<Cross Review>
東京二期会オペラ劇場《影のない女》
演出:ペーター・コンヴィチュニー

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東京二期会オペラ劇場《影のない女》

演出:ペーター・コンヴィチュニー

写真提供:公益財団法人東京二期会/撮影:寺司正彦

ボン歌劇場との共同制作
東京二期会オペラ劇場《影のない女》(ワールドプレミエ)

2024年10月24日(木)18:00/25日(金)14:00/26日(土)14:00/27日(日)14:00
東京文化会館 大ホール

台本:フーゴ・フォン・ホフマンスタール
作曲:リヒャルト・シュトラウス
指揮:アレホ・ペレス
演出:ペーター・コンヴィチュニー

[10月24日/10月26日]
皇帝:伊藤達人
皇后:冨平安希子
乳母:藤井麻美
バラク:大沼徹
バラクの妻:板波利加

[10月25日/27日]
皇帝:樋口達哉
皇后:渡邊仁美
乳母:橋爪ゆか
バラク:河野鉄平
バラクの妻:田崎尚美

管弦楽:東京交響楽団
合唱:二期会合唱団

パッチワーク状の《影のない女》から見えるもの

相馬巧

オペラとは何をするメディアであるか。何十年ものあいだ、演出家ペーター・コンヴィチュニーは、オペラとは真の意味での「人間」(もしくは「他者」)を描くものだと訴え続けてきた。オペラは「鑑賞物」ではなく、目の前で起きた現象を我が事として共に経験することのできる場だ、と彼は言う。そこでひとが歌を歌う。その歌を通して、観る者、さらには演じる者が登場人物との紐帯を得る。コンヴィチュニーの数々の演出を貫くのは、人間同士を結ぶ紐帯(媒介 Medium)を作品が自発的に再獲得するためには、現代においていかなる舞台が必要になるか、という厳しい問いであった。

2024年10月、東京文化会館で二期会が公演を行ったR.シュトラウス/H.v.ホフマンスタールの作品《影のない女》は、「子供を産む」という生物に普遍な問題を扱った稀有なオペラである。完成された1917年当時、戦禍のなかにあるヨーロッパの凄惨な状況を乗り越え、ひとびとがもう一度子供を産んで人間的な社会を取り戻し、新たなユートピアを構築するという希望を込めて制作された。

しかし、こうした作者たちの「希望のメッセージ」とは裏腹に、コンヴィチュニーの「人間」へのまなざしは、この作品のなかで虐げられてきた女性たちへと注がれる。というのも、子供を産めるか否かの瀬戸際で苦しめられている女性たちこそ、このドラマのなかで音楽的に最も精彩に描かれている存在であるからだ。彼の読み替えは、明らかにここから始まっている。

果たしてこのことが、作品を裏切る行為と言えるだろうか。つまり、演出家が彼女たちの人生を丹念に追いかければ追いかけるほど、舞台は作者たちの「メッセージ」に背く一方で、音楽はわたしたちに生々しい肉感をもって迫り込んでくる。コンヴィチュニーの作る舞台のなかで、シュトラウスの音楽にある撫でつけられた耽美な表層には予期せぬ襞が織り込まれる。そうして、あるべくして生まれた陰影が私たちを覆うのだ。

このためにコンヴィチュニーは、重要なものとして次の3つの変更を作品に加えた。
1. 皇帝および霊界の王カイコバートを狭量なマフィアへと引き下げ、これまで明示的でなかった彼らの神話的・男性的な暴力を戯画化すること
2. 皇后、バラクの妻、乳母の3人の苦しみを舞台から可能な限り除外し、逆に彼女たちをユーモラスに描くことで、男たちの秩序に抵抗する生き生きとした姿を描くこと
3 . 物語をパッチワーク状に組み替え、作品全体の理解を阻むこと

沢山の子供を産んで家と社会を繁栄させる、という旧時代的な習わしそれ自体が、すでに私たちの気付いているように、女性たち個人の犠牲の上に成り立っていた。恋愛も結婚も、現に女性にとっては人生の選択肢のひとつでしかなくなっている。その意味でも、コンヴィチュニーが唱え続けてきた「他者としての人間」(自分と異なる者)との出会いとしてのオペラが、あの3人の女性たちを見過ごすことはできなかったのだ。たとえば第1幕の第1場と第2場を結ぶ印象的な間奏曲のカットは、あのシュトラウスらしい音楽にあるドン・ファン的な強壮さを忌避したためではないか。さらに今回の舞台では――これこそコンヴィチュニーの真骨頂だが――、神話的・男性的な規律のもとに進行していた物語を大胆に組み替え、作品全体を女性たちの活力の断続的な連鎖として捉え直している。演出チームが制作したあらすじにも、このオペラは「筋の通った物語ではなく(…)理解不能である」と書かれていた。言わば、切れ目なく続く音楽の常識的な流れに断絶をもたらし、瞬間ごとの「いまここhic et nunc」に驚きを持って目と耳を向けさせ、そこから垣間見えるプラトン的なエロス(他者を知ること)の経験に作品の可能性を委ねているのだ。

公演初日の第1部の最後の場面、冨平安希子が演じた皇后は、ベッドに仰向けに寝そべるバラク(大沼徹)の腰の上に跨り、不貞を働く。その罪の意識から、彼女は、身を隠すように自ら幕を閉じた。女性を醜悪で厭わしいものとして描くことは、まだ少なからぬ驚きをもって受け入れられている。その昔、女性は男性=夫に認められたセックスしか許されてはいなかったのだから。(鑑賞日:2024年10月24日)

音楽の勝利? 「コンヴィチュニーの《影のない女》」

加藤浩子

オペラが「演出家の時代」と言われて久しい。バロックからベルカント時代にはスター歌手がオペラの内容を左右し、続いて作曲家が君臨した。演出家が台頭したのは、オペラがもっぱら過去の作品をレパートリー上演するようになり、作曲家の代わりに全体をディレクションする人間が必要になったからだ。

ペーター・コンヴィチュニーが、演出家の時代の雄の一人であることは間違いない。従来の見方を覆して作品に内在する一面の真理を炙り出した《アイーダ》や《椿姫》には痺れた。「凱旋行進曲」を勝者の乱痴気パーティにし、アルフレードの「妹」を舞台に出してジェルモンの理不尽を糾弾させた。びわ湖ホールのオペラセミナーで、音符の一つ一つにこだわる指導も間近で見た。あの説得力はここから生まれるのかと感嘆したものだ。

東京二期会はしばらく前からコンヴィチュニーとタッグを組み、《皇帝ティトの慈悲》などで人間の本質を抉り出す目の覚めるようなプロダクションを提供してきた。だが今回新制作されたリヒャルト・シュトラウスの《影のない女》には、残念ながら素直に入り込むことはできなかった。最大の理由は、この作品でなければならない、という必然性が感じられなかったからである。

《影のない女》は、シュトラウスのオペラの中では明快なストーリー展開があるとは言い難い作品である。聴き手を魅了するのは音楽の魅力ではあるまいか。その面では、本作が手本にしたという《魔笛》に通じる。

コンヴィチュニーは、「妊娠能力」をめぐってヒロインの皇后が苦悩する物語を、子供を産めない女が蔑視されている反時代的な内容だと捉えた。そのためストーリーや人物の設定は変えられ、音楽は大幅にカット、入れ替えがなされた。演劇ではカットや入れ替えは常套手段だが、「楽譜」が存在するオペラでは、演劇大国のドイツであっても音楽の大幅な変更は一般的とは言えない。歌手の都合で音楽が左右されたバロックからベルカントまでのオペラとは異なり、シュトラウスのオペラは音と言葉が隙なく結びついた「楽劇」である。ストーリーもハッピーエンドではなく、男女の対立は解消されず、救いようのない結末になっていた(改変されたストーリーは二期会のホームページに掲載されている https://nikikai.jp/lineup/die_frau_ohne_schatten2024/)。チラシには書かれていたが、「コンヴィチュニーの《影のない女》」であり、音楽やストーリーの改変があることは、最初から謳っておいた方がよかっただろう。また、コンヴィチュニーが本作を好きではないと公言していたことも、情報としては重要ではなかったか。筆者の感じた違和感は、最終的にはそこへ行き着く。

ここまで大胆な演出は日本では稀なこともあり、公演と前後して各媒体で様々な意見が飛び交った。だが、オペラハウスが国立や州立の施設であり、オペラと演劇の距離が近く、第二次大戦の反省もあって冒険的な演出を積極的に認めているドイツと、国立のオペラハウスは一つだけ、オペラ公演のほとんどが民間の主催で、二期会のような歌手のカンパニーの比重が大きい日本では状況が違う。演劇的な裾野の広がりがないから、演出が物議を醸しても「コップの中の嵐」に止まってしまうのだ。《影のない女》が上演機会が少なく、コアなシュトラウス・ファンが好む作品であることも、裾野を広げることを妨げたと思う。コンヴィチュニーの演出を日本で体験できることの意義は大きいが、冒険をするにあたっては、日本の聴衆に対する理解も必要なのではないだろうか。コンヴィチュニーに「聴衆への理解」を求めることは難しいだろうが、ごく一般的なオペラファンの一部は「コンヴィチュニーなら行かない」モードになっており、今回の公演は彼らとその周辺をますます遠ざける結果になったと思う。そして日本では、彼らに代わる層がまだ存在しないのだ。

音楽面での成果は目覚ましかった。邦人キャストによるシュトラウス・オペラで、これほど粒の揃った例を知らない。幅と厚みと柔軟性のある美声と発語の美しさで席巻した伊藤達人、シュトラウスの抒情性を引き出した樋口達哉、甘美で力強いフレージングで力量を見せた渡邊仁美、安定感のある美声で冷静な研究者を演じた大沼徹、男性上位主義の男のいやらしさを整った発語で巧みに演じた河野鉄平、スケールの大きさが魅力の板波利加、クリーミーな声と言葉の表出力で抜きん出ていた田崎尚美、艶のある美声と表情豊かな演技で魅せた富平安希子、声、演技共に体当たりの藤井麻美ら、二期会の歌手陣が到達したレヴェルの高さは見事の一語に尽きる。アレホ・ペレス指揮する東京交響楽団もスコアの齟齬を感じさせない緻密な演奏で、音響的なバランスの良さを欠かすことなく、第1幕の陶酔から衝撃的な結末(置き換えられた第2幕のフィナーレ)の緊張感まで一気に走り抜けた。

最終的な勝利はやはり「音楽」にあったのではないだろうか。カーテンコールでの指揮者や歌手への喝采が、それを雄弁に物語っていた。(鑑賞日:2024年10月24・27日)

どこかで観たコンヴィチュニー自身の演出の再生産

広瀬大介

ペーター・コンヴィチュニー、そしてその理論的裏付けを与えているドラマトゥルクのベッティーナ・バルツは、この舞台をつくるにあたって、リヒャルト・シュトラウスとフーゴー・フォン・ホフマンスタールによるこの作品は、現代的観点からみれば「女性蔑視」に溢れていると定義し、本作をそこから救い出すために、作品の四分の一をカットし、第2幕の終わりをもって上演を締めくくった。

そもそも、ベッティーナ・バルツがプログラムに寄せた(その理由を書いているとおぼしき)文章で説いているホフマンスタール、シュトラウスが、ともに女性蔑視の思想を持ち合わせていた、という荒唐無稽な主張は、何を根拠にしているのだろう。ホフマンスタールが持ち合わせた自身の同性愛傾向から、女性蔑視を導き出そうとする理路はわかりづらい。シュトラウスは浮気性で女性にだらしなかった、と書かれているにおよんでは、この作品を作曲した当時、妻パウリーネひとすじだったシュトラウスのどこにそんなスキャンダルがあったのか、ぜひご教示いただきたい。

いずれにせよ、その解釈の結果として生まれたものは何だったのか。コンヴィチュニーがこの四半世紀で多用する、マフィアとその抗争、セックスシーンといくつかの性描写、音楽を中断・異化するための小道具の使用(ラジカセなど)、音楽を無理矢理止めての地の芝居、いずれも、他の作品の演出において、すでに観たことのある、この演出家お得意のモティーフばかり。今回、《影のない女》を演出するにあたって、その世界観を表出するために、新しい要素を考え出したあとは見受けられない。

この作品において、二組の夫婦にこどもがいないのは、どちらも「こどもがほしいのに授からない」のであって、こどもを持たない、という選択をしているわけではない。たしかに皇帝は皇后のありようを虐げているが、完全に皇帝の奴隷に堕してはおらず、皇后はみずから「影を得る」ために能動的に行動する積極性を持ち合わせている。バラクの妻は第1幕で「2年半もの間、こどもを得ようとしたが、授からなかった。私は諦めた。今度はあんた(バラク)が諦める番だ」と主張する。二組の夫婦の関係はあくまで対等に描かれており、この原作のなにをもって「女性蔑視」と見做したのか、ドラマトゥルクの文章からも、そして演出そのものからも、納得のゆく理由は与えられない。

演出チームがとりわけ問題視しているとおぼしき第3幕最後の四重唱が訴えようとするメッセージは、本来は「こどもを授かった」ことによる夢ある未来への期待を歌う讃歌であるはずで、新しい命を育むことのできる女性性へのポジティヴな、女性蔑視とは対極にあるメッセージに思えるのだが、その場面はカット。代わりに与えられた、二組の女性がスワッピングの末に自分のパートナーではない男性のこどもを授かり、むりやり最後に据えられた第2幕終わりで最後はともに撃ち殺されるという、演出家が与えた新しい設定のほうが「女性蔑視」ではないのか。繰り返しにはなるが、だれもが抱くであろうこの素朴な疑問には、(少なくとも舞台を観る限りでは)演出が明快な答えを与えてくれてはいない。

これは「作品への冒涜、台本作家・作曲家への冒涜」という以前の問題であり(それももちろん大問題だが、話が拡がりすぎてしまうのでここでは措く)、そもそも今回の舞台で表現されている要素の多くが、「どこかで観たコンヴィチュニー自身の演出の再生産」の次元に留まっている。かつてウィーン国立歌劇場の《ドン・カルロ》、あるいは日本で上演された《皇帝ティートの慈悲》など、舞台と客席を一体と成し、観るものを否が応でも巻き込んでいったあのバイタリティは、もはやどこにもみられない。コンヴィチュニーはみずからの過去に頼り、みずからを再生産することで、みずからの栄光あるかつての成果をも貶めてしまっている。

そして、2022〜23年にかけて、《サロメ》《エレクトラ》であれほどまでに冴え渡った音楽を聴かせた東京交響楽団がオーケストラピットに陣取っていたとはいえ、これほどまでに切り刻まれたスコアを前にしては、実力を発揮することもかなわない。そもそもオーケストラの奏者全員から、音楽の全体像を掴む機会が演出家によって奪われてしまったのだから、その結果としての音楽が不完全燃焼なままで終わるのは致し方ない。

第1幕の舞台転換の音楽、乳母の魔法の力でバラクの妻に贅沢の夢を見させる場面、第2幕第2場の皇帝のアリア前半、第4場の大半、第3幕の皇后による独り語りの後半、そして最後の大団円、いずれもシュトラウスならではの音楽的豊穣さを伝えてあまりある名場面の数々がごっそりカットされてしまっていた。そういう音楽の豊穣に敢えて背を向け、スリム化を図るのも演出の意図、というならば、それはそれで筋が通っているとも言える。到底納得はできないが。その他、慣習の範囲を大幅に超える細かい部分のカットは数限りない。

指揮のアレホ・ペレスも、腕を振るうことのできるこれらの場面がまるごとなくなってしまっていては、演奏への意欲も減退したのではとはおもうが、もともとフレーズの息が浅く、先へ先へと音楽を急ごうとする傾向は否めず、オーケストラもひとつの楽想を十分に練り上げ、説得力ゆたかなものとして提示するには至らない。《サロメ》《エレクトラ》の名演を成し遂げたオーケストラならば、もっとすぐれた音楽的成果を挙げられるはずであり、オーケストラにとっても無念なことであっただろう。

本来の音楽と歌唱が要求する方向とは真逆へと向かわせる演出を強いられる歌手にとっても、この演出は一種の受難ではなかったか。その意味で、皇后を歌う冨平安希子が見せた、舞台を所狭しと駆け回りつつも、安定した歌唱を聴かせる献身的なまでの活躍には、心からの敬意を表したい。バラクを歌った大沼徹とともに、卓越したドイツ語歌唱を披露した立役者であり、音楽面で聴き映えのあるものとしてくれた。

演出の力で、オーケストラ、歌手、すべての歯車がうまく回り、素晴らしい結果を残す実例をいくつも観てきたが、演出があらゆる面において音楽の手枷足枷となった今回のプロダクションは、シュトラウスの音楽を心から愛して止まぬ評者としては、観ていてただひたすらつらく、かなしかった。演出家のエゴイズムが、次世代へ引き継ぐべき古典芸術たるオペラの足をこれ以上引っ張ることのないよう、切に願いたい。(鑑賞日:2024年10月24日)

【東京二期会オペラ劇場《影のない女》 Webサイト】
https://nikikai.jp/lineup/die_frau_ohne_schatten2024/

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