角野隼斗 全国ツアー2025
“Human Universe” ファイナル
サントリーホール公演レポート

<Review>
角野隼斗 全国ツアー2025 “Human Universe” ファイナル

サントリーホール公演レポート

text by 原典子
photo ©︎Ryuya Amao

角野隼斗 全国ツアー2025 “Human Universe”
2025年2月28日(金)19:00
サントリーホール

J.S.バッハ:コラール前奏曲 BWV639
坂本龍一:solari
フォーレ:レクイエム ニ短調 作品48より 第7曲《イン・パラディスム》
角野隼斗:Human Universe
角野隼斗:3つのノクターン
スクリャービン:ピアノ・ソナタ第5番 作品53
ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
ストラヴィンスキー(G.アゴスティ編):バレエ音楽《火の鳥》組曲 ほか

宇宙への憧れ、人間の中にある宇宙

2月28日、ピアニスト角野隼斗のドキュメンタリーフィルム『不確かな軌跡』が劇場公開された。クラシックのピアニストとして数々のコンクールで優秀な成績を収めながらも、東京大学理科一類に進学して研究者を志し、いっぽうでは「Cateen(かてぃん)」名義でYouTuberとして活躍。さまざまな顔をもつ角野が2021年に世界最高峰のショパン国際ピアノコンクールに挑戦してから、2024年に日本武道館で単独公演を行なうまでを追ったドキュメンタリーである。

そして同じく2月28日、クラシックの殿堂サントリーホールでコンサートが開催された。武道館公演という大きな目標を達成した角野が踏み出した新たな一歩、世界デビューアルバム『Human Universe』を引っ提げた全国ツアーのラスト公演である。

ステージ上には角野愛用の楽器が3台、グランドピアノ、アップライトピアノ、アナログシンセサイザー「Prophet-10」が並ぶ。満場の拍手に迎えられ、シンプルな黒いスーツに身を包んだ角野が登場。グランドピアノに向かい《Introduction》を奏ではじめると、期待と興奮に膨らんだ会場の空気がすっと一点に集約されていく。そのまま続けてバッハの《半音階的幻想曲とフーガ》へ。前半の〈幻想曲〉では輝かしい技巧を、後半の〈フーガ〉では角野らしいグルーヴ感あふれるバッハを聴かせた。

最初のMCでは、子どもの頃から宇宙に憧れていた角野が「人間の中にある宇宙」を音楽で表現できたらと思って作ったアルバム『Human Universe』について、そのコンセプトにもとづいて組まれたツアーのプログラムについてが自身の言葉で語られた。今回のプログラムはあらかじめ決められた曲順に沿って演奏されるものではなく、副題で括られた3曲ごとのセットが、曲間に即興を織り交ぜながらランダムに演奏されるとのこと。地球、太陽、月に見立てられた3つのライトが曲ごとに点灯し、プログラムノートに記載された曲名と対応するようになっているので、聴衆は今どの曲が演奏されているか迷子になることもない。角野らしいこまやかな心遣いだ。

徹底した音響へのこだわり

最初の“A Call Beyond”と題されたセットでは、まずバッハのコラール前奏曲《主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる》がグランドピアノで演奏された。映画『惑星ソラリス』(アンドレイ・タルコフスキー監督)で象徴的に使われた曲であり、次に演奏された坂本龍一の《solari》はこの曲の変奏とも言えるもの。《solari》と、それに続くハンス・ジマーの《Day One》(映画『インターステラー』より)では、Prophet-10の神秘的な持続音の上で、アンプリファイドされたアップライトピアノの音色が星屑のようにきらめき、美しい宇宙空間を見せてくれた。そして角野作曲による《胎動》。グランドピアノの鍵盤を上から下へとダイナミックに駆け巡るパッセージで一気に視界が開ける。

2番目のセット“Celestes”は、ひそやかなタッチで奏でられるドビュッシーの《月の光》からスタート。メシアンの《高き御空の眼差し》は前衛的な響きの作品だが、アップライトピアノの内部奏法で打楽器的な効果を生み出したり、アンプリファイドされた低音の上で高音が跳ね回ったりと独自の音響的な工夫が凝らされ、まるで星たちの会話を聞いているようだった。フォーレの《イン・パラディスム》も、遠い記憶の彼方から聞こえてくる子守唄のよう。前半の最後にはアルバムのタイトルトラックでもある角野作曲の《Human Universe》が置かれ、エモーショナルに高潮して締め括った。

休憩を挟んで後半はMCからスタート。「ずっと言いたかったんですけど……」と切り出し、2025年2月28日は天文学的に珍しい「惑星直列」の日であることを熱心に語る。偶然か必然かはわからないが、宇宙をテーマにしたツアーの千穐楽がこの特別な日に開催されるなんて、あまりにも美しいストーリーではないか。

3番目のセットである“Three Nocturnes”は、世界のいろいろな場所の夜空にインスピレーションを得て書かれた、3曲からなる角野のオリジナル。ここでも夢幻的でありながら、どこまでも透徹した響きの世界を作り上げる。アコースティックのグランドピアノと、アンプリファイドされたアップライトピアノ、そしてProphet-10をギャップなく混ぜ合わせる、その音響へのこだわりは尋常ではない。ポスト・クラシカルや音響系のリスナーにもぜひ聴いてもらいたいと思った。

アンコールに憧れのピアニストとセッション!

3つのセットを終えて、プログラムはいよいよクライマックスへ。「神秘的な方向で宇宙に興味をもっていたスクリャービンの哲学がもっとも感じられる曲」だと角野が語るピアノ・ソナタ第5番は、激情、倦怠、軽快、甘美、熱狂……と宇宙の混沌のごとく楽想がめまぐるしく移り変わる。次にアップライトピアノで奏でられたラヴェルの《亡き王女のためのパヴァーヌ》の厳かな優しさに心安らいだのも束の間、最後の弱音が消えるやいなや、ストラヴィンスキー(アゴスティ編)の《火の鳥》に雪崩れ込む。超絶技巧で一気呵成に疾走する〈凶悪な踊り〉、恐ろしげな神秘性をたたえた〈子守歌〉、そして壮大な宇宙へと飛び立っていくような〈終曲〉。全曲を弾き終えた角野を、熱狂的な拍手とスタンディングオベーションが包み込んだ。

アンコールにバッハの《主よ、人の望みの喜びよ》をアップライトピアノで弾き終え、ツアーを支えてくれたスタッフとファンに感謝の言葉を捧げる角野。続いて、《Human Universe》という曲は2019〜20年頃に、11拍子ではじまる曲が書きたくて、尊敬するミュージシャンの頭文字を曲名にして書いたのだと語り出す。ついに念願叶って、そのミュージシャンと3日前にはじめてセッションしたとのこと。そしてステージから「一緒にどうですか?」と角野が呼びかけた先には、なんとジャズ・ピアニスト上原ひろみの姿が! どよめく客席からステージへと上がった上原を前に、角野は緊張した様子だったが、ふたりでピアノに向かうやいなや《The Tom and Jerry Show》のセッションに突入。グランドピアノを上から下へ、下から上へと入れ替わりながらノンストップで高速のラグタイムを繰り出すふたり。上原が《主よ、人の望みの喜びよ》のフレーズを挟んだりしながら、スローダウンとスピードアップを繰り返し、楽しいおしゃべりはいつまでも続くようだった。

武道館公演の日に29歳を迎えた角野隼斗は、これからどこへ向かうのか――。その先へと伸びていく航路が、夜空にくっきりと軌跡を描いたかのようなコンサートだった。

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