愛知室内オーケストラ挑戦の記録
Vol.7 巨匠オピッツとの共演が示した来るべき豊穣
text by 池田卓夫(音楽ジャーナリスト@いけたく本舗®︎)
cover photo ©堀田力丸/提供:愛知室内オーケストラ
ACOとオピッツ、1年ぶりの再会
愛知室内オーケストラ(ACO)は折に触れて世界の名演奏家をソリストに招き、協奏曲はもちろん、ときには室内楽も交え、表現力に磨きをかけてきた。ドイツの戦後世代を代表するピアニスト、ゲルハルト・オピッツ(1953年生まれ)もそのひとり。夫人が日本人という縁もあって親日家、ACOとは2021年12月、前年に続くベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲演奏会で2度目の共演を果たした。
2021年は12月21日に名古屋・三井住友海上しらかわホール、22日には東京・浜離宮朝日ホールでACOメンバーとの「室内楽の夕べ」(オピッツが加わったのはベートーヴェンのピアノと木管楽器のための五重奏曲とブラームスのピアノ五重奏曲)を終えたあと、協奏曲の準備に入った。本番は東京・紀尾井ホールにて、27日に第2番、第1番、第3番、28日に第4番、ヴァイオリン協奏曲を作曲家自身がピアノ用に編曲した協奏曲、第5番《皇帝》と作曲年代順に演奏。指揮は新型コロナウイルスのオミクロン株拡大に伴う外国人入国規制に伴い、当初予定されていた指揮者と、代役を引き受けた指揮者のふたりが相次いでキャンセルとなり、すでに入国済みだった東京交響楽団桂冠指揮者のユベール・スダーンが急場を救った。オランダ生まれの名匠はオピッツとの共演歴も長い。
万事に几帳面なオピッツのこと、ベートーヴェンの協奏曲全曲演奏は「1984年のミラノで始めて以来、2021年12月のACOが19回目に当たります」とカウントした。ただ漫然と、全曲演奏を繰り返すわけではない。ヴァイオリン協奏曲の編曲版を全曲演奏の一角に組み入れたのは、実は今回が初めてだという。オピッツは巨匠となっても常に挑戦する姿勢を忘れないピアニストなのだ。オピッツは1995から1996年にかけて、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団定期演奏会と並行して、マレク・ヤノフスキの指揮でRCA(現ソニーミュージック)にベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲録音した際、ヴァイオリン協奏曲の編曲版を加えて話題を呼んだ。「これは録音だけの企画で、演奏会では通常の5曲しか演奏しなかったのです」
全曲演奏はアプローチ共有の好機
聴き手のひとりとして、改めて2日間の全曲演奏を振り返る。第2番の序奏を聴いただけで、スダーンの短時間にオーケストラを引き締めるトレーナーの手腕や、「上から下」だけでなく「下から上」のリズムも適確に刻みながらフレーズを息づかせるヨーロッパの流儀が際立った。オピッツのタッチも脱力が行き届き、細かなトリルの1音1音が真珠のように輝く。和声の細部、前打音(アッポジャトゥーラ)に至るまで入念に吟味した様式感の確かさは、「ベートーヴェン解釈の規範」とされるだけのことがある。第1番ではACOと噛み合って音楽の解像度を上げ、メタフィジカル(形而上的)な響きが立ち上る。第3番では作曲技法の急激な進歩を映してタッチの重量感も増した半面、指揮者、オーケストラとも力みが目立ち、少し疲れが見えたのは、大曲の連続という全曲演奏ゆえのものだろう。
第2夜。第4番はオピッツ、スダーンの好リードに対し、最初は少し探るような様子も見せたACOだが、最終楽章で気合いが入り、ヴァイオリン協奏曲の編曲版から《皇帝》にかけての全力投球につながった。オピッツの美しいタッチは一段と冴え、ACOとの室内楽的「会話」も闊達の度を増し、透明かつパワフルな響きがホール一杯に広がる。全プログラムの最後、《皇帝》の第3楽章はティンパニの客演首席奏者、安江佐和子との「静寂の交感」を経て、どこまでも晴れやか(hellich)な終結部に着地した。「協奏曲全曲をひとりの指揮者、同じオーケストラと演奏するのは、作曲家の音楽語法に対するアプローチを共有できる好機なのです」と、オピッツは指摘する。
ACOとは2020年12月に、同年末で6シーズンにわたる常任指揮者の任期を終えた新田ユリの指揮で、最初のベートーヴェン全曲演奏(ヴァイオリン協奏曲の編曲版を除く5曲)を行っている。「何人かは新しい顔ぶれでしたが、楽しそうに作品と向き合う素晴らしいチームの情熱には、1年前と変わらない敬意を抱きました。ふたりの指揮者のアプローチには違いがあるものの、ベートーヴェンの精神をつかむ姿勢の基本は変わらず、尊敬をもって共演しました」
充実したリハーサルがもたらす成長への大きな糧
スダーンとは1981年以来、ベートーヴェンやブラームスの協奏曲を中心にすでに30回は共演している。ふたりは初共演からアプローチの根幹に共通のものを感じ、余分なディスカッションなしにすぐ、リハーサルを始められる間柄だという。スダーンも「今回のACOは急な代役でしたが、オピッツさんは長年のコラボレーターですから、不安はありませんでした。オーケストラ単独の楽曲を含まないベートーヴェン・プログラム。絶えず“良い演奏をしよう、良い状況に持って行こう”と明確な意思を持ったチームとの共演は、理想の協奏曲演奏を実践する場となり、私に大きな喜びをもたらしました」と、手ごたえを率直に語る。
オピッツ、スダーンがそろって指摘したのは、ACOのリハーサルの充実だった。オピッツは「残念なことに世界の多くのオーケストラで、協奏曲のリハーサルは極端に短いのです。指揮者はソリストのいない交響曲や管弦楽曲に多くの時間を注ぎたいあまり、協奏曲には1時間かそれ以下しか割きません。今回、ACOが2日連続正味4時間の長いプログラムに対し、毎日3〜4時間のリハーサルを4日間も設定してくださったのは、作品への理解を深めるうえで非常に有益でした」と指摘する。スダーンも「私とACOだけで2日間、オピッツさんを交えてさらに2日間のリハーサルを行い、ベートーヴェンの6曲をみっちり究めたことは、今後ACOの成長にも大きな糧となるでしょう」と語った。
リハーサルから本番まで6日間、オピッツやスダーンと音楽づくりの基盤を共有したこと自体が、ひとつの大きなワーク・イン・プログレスだった。オピッツは「まだ若いACOの皆さんがさらに異なる時代、様式の作品と向き合いながら音楽の地平を広げ、多様な作品への感受性を洗練させ、アーティストとしても人間としても、さらに価値のある発見をされることを願ってやみません」とエールを送る。スダーンも「もともと予定されていた2022年11月11日の定期演奏会、フォーレとドヴォルザーク、グリーグのプログラムでACOの皆さんと再会するのが楽しみです」と期待を寄せる。師走の東京で、名古屋から来たACOが、来るべき豊穣の日々を宣言した有意義な2夜だった。
愛知室内オーケストラ 2022年6月の公演情報
第35回定期演奏会
2022年6月25日(土)開演14:00(開場13:15)
三井住友海上しらかわホール
指揮・クラリネット:アンドレアス・オッテンザマー
モーツァルト:交響曲第39番 変ホ長調 K.543
メンデルスゾーン:「無言歌集」より抜粋
ベートーヴェン:序曲「コリオラン」作品62
ベートーヴェン:交響曲第1番 ハ長調 作品21公演詳細:https://www.ac-orchestra.com/20220625-aco35
第36回定期演奏会 コンチェルタンテ・シリーズ第3回
2022年6月30日(木)開演18:45(開場18:00)
三井住友海上しらかわホール指揮:山下一史
ヴァイオリン:矢口十詩子
オーボエ:山本直人
ピアノ:宇根美沙惠
ティンパニ:安江佐知子
トランペット:ヨウコ・ハルヤンネ
ファゴット:野村和代J.S. バッハ:ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲 BWV1060
マルティヌー:2つの弦楽合奏とピアノ、ティンパニのための二重協奏曲
ヒンデミット:トランペット、ファゴットと弦楽のための協奏曲
ショスタコーヴィチ:交響曲第9番 変ホ長調 作品70公演詳細:https://www.ac-orchestra.com/20220630-aco36
ユベール・スダーンと愛知室内オーケストラの次回共演情報
第43回定期演奏会
2022年11月11日(金)開演18:45(開場18:00)
三井住友海上しらかわホール
指揮:ユベール・スダーン
フォーレ:管弦楽組曲「ペレアスとメリザンド」 作品80
ドヴォルザーク:管楽セレナード ニ短調 作品44
グリーグ:「ペール・ギュント」第1組曲 作品46、第2組曲 作品55公演詳細:https://www.ac-orchestra.com/2022-2023season
SS席:6,000円
S席;4,500円
A席:3,500円
B席:2,500円
U25席(25歳以下):1,000円愛知県芸術文化センタープレイガイド:052-972-0430
アイ・チケット:0570-00-5310 http://clanago.com/i-ticket
しらかわホールチケットセンター:052-222-7117
チケットぴあ:https://t.pia.jp/愛知室内オーケストラ公式HP:https://www.ac-orchestra.com