ふたつの《春の祭典》
イスラエル・ガルバンとNoism

[Stravinsky 50]
ふたつの《春の祭典》

イスラエル・ガルバンとNoism

text by 有馬慶

今年は20世紀を代表する作曲家ストラヴィンスキーの没後50周年である。彼の代表作《春の祭典》について、私が観た最新の舞台をふたつご紹介しよう。

ひとつは、フラメンコ出身の革新的なダンサー、イスラエル・ガルバン。舞台上にいるのは彼と二人のピアニスト(あと譜めくり)だけ。その情報からミニマルなものを想像していたが、とんでもない。これほどダイナミックでエキサイティングな《春の祭典》を私は他に知らない
舞台が明るくなると現れるのは、床に身体を横たえ脚でピアノの弦を掻き鳴らすガルバンの姿!これだけでも度肝を抜かれるが、あちこちに配置された多種多様な素材を次々と踏み鳴らしていく様子は新鮮である。例えば、〈春のきざし〉では木製の板を勢い良く踏み鳴らし、あの力強いリズムをバシッと決める。〈春のロンド〉では地を這うような低音にあわせて、砂利を踏みにじる。第二部では長いスカートを身に着け、ピアノの周りを動き回り、妖しい魅力を放つ。
もともと《春の祭典》には物語らしい物語はないが、ガルバンは徹底して標題性を取り去っている。現代風の読み替えはもちろん、いかなる具象化も行われない。彼の身体の動きとそれに伴う音、そしてストラヴィンスキーの音楽がそこにあり、それらが見事に渾然一体となっているのだ。この純音楽的な身体芸術の極致にはただ圧倒されるしかない。

神奈川公演主催:Dance Base Yokohama 企画制作・招聘・愛知公演主催:愛知県芸術劇場
写真提供:Dance Base Yokohama ©Naoshi Hatori

もうひとつは、金森穣が芸術監督を務め、新潟を拠点に活動するダンス・カンパニー、Noism。白い衣装を身に着けた人々。一人一脚ずつ与えられた椅子。周囲を取り囲む黒い幕。見た目はシンプルであるが、こちらには現代における「生贄」とは何かを問い直すという明確なテーマがある。何者かの脅威に怯えた人々は疑心暗鬼に駆られて一人を「生贄」として攻撃するが、最後には凄惨なカタストロフが訪れる。言うまでもなく、今まさに世界を襲っているパンデミックが背景として想定されている。
《春の祭典》は有名なベジャールをはじめ「エロティシズム」を強調することが多かったように思うが、これほど「暴力性」に特化した例も少ないだろう。特に第二部序盤の美しく神秘的な弱音までもが、目に見えない正体不明の恐怖として聞こえてしまうのには驚いた。
しかも、悲観的な結末では終わらない。最後の最後、倒れた人々が起き上がると、互いに手を取り合い舞台の奥へと進んでいくのだ。恐ろしい破壊だけでなく再生も描いて見せたところに、人間という存在への理解と希望を感じた

いずれもアプローチは対照的であるが、《春の祭典》がおよそ100年前の人々に与えたであろう衝撃が蘇るような舞台であった。

Noism0+Noism1+Noism2『春の祭典』演出振付:金森穣 撮影:篠山紀信

 

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