布施砂丘彦/ムウシケ
『忘れちまったかなしみに』
浮き彫りになる、音楽を超える余白の存在

<Review>
布施砂丘彦/ムウシケ

『忘れちまったかなしみに』

浮き彫りになる、音楽を超える余白の存在

text by 小島広之
cover photo by 前田博雅

音楽になにかできることはあるのだろうか

音楽は、それ自体では意味を持たない。徹頭徹尾、感性的な存在である。しかし、我々は音楽に意味を求めずにいられない。音楽外的なものを度外視した「純粋」な聴き方はいささか退屈である。「この音楽は、なにを表現しているのだろう。どのような社会的意義があるのだろう。」このような問いを立てながら、人は音楽を聴く。そのとき我々は、音楽そのものだけでなく、音楽と深く関係しているが音楽そのものではない余剰についても思考を巡らせている。2023年8月12・13日に上演された『忘れちまったかなしみに』には、この余剰に耳を向けさせる工夫があった。

以下の引用は『忘れちまったかなしみに』のフライヤー上部に載せられた文である。

けっきょく、音楽には戦争を止めることなんてできない。疫病を治すこともできない。腹を膨らせることも寒さを凌がせることもできない。音楽には、わたしたちを癒してわたしたちが見たくない現実を忘れさせること以外に、なにかできることは、なにかできることはあるのだろうか。

たしかに音楽は役に立つことはない。しかし音楽に何かを求めたい。そのような聴き手の声を代弁するようなメッセージである。

 

コントラバス奏者・音楽批評家の布施砂丘彦は、2020年の柴田南雄音楽評論賞奨励賞受賞以来、プロデューサーとしても活躍し、音楽に新しい魅力を付与しようと試みている。音楽を聴くとはどのような営みでありうるか、音楽はどのような作用を持つのか……『「終わりなき終わり」を「変容」する』(2020年8月)、『歌を捨てよ 分断を歌おう』(2021年1月)、『ミヒャエル・ハイドン・プロジェクト』(2021年〜)、『布施砂丘彦の失敗』(2021年6月)、『いつ明けるともしれない夜また夜を』(2022年5月)、『箱根おんがくの森2022』(2022年8月)、『文体練習』(2022年11月)など……多様な形態の演奏会を通して、音楽の本質を問うている。

かつての彼の演奏会では、たとえばジョージ・ブレクトによるアイロニカルな作品が、そのままアイロニカルな表現のために用いられた、という印象がある(『歌を捨てよ 分断を歌おう』)。一方、今回の『忘れちまったかなしみに』で演奏されたのは、たとえばバッハの《主よ人の望みの喜びを》やシューベルトの《死の乙女》——名曲であることに疑いようはないが、どちらかといえば通俗名曲。それ自体にアイロニカルな仕掛けがあるわけではない。無垢な作品。だからこそ、布施は仕掛けを施すことができた。この日には、以前の演奏会にまして布施の創造力が光った。

意味と無意味の間をたゆたう音世界

演奏会の冒頭、布施の作曲による簡単な《入儀唱》が演奏された。ソロ・ヴァイオリンが演奏するドレミファソラシドの音階に比較的単純な和声がつけられている。単純な音楽で、無意味性の極みのように響く。次いで録音された女声によるメッセージが重ねられる。「おねがいだから、どんなに離れていても君の耳を僕の口にぴったりとくっつけておくれ……」「痛くて悲しいよろこび……」「はやくあっちに行って……」。一つの席から一つのメッセージのみがはっきり聞こえるという工夫がなされており、音は一つの明確な意味を結ばない。意味と無意味の間をたゆたう音世界が、我々を余剰への旅へ誘う。これらの音楽は何なのか。

次いで印象的だったのは、ジャン・フェリ=ルベルの《舞曲の特質》であった。普通、《舞踏さまざま》と訳される作品。異訳が選ばれたことで、この作品が持つ舞曲ならではのものは何なのか、問いが促進される。最初の宮廷での舞踏を思わせるようなしなやかな演奏は、打楽器奏者・本多悠人のリズムが前景化するに従って、次第に生々しい身体性が際立つようになった。なるほどこれが「舞曲の特質」かと考えていると、弦楽器群の音とともに舞踏は止む。そして打楽器連打のカオスに陥る。銭湯施設を改装したコンクリート打ちっぱなしの会場(BUoY)の独特な音響世界の中、しばらく強打が轟くと、それまでの平和な世界は断ち切られた。

©︎前田博雅

音楽の魔力の犠牲者

舞台に一人の男が立った。彼は、黒田崇宏の《“文”は“態”を表す ダンサーと9人の奏者のための》の軋む音楽に翻弄されるように、体を捩る。この男は、音楽の魔力の犠牲者である。ヴィヴァルディの歌劇《ジュスティーノ》より〈喜びと共に合わん〉に合わせて、とあるラッパ兵のエピソードが挿入される。俳優・渡邊真砂珠が、芝居がかった口調で吠えた。「ひとりのラッパ兵がいた。その男の仕事は戦場でラッパを吹き、前線に駆ける兵士たちの精神を鼓舞することだった……彼の奏でる音楽には、人を動かす力があった……自分がなぜ捕えられたのか、ラッパ兵にはわからなかった。彼はラッパが上手だった。それだけだった。だからラッパ兵は言った。私は一介のラッパ兵です。一人も人を殺していません……」。音楽はラッパ兵の意図を超え、残虐な魔力を持ってしまったのだ。そしてモーツァルトの《レクイエム》より〈怒りの日〉では、赤い照明によって戦争のイメージが強化される。ドラマチックな音楽によって、怒りと悲しみが最大限に昂る——しかしそのとき、再び音空間は断ち切られる。吊るされたマイクから、ひたすら周期的なノイズが聞こえる。スティーヴ・ライヒの《振り子の音楽》が醸し出す静的な世界だ。

©︎前田博雅
©︎前田博雅
©︎前田博雅

意味を結ぼうとすると、すぐに霧散する音楽は、とうとう廃墟にたどりつく。ヨハネス・シェルホルンの《御名において 弦楽三重奏のための》やオリヴァー・リースの《ハニー・サイレン》より〈濃い空気のように〉による希薄な音楽が、この雰囲気を象徴している。暗闇の中でダンサーがマッチに火をつける。当然その火はすぐに消え去る……。舞台の中央前景では、ピアニスト・川崎槙耶がなんら音を立てることなく座り込んでいる。印象的な無音、不動。しかし、ただ存在する彼女は、並々ならぬ存在感を持っている。マッチの火が消えると、彼女は眼前のトイピアノに手を触れ、おもむろにバッハの《チェンバロ協奏曲第5番》より第2楽章を演奏した。

©︎前田博雅

布施は音楽に意味を無理矢理担わせることをしなかった。自らの意見を印字して配布したり、長大なテキストや映像を音楽に纏わせることをしなかった。しかし、単純に名曲を羅列したわけでない。本公演では、演奏された音楽が持つ、音楽を超える余白の存在が浮き彫りにされた。感性的な存在である音楽が、それ自体として意味を語り出すような演出を施し、その秘匿された魅力を引き出すような試みであった。

©︎前田博雅

【『忘れちまったかなしみに』公演Webページ】
https://note.com/sakuhiko_fuse/n/naa8e3bcdffd7

※この記事は、これからの時代に活躍してほしい音楽評論家やライターを広くご紹介する、FREUDEの「執筆者応援プロジェクト」の一環として、一般社団法人ビトゥイン・ミュージック・タイズの助成を受けて制作されています。

執筆者:小島広之
東京大学大学院博士後期課程在籍。音楽美学、音楽批評研究。20世紀前半を代表するドイツの音楽批評家パウル・ベッカーの言説を繙くことで、現代音楽黎明期における「新しさ」理念を分析している。音楽研究と並行して、最新の現代音楽における「作曲行為」に触れるウェブメディア「スタイル&アイデア:作曲考」を運営(https://styleandidea.com)、批評活動を行っている(第9回柴田南雄音楽評論賞奨励賞受賞)。
Xアカウント:https://twitter.com/Kojimah

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