<Cross Review>
柴田俊幸&アンソニー・ロマニウク
『バッハとその息子たちによるフルート・ソナタ集』
『バッハとその息子たちによるフルート・ソナタ集』カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタ ト長調《ハンブルガー・ソナタ》H.564 / WQ.133
ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタ ホ短調 FK.52
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:フルートとオブリガート・チェンバロのためのソナタ 変ホ長調 BWV1031~シチリアーノ(ヴィルヘルム・ケンプ編曲)
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタ イ長調 BWV1032
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:フルートと通奏低音のためのソナタ ハ長調 BWV1033 ~Andante – Presto
アンソニー・ロマニウク:前奏曲
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:組曲 ハ長調 BWV997柴田俊幸(フラウト・トラヴェルソ)
アンソニー・ロマニウク(チェンバロ/フォルテピアノ)録音:2024年5月8-10日
Channel Classics/ナクソス・ジャパン株式会社
即興で新地平を切り拓くデュオ
井上玲(リコーダー・トラヴェルソ奏者)
即興的な対話が前面に出た演奏。アーティキュレーション、ダイナミクス、装飾、テンポ・ルバートやアゴーギクといった音楽のニュアンスを構成する様々な要素が、二人の奏者の間で非常にフレキシブルかつ有機的にやり取りされている。あらかじめ練られた解釈を再現するというより、その場ごとに生じる反応や関係性の中で音楽が構築されていくような印象を受けた。もう一度録音すれば音楽のナラティヴは全く異なる軌道を歩むだろうし、日本でたびたび行われているデュオ公演でも、聴くたびに異なる「彼らのバッハ」に出会えるのではないかと思わされる。
柴田のフラウト・トラヴェルソの音質は、吹き込まれる息が生む雑味を含んでおり、これが独特の質感をもたらしている。ピリオド楽器には、整備された現代楽器とは異なる音響的特性があり、そのひとつがこの「雑味」である。「雑味」と「雑音」は本質的に異なり、演奏者の身体性や操作性が音に直接反映されることで、聴き手にアナログな生々しさと温度を感じさせる。この雑味を適切に制御することは演奏上の重要な要素であり、柴田の演奏はそこを高い精度で実現していた。使用された3本の楽器(いずれもバッハにゆかりのあるオリジナル楽器のコピー)も、それぞれ異なる音色的キャラクターを備えており、曲想や構成に応じて巧みに使い分けられている。
さらに印象的だったのは、美しい音に限定せず、音響の幅を広げるために、いわゆる「荒い音」も意図的に取り入れている点だ。オーバーブロウ、極度に細い音量での発音、タンギングの多様さなど、単に澄んで美しい音に限定しない、修辞的な表現手段としての音色の活用が徹底されていた。ロマニウクのチェンバロおよびフォルテピアノも同様に、伝統的な枠にとどまらない表現が展開されており、二人の演奏には楽器の限界を押し広げようとする志向が見て取れる。現代音楽に関わってきた経歴が、こうしたアプローチに影響を与えているのかもしれない。
即興性を根底に持ちながらも、音楽のディテールは緻密に構築されており、柔軟さと統制が両立している点が特筆される。そして何より、このデュオからは「今まさに音楽が生まれている」という感覚が明確に伝わってきた。完成された作品を再現するのではなく、時間と空間の中で音楽が生成されていく過程そのものが提示されていた。古楽演奏という枠組みを踏まえた上で、音楽が本来的に持つ即興性と構築性のバランスをあらためて問い直すような内容であった。
時代と個性が生んだ「再創造」
加藤浩子(音楽評論家)
古楽は面白い。
毎年ライプツィヒのバッハ音楽祭に通っているのだが、つくづくそう思う。演奏も多彩ならレパートリーも多様。使う楽器の種類も奏法も演奏家によって違うし、レパートリーも(発掘、再現されたものも含めて)増えている。時間軸の縦横を取り込んで発展している感じなのだ。その背景に、意欲的な演奏家層の充実があるのは間違いない。
フラウト・トラヴェルソの柴田俊幸は、今最も注目されている古楽奏者の一人だろう。古楽とモダンを行き来し、演奏だけでなくプロデュースにも取り組むマルチな才能を発揮する。だが元々古楽とコンテンポラリーは発想の自由度という点で相性がいいし、古楽の時代の音楽家はバッハも含めて皆自分でプロデュースもするマルチタレントだった。
そんな柴田の演奏は、「古楽」という体裁をとりながら「今」の空気を伝えてくれる。特に最近共演している鍵盤楽器奏者のアンソニー・ロマニウクとのデュオでは、「そこにある音」からインスパイアされるかのような演奏が聴ける。
最新盤の『バッハとその息子たちによるフルート・ソナタ集』は、このデュオの充実を、そして「古楽」の「今」を教えてくれるスリリングなアルバムである。即興はもちろん、楽器の選択から、散逸した部分の補筆、既存の曲の自由な拡大、演奏者(ロマニウク)による「前奏曲」の追加まで、踏み込んだ冒険が満載だ。そして、二人が丁々発止と繰り広げる音楽の息遣いのリアルなこと!
ヴィルヘルム・ケンプがピアノ独奏用に編曲した「シチリアーノ」がフルートとフォルテピアノのヴァージョンで収録されているのも、一昔前だったら「オーセンティックな選曲ではない」と言われたかもしれない。だがこの編曲だと、フォルテピアノとトラヴェルソの哀愁に満ちた共演が楽しめる。いいものはいい。そういわれているような気がする。
楽器の選定へのこだわりも興味深い。ロマニウクがチェンバロとフォルテピアノを弾き分け、柴田は3タイプのトラヴェルソを吹き分ける。どの曲に何を使うかは、地域性、時代、曲の性質によって異なってくる。例えばバッハの長男であるヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのソナタには、作曲されたドレスデンで活躍していたビュファルダンの軽やかな音色のトラヴェルソが用いられ、本作のヴィルトゥオジティを満喫できる。一方、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハの《ハンブルガー・ソナタ》では、エマヌエルの同僚だったクヴァンツの華やかで力強い楽器。鍵盤楽器は前者がリュッカースのチェンバロ、後者がエマヌエルが得意としたフォルテピアノで、それぞれ音色がしっくりくる。特に後者の強弱の幅の広さやテンポの自在さは、フォルテピアノとの組み合わせあってのものだろう。チェンバロの豊かな響きの醍醐味は、BWV1032のソナタで味わえる。
もともとリュートのための作品だったBWV997は、本CDの白眉とでもいうべき工夫満載の演奏だ。ロマニウクによる「前奏曲」の追加に始まり、最終楽章で楽譜にない「ドゥーブルII」を付け足し、トラヴェルソの即興を加え、フォルテピアノの後奏でテーマを回想するという自在さ。だが柴田がライナーノーツで書いているように、バッハの時代にはよくあったことだろう。鍵盤楽器は、音色がよりリュートに近いフォルテピアノが用いられている。
柴田は当CDのブックレットに、「当時の演奏を再現する」のではなく「再創造」を目指すと記している。ここにあるのはまさに「再創造」の軌跡だ。ただし当時の文脈をよく理解していないと「再創造」はできない。自由でいるためには、深く、幅広い知識が不可欠なのだ。
柴田とロマニウクは古楽の本場とされるベルギーで学んだが、モダン楽器の体験も豊富で、同時代ものの即興の経験を古楽に活かしている。(他の演奏家の名前を出すのは本意ではないが)リコーダー奏者で「アントネッロ」を率いる濱田芳通は、ルネッサンスや中世に遡ることで同じような自由さを獲得している。柴田や濱田の活躍を見ると、時代がようやく彼らに追いついてきたのだと実感する。
こういう演奏に出会えるから、「古楽」から目が離せないのだ。
ナラティヴを貫く独自性、探求心、現在性
松山晋也(音楽評論家)
古楽とはつまりプログレである。そう思い至ったのはちょうど50年前だったと思う。中学~高校時代の70年代前半、ほぼ毎朝6時半から聴いていたNHK-FM『バロック音楽のたのしみ』で、皆川達夫先生はしばしば中世~バロック音楽の柔軟さ、自由さを讃えつつ、当時の作曲家はすぐれた即興演奏家でもあったと力説された。いわば現代のジャズ・ミュージシャンのようなものであるとも。そして私はクリス・ヒンゼ(オランダのジャズ・フルーティスト)の「おお、こうべは血にまみれ」(マタイ受難曲)やアンソニー・ニューマン(米国の鍵盤奏者)の「ブランデンブルク協奏曲第5番」などにしびれた。ニューマンの高速カデンツァのドライヴ感やリズムの自在な伸縮などはキース・エマーソンやリック・ウェイクマンよりもずっとプログレだと思った。300年前の作品なのに、それは確かに今現在の音として鳴っており、未来すら見えた。あの時以来ずっと、私にとって古楽とは、時空を超えた現在進行形の現代音楽なのだ。そこには、どんなボーダーも超えてゆく内発的躍動感と冒険心、独立した自由な精神、無限のイマジネイションがなくてはならない。
といきなり大風呂敷を広げてしまった(申しわけない)のも、この二人の自由闊達な演奏に刺激されたからだ。実は、この原稿を依頼されるまで二人の作品は聴いたことがなかったのだが、この機会に彼らの過去の音源をソロ作品も含めていろいろ聴いてみた。そして彼らのナラティヴを貫く独自性、探求心、現在性に心踊らされた。即興パートを含むメロディの歌い方にも、フレーズとフレーズの間合いの取り方とそこに生まれる無言のテンションにも、楽器(ハープシコードとフォルテピアノ)選択込みの音色にも強いこだわり、別の言い方をすれば「訛り」があり、その二つの訛りの水平的対話が特殊なバイブスを発している。それはまさしく現代音楽(コンテンポラリー・ミュージック)にほかならないし、私にとってのプログレでもある。演奏技術の点だけとれば、もっと巧みな奏者はたくさんいるだろう。しかし私にとって最も大事なポイントは、厳存する物語(楽譜)を自身の身体にいかに取り込み、感じ、今現在のヴィヴィッドな表現として昇華させられるのか、ということだ。皆川達夫先生がご存命で『バロック音楽のたのしみ』が今も続いていたら、きっとこのアルバムを嬉々として紹介されたであろうと確信する。「これぞ、古楽です」と。
公演情報
柴田俊幸&アンソニー・ロマニウク日本ツアー2025
8月15日(金)金刀比羅宮 神楽殿 奉納演奏(デュオ/チェンバロ)
8月17日(日)豊田市能楽堂(デュオ/チェンバロ、ヴァージナル)
8月18日(月)ハレ・ルンデ(ロマニウク・ソロ/チェンバロ、ピアノ、エレクトリック・ピアノ)
8月20日(水)日経ホール(ロマニウク・ソロ/チェンバロ、ピアノ、エレクトリック・ピアノ)
8月21日(木)高崎芸術劇場 音楽ホール(デュオ/チェンバロ)
8月22日(金)大阪大学中之島芸術センター(実演付き講座/デュオ
8月23日(土)神戸酒心館〈KOBE国際音楽祭2025〉(デュオ/フォルテピアノ)
8月24日(日)山口南総合センター(デュオ/フォルテピアノ)
8月26日(火)サントリーホール ブルーローズ(デュオ/フォルテピアノ)