東京バレエ団×金森穣『かぐや姫』
孤独を抱えたもの同士の共感と連帯

<Review>
東京バレエ団×金森穣『かぐや姫』

孤独を抱えたもの同士の共感と連帯

text by 有馬慶
photo ©Shoko Matsuhashi

東京バレエ団 創立60周年記念シリーズ1
『かぐや姫』全3幕 世界初演
[東京公演]
2023年10月20日(金)19:00/10月21日(土)14:00/10月22日(日)14:00
東京文化会館

音楽:クロード・ドビュッシー
演出振付:金森穣
衣裳デザイン:廣川玉枝(SOMA DESIGN)
美術:近藤正樹
映像:遠藤龍
照明:伊藤雅一(RYU)、金森穣
演出助手:井関佐和子
衣裳製作:武田園子(Veronique)

原作から自由にアレンジされた『竹取物語』

金森穣による『かぐや姫』全幕が上演された。手兵のNoism Company Niigataではなく東京バレエ団と3年の歳月をかけて完成させたグランド・バレエである。「3年の歳月をかけて」というのは単に準備期間に3年かかったということではない。2021年11月に第1幕が、2023年4月に第2幕が、同年10月に第3幕を含めた全幕が上演されるという異例の製作過程を辿っている。また、Noismで独自の踊りを追求してきた金森にとって、クラシックな大所帯のバレエ団を動かすことも初の試みである。

まず、本作最大の特徴は言うまでもなく「かぐや姫」という題材である。「世界に発信できるバレエを」という依頼を受けて金森が選んだのは、日本最古の物語と言われている『竹取物語』であった。物語の作者も成立年も不明だが、様々なアレンジが施されながら現代まで読み継がれてきている。高畑勲監督によるアニメーション映画『かぐや姫の物語』をはじめ、本作を題材とした作品は枚挙にいとまがない。では、金森は「かぐや姫」をどのように捉えたのであろうか。

金森は本作を平安時代の宮廷ではなく、より普遍的な舞台に設定した。もともと第1幕が初演されたときには衣装が着物であり、舞台装置が日本家屋であるなど具象的なものであったが、あらためて全幕を通しての上演の際には抽象的なものに置き換わった。こうすることで遠い時代の遠い記憶といった雰囲気から解き放たれ、観客にとってずっと身近なものに感じられるようになった。

ストーリーも原作から自由にアレンジを施しており、原作にはない「道児」や「影姫」といったキャラクターが登場する。道児は里で育ったかぐや姫の幼馴染であり、彼女とほのかな思いを寄せ合う。彼は孤児であり、村人からこき使われている描写もあり、かぐや姫を妹のように愛している。一方、影姫は帝の正室であり、宮廷を牛耳る存在だ。しかし、帝からの愛はなく、帝の寵愛を得るかぐや姫が許せない。

このように登場人物たちはそれぞれ孤独を抱えており、かぐや姫との触れ合いを通してその孤独のありようが複雑に変容していく。それは原作に登場している翁や帝も例外ではない。翁は妻に先立たれ孤独な日々を送っており、幼くして即位した帝には多くの側近がいるが心を通わせる相手はいない。もっと言えば、かぐや姫こそが孤独そのもののような存在である。突如、月から地上へやってきて、その美しさから宮廷に連れていかれ、求婚者たちからは結納品で買われるように扱われ、帝の側室たちからは嫉妬の目を向けられ、やがて彼女をめぐって人々が争うようになる。この「孤独」こそが本作のテーマであり、観客を共感させ、魅了する要素に違いない。

平安時代に不思議とマッチするドビュッシーの音楽

さて、本作のもうひとつの特徴はドビュッシーの音楽である。日本古来の物語ということであれば、武満徹など日本の作曲家による音楽を使ってもよさそうなものである。それをあえてドビュッシーにしたのは、彼が「光(映像)」をテーマに作曲しており、その音楽がかぐや姫の物語に合うと考えたからだと金森は語っている。

ドビュッシーといえばそのものズバリ《ベルガマスク組曲》の〈月の光〉があり、葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「神奈川沖浪裏」にインスパイアされたという《海》があり、安直なアイデアにも取られかねないところだが、そこは抜群の音楽的センスを持った金森である。フランス近代の響きと平安時代の物語が不思議とマッチするのである。

例えば、各幕の冒頭には付随音楽《ビリティスの歌》の抜粋が用いられる。この決して有名とは言えない曲は「パントマイムと詩の朗読のための音楽」という副題を持ち、2本のフルート、2台のハープとチェレスタという編成で書かれている。これがまるで日本古来の音楽なのではないかと思うほど、竹林や里山、障子や襖、着物……といった事物によく合うのである。この短い音楽によって観客は一気に物語の世界に引き込まれることになる。《真夏の夜の夢》や《シェエラザード》のはじめに登場する印象的な木管の和音のような効果と言って良いだろう。

さらに驚くべきは《海》の使い方。第1楽章〈海の夜明けから真昼まで〉に合わせて、なんと月明かりに照らされた海が次第に竹林へと変容していくのである。第1幕の後半では第2曲〈波の戯れ〉が、第3幕の後半では第3曲〈風と海の対話〉も登場するが、いずれも舞台は竹林であり、そのメタファーである緑の精の群舞が登場する。かぐや姫にとっては竹が母胎であり、生命にとっては海が母胎である。これらのシーンの群舞の美しさ、しなやかさ、力強さには心が震えた。

また、〈月の光〉は当然「パ・ド・ドゥ」で使われるのだろうと予想され、結果その通りなのであるが、それは単にロマンティックに甘いシーンというわけではない。第1幕の中盤、月を見て涙を流すかぐや姫と彼女に寄り添う道児が心を通わせるシーン。二人は恋心を抱くというよりは、孤独を抱えたもの同士の共感と連帯といった趣である。第2幕の終盤、宮廷にやって来た道児とかぐや姫が再会するシーンでも使われる。前者はピアノ版であるのに対し、後者はオーケストラ版。過ぎた年月と微妙にすれ違う二人の心が絶妙な苦さでもって描かれる。私は2023年3月に来日したハンブルク・バレエ団によるノイマイヤーの『シルヴィア』第3幕の「パ・ド・ドゥ」を想起した。

それから、かぐや姫が宮廷の男たちの視線に晒されるシーンでは《夜想曲》の第2曲〈祭り〉が、大臣たちがかぐや姫に求婚するシーンでは弦楽四重奏曲ト短調の第2楽章が用いられる。いずれもかぐや姫が「もの」として扱われ、男性中心主義的な文化が描かれるが、これほどドビュッシーの曲がグロテスクに響いた例を他に知らない。ショスタコーヴィチはオペラ《ムツェンスク郡のマクベス夫人》で性的暴力を強烈な音響で表現したが、あれよりもはるかに嫌な感じがする。

最後にかぐや姫が月に帰っていくシーンでは《夢想》が用いられる。ドビュッシーが若い頃に書いたシンプルなこの曲がこの上なく美しい。このシーンで重要なのは、原作にもある通り、かぐや姫が羽衣をかけられて地上での記憶を失うということ。束の間とはいえ、人と心を通い合わせた思い出すら残らない。切ない、あまりにも切ない

現代的なテーマとドビュッシーの音楽に彩られた新たな傑作バレエ。本作がブラッシュアップされて再演される日を、さらには世界の様々な場所で上演されるようになる日を、私は待ち望んでいる。

※この記事は、これからの時代に活躍してほしい音楽評論家やライターを広くご紹介する、FREUDEの「執筆者応援プロジェクト」の一環として、一般社団法人ビトゥイン・ミュージック・タイズの助成を受けて制作されています。

執筆者:有馬慶
1991年、埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部哲学専攻卒業。在学中は古代ギリシャ哲学を納富信留氏に、文学、芸術を許光俊氏に師事。卒業論文のテーマは「ニーチェの哲学におけるワーグナー」。卒業後は金融機関職員、コンサルタントとしての職務経験を経て、現在は金融業界の会社員として働く。幼少期からの国内外での芸術鑑賞経験を生かし、映画、音楽、舞踊などについて執筆。「映画と音楽の関係性」や「舞台における音楽の効果」といったテーマを得意とする。『FREUDE』では「FREUDE試写室」を担当。
Xアカウント:https://twitter.com/bellsgastronomy
note:https://note.com/kei_arima

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