要があるなと思って応募しました。
3人ともすでに音楽大学を卒業しているが、大学とは違うアカデミーの価値をどこに見いだしているのか。
横山 ピアニストの視点で言うと、サントリーホールにはいい楽器があって、リハーサル室は天井が高くて響きがいい。マエストロもファカルティの先生方もおっしゃいますが、自分の音は自分の耳でたしかめなければなりません。その点で、この環境はすばらしく、ブルーローズなどで場数を踏んでプロとしての自覚をもつ機会をいただけるのも大きいです。
岡 自分が実際に舞台に立つ場で稽古を重ねられるのもうれしいですね。また、ホールで本番のある日は出演者が近くを通ったりと、プロフェッショナルな世界を身近に感じることができます。事務局の方もプロフェッショナルで、スタッフの皆さんが演奏家をどれだけサポートしてくださっているのかがよくわかります。
伴野 これだけイタリア・オペラに特化できるのは、サントリーホールが運営しているからだと思います。ほかはどうしてもオールマイティに対応できる教育になってしまうでしょうから。
特化しているから、深化させられる。アカデミー生たちの演奏を聴けば、そのことを理解できる。
自分以上に悔しがってくれる存在
大学を卒業した生徒も基礎から学ばせるこのアカデミーで、カルチャーショックを受けたりはしなかったか。
伴野 自分がそれまで言葉をぞんざいに扱ってきたと気づき、ショックを受けました。アカデミーで学んではじめて、発声も響きも正しいポジションに置き、すべてが合わさって美しいイタリア語になるんだなとわかりました。とくに開口母音と閉口母音は、それまでなんとなく開けたり閉じたりしていましたが、去年7月の『サントリーホール オペラ・アカデミーコンサート』で歌ったパリゾッティの《もし貴方が私を愛してくれて Se tu m’ami》は、途中で開口と閉口が交互に出てきて、できないと厳しく指摘されました。それだけに、マエストロに「いま、イタリア人の女性のように歌えたね」と言っていただけたときはうれしかったです。
岡 まずマエストロの熱量に度肝を抜かれました。こんなにすごい「圧」で怒られたことがなかったので(笑)。最初はシュンとなりましたが、考えてみれば自分以上に悔しがってくれているのだから、自分がもっと頑張らなきゃダメだと。暴風に吹かれても、マエストロが示してくれるちょっとしたフレーズは自分が求めるもの以上だったので、これを会得したい気持ちが上回りました。
横山 まず驚いたのは「イタリア語ってこんなに美しいんだ」と。マエストロが喋ったり歌ったりすると、音楽が肌にぴったり馴染んでくる感覚があって、イタリア語は喋っているだけで音楽だと感じました。あとは、あきらめずに言い続けてくださる場があるんだなと。大学のレッスンでは、試験に向けて短期で形にすることが必要ですが、ここは長い目で見て、1小節だけでも発音だけでも、できなかったことを地道に何度もやってくれます。体得できた感じをちゃんとつかめるレッスンがあるんだとはじめて知りました。
こうした地道な学びが、アドバンスト・コースに進んだのちに活きてくるに違いない。
岡 森田学先生とダンテの『神曲』を勉強したのが活きています。プリマヴェーラ・コースのとき、こうしてイタリア人の死生観まで学んだことで、日本人はここで哀しくなりそうだけどイタリアの女性は強くいくんだ、といったように応用できています。また、『神曲』を通して韻律を深く勉強できたのは大きかったですね。1曲1曲に対して逐語訳から対訳、パラフレーズなど、レポートを書いては森田先生が添削してくださいました。いまレチタティーヴォを歌うときにも、とても活きています。
マエストロ・サッバティーニの言葉に鼓舞されることもあるのではないだろうか。
横山 いつも言われて印象に残っているのは「好奇心をもちなさい」ということです。歌は死生観や宗教まで幅広い内容を扱っているので、歌詞に違和感を抱いたら図書館に行ってでも、とにかく調べなさいと。好奇心が音楽の厚みにつながるので、なんとなくわかって済まさないように言われます。「好き」ひとつをとっても、どういう「好き」があるのか30分もかけて解説してくださったりして、より深い理解が求められていると感じます。
岡 マエストロは「絵を描きなさい」とおっしゃいます。「自分が見ている風景を絵にしてみなさい」と。それを実践して、自分が見えていないものを他人に伝えるのは難しいと気づくのです。去年の11月、マエストロのもとで連作歌曲を学んで指示通りにできたとき、「これが芸術だろ」と言ってくださってうれしかった。一瞬の空気で歌が伝わることがあると実感し、それを大事にしていけたらと思いました。
伴野 私は技術面で、「ピアニッシモを美しく歌える歌手になりなさい」と言われました。作曲家がいちばん伝えたいところはピアニッシモにあって、それが美しく歌えるほどフォルティッシモの説得力が出る。でも、ピアニッシモをきれいに歌うのはいちばん難しいので、基礎訓練を積み重ねるしかない、とおっしゃったのがすごく心に残っています。
サッバティーニの指導を核に、それに沿ったアドバイスを
では、日本人ファカルティはどうサポートしてくれるのか。
横山 歌手のファカルティの先生方も「歌はここで息をするから、自然と間があくよね」といったように、歌の視点でピアノにアドバイスをくださるので、表現の幅が広がります。古藤田先生も「もっと息を流して、もっと歌いなさい」と。レッスンごとに引き出しが増えていくのを感じます。プリマヴェーラ・コースの1年目であつかう古典歌曲は、技術的にはあまり難しくないのですが、これをカンタービレで弾くことが難しく、コース2周目にして、やっと少しわかるようになってきました。
岡 「心をオープンにしていなさい」と言っていただくことが多いです。わからないと、どうしても閉じてしまうじゃないですか。でも、身体と心はつながっているので、心を閉じると声も閉じて聴こえるし、開けていないと一緒にできないと。
伴野 マエストロのレッスンで信じられないくらい怒られることがあるのですが、ファカルティの先生方は私の気持ちが落ちないように「こうすればいいんだよ」と、レッスン終了後もずっと付き合って、鼓舞するように接してくださるのがありがたいです。あと、先生方が音楽を楽しんでいる様子を、実際に歌って見せてくださるのも大きいです。「なんでそう歌うの? ここをこうしたらもっと楽しいじゃない」と。私が勉強のためだと思っていた教材を、すばらしい音楽で楽しいものだと気付かせてくださるのは、うれしい刺激です。
岡 あと、イタリア人のマエストロの骨格だからできることを、日本人は「こうしないと開かないよね」とカヴァーしてくださることも。
伴野 マエストロの指導が根本に核としてあって、それに沿って先生方がいろんなアプローチでアドバイスしてくださるのがありがたいですね。
2年間のコースが終了するのは7月。横山は「これだけ歌手と一緒に、イタリア語の韻律やイタリア文化への造詣を深められたピアニストは多くないと思うので、歌手以外の音楽家と演奏するときにもそれを応用し、広げていきたい」と抱負を語る。岡はひとつの目標がドニゼッティの《ランメルモールのルチア》のルチアを歌うことで、それを視野に入れつつ、「いまは等身大でできるものをやるのが重要。ドニゼッティの《愛の妙薬》のアディーナをさらにブラッシュアップしています」とのこと。伴野は「オペラの役を1本通して、ゆっくり勉強する」ことがいまの目標だと語る。
発表の機会として、3月14日の『サントリーホール オペラ・アカデミー オペラティック・コンサート』があるが、それは彼女たちが本物へと向かう道程におけるひとつの通過点であることは言うまでもない。
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サントリーホール オペラ・アカデミー オペラティック・コンサート
2023年3月14日(火)19:00開演
サントリーホール ブルーローズ(小ホール)ドニゼッティ:オペラ《ランメルモールのルチア》第1幕より
ルチア:萩野久美子
エドガルド:石井基幾
アリーサ:伴野公三子ドニゼッティ:オペラ《愛の妙薬》第2幕より
アディーナ:岡莉々香
ネモリーノ:髙畠伸吾ヴェルディ:オペラ《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》第1幕・第2幕より
アルフレード:石井基幾
ヴィオレッタ:迫田美帆
アンニーナ:東山桃子ピアノ:古藤田みゆき
ナビゲーター:朝岡聡音楽統括:ジュゼッペ・サッバティーニ
原語指導・演技指導:田口道子【公演詳細はこちら】
https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/schedule/detail/20230314_S_3.htmlサントリーホール オペラ・アカデミーについて
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