<Artist Interview>
坂入健司郎
新たなる指揮者像を追い求めて【後編】
text by 八木宏之
今、最も注目される若手指揮者のひとり、坂入健司郎。大学卒業後10年間勤めたぴあ株式会社を2021年の秋に退社し、指揮者としてその活動を本格化させている坂入は、全国のプロ・オーケストラに次々と客演して、大きなインパクトを残している。インタビューの後編では、仲間である東京ユヴェントス・フィルハーモニーへの想いから、坂入のマーラー観、ブルックナー観、そしてこれからのビジョンまで、坂入の音楽世界の内奥に鋭く迫っていく。
たくさんの仲間に恵まれた10年
――2008年の慶應義塾創立150年記念事業の一環で慶應義塾ユースオーケストラを設立され、それが今日の東京ユヴェントス・フィルハーモニーへと発展していくわけですが、慶應義塾ユースオーケストラを作られた経緯はどういうものなのでしょう?
先ほどもお話ししたように、中学生で指揮を始めて、高校生のときには高校ワグネルの正指揮者になったのですが、当時は独りよがりなところもあって、リハーサルをボイコットされてしまうなんてことも経験しました。また大学ワグネルは学生が指揮をすることができないので、指揮をする機会をなかなか得られず、この時期は挫折も多かったのです。
そんなときに慶應義塾創立150年記念事業の一環で指揮をする機会をいただいて、それが今日の東京ユヴェントス・フィルハーモニーに繋がっていきました。ユヴェントスでは沢山の素晴らしい演奏家、作曲家の方と一緒に音楽をすることができ、自分の人生の重要な要素となっていきました。
――2021年の秋にはぴあ株式会社を退社され、プロの指揮者として次のステージに進まれました。
ユヴェントスはもちろん、2016年にスタートしたプロ・オーケストラ、川崎室内管弦楽団もそうですが、サラリーマンをしながら指揮活動を続けてきたこの10年間は、本当にたくさんの仲間に恵まれて、音楽的に充実した時間を過ごすことができました。
ただ、これまでは平日はフルタイムで働いていたので、スコアを勉強したり、楽器に触れたりする時間は限られていました。これからは指揮者として必要な、そうした時間も充分にとって活動していきたいと思っています。
私は本来飽きっぽい性格なのですが、クラシック音楽、指揮をすることだけは飽きることがなかった。そのことを確認できた10年でもありました。
――坂入さんとともにユヴェントスもオーケストラとして大きく飛躍しました。2021年7月に行われた山本哲也さんの《イン・ザ・サークル》の日本初演は圧巻の演奏でした。こうした新曲初演はマーラーやブルックナーのモニュメンタルな作品とはまた違った難しさがあると思いますが、コンテンポラリーでも人の心を揺さぶる演奏ができるのは、オーケストラのポテンシャルとして誇るべきことですね。
ユヴェントスがコンテンポラリーにも強くなれたのは、ピアニストの舘野泉さん(2002年に脳溢血で倒れ、後遺症のため右半身不随となるが、“左手のピアニスト”として復活を遂げた)との共同作業のおかげです。舘野さんとは左手のための協奏曲(第一次世界大戦で右手を失ったピアニスト、パウル・ヴィトゲンシュタインは多くの作曲家に左手のための協奏曲を委嘱し、とりわけラヴェルによるものが名高い)を10曲演奏して、そのうち半分は日本初演もしくは世界初演でしたから。とりわけルネ・シュタールさんの作品は難曲でしたが、そうした作品を演奏した経験によって、オーケストラの技術は飛躍的にレベルアップしたと思います。
指揮者は究極の中間管理職
――プロの指揮者としてキャリアをスタートされて、早速さまざまなプロ・オーケストラを指揮されていますが、プロのリハーサルは、仲間であるユヴェントスとのリハーサルとはどのような違いがあるのでしょうか?
プロのオーケストラのリハーサルは、ロジカルでシステマティックであることが求められます。同時にロジックの部分がしっかりとしていれば、全てが完璧にクリアになる。そこがプロのオーケストラの凄いところですし、これからはそうしたリハーサルができるように準備をして、自分を磨いていかなければいけないと思っています。プロのオーケストラは高いポテンシャルを持っている集団なので、リハーサルの段階ですでに全員の準備ができています。指揮者が「あなたのパートはしばらくお休みのあと久しぶりに吹くところですよね、お待たせしました!」とか「ここの和音の変化は本当に美しいですよね」といったことをアイコンタクトなどによってオーケストラとコミュニケーションしていけば、言葉は無くても自ずと演奏は素晴らしいものになっていくのです。それがプロのオーケストラを指揮することだと思っています。
指揮者は作曲家と、お客さんと、オーケストラの間に立つ究極の中間管理職です。とりわけSNSの時代においては、指揮者とオーケストラのコミュニケーションだけでなく、指揮者とお客さんのコミュニケーションの機会も増しています。私はそうした時代の流れの中で、オケともお客さんともコミュニケーションをとる指揮者でありたいと思っています。
――プロの指揮者になられて、プロのオーケストラを指揮されるようになっても、ユヴェントスとの活動は坂入さんの大切な核であり続けるのでしょうか?
もちろんです。私が出会った素晴らしい指揮者にユヴェントスを指揮していただくという機会は今後あるかもしれませんが、私はずっとユヴェントスの音楽監督であり続けます。
また2021年から関西でもオーケストラ・リベルタという京都大学のオーケストラのメンバーが立ち上げた新しいアマチュア・オーケストラにお声がけいただいて、音楽監督として活動しています。リベルタも年に2回のペースで継続的に指揮し続けていく予定です。
アマチュア・オーケストラだからこそ、普段なかなか演奏できない作品に挑戦したり、コンセプチュアルなプログラムを組んだりすることが大切です。クラシック音楽ファンの方々に、プロのオーケストラと同じような感覚でユヴェントスやリベルタの演奏会に来ていただけたら嬉しいですし、このふたつのオーケストラが日本のクラシック音楽界に必要とされるオーケストラになって欲しいと思っています。
マーラーとブルックナー
――2022年1月15日に行われるユヴェントスの活動再開記念公演ではマーラーの交響曲第2番《復活》のほか、アイヴズの《答えのない質問》とヴォーン・ウィリアムズの《トマス・タリスの主題による幻想曲》が演奏されます。この演奏会は、坂入さんのそうした想いとコンセプトを反映したプログラムと言えますね。
コロナ禍を総括するような演奏会をユヴェントスでやりたいという想いはずっとありました。ユヴェントスでは2015年1月にマーラーの交響曲第2番《復活》を演奏しているので(下にある《復活》の演奏映像はそのときのもの)、本来であれば新しいレパートリーに挑戦するところなのですが、今回のコロナ禍を経て、改めて《復活》を演奏することは、演奏家にとっても、お客さんにとっても重要な意味を持つと思ったのです。
――《復活》の合唱は、ずっとリモート練習を重ねてきたとか。
合唱は指導者と歌い手をオンラインで繋いで、演奏会の直前まで直接集まることなく練習を続けてきました。プログラム前半のアイヴズの《答えのない質問》とヴォーン・ウィリアムズの《トマス・タリスの主題による幻想曲》は、どちらも演奏するオーケストラに奏者同士のディスタンスがある作品で、この2曲は私たちがコロナ禍で体験したことを象徴しています。そのあとに死と再生の音楽であるマーラーの《復活》を演奏し、最後にはリモートで練習を重ねてきた合唱団がステージに集って高らかに「復活」を歌います。こうしたストーリーとコンセプトを持った演奏会で、この2年間を音楽によって総括したいのです。
――坂入さんはマーラー指揮者として語られることも多いですが、坂入さんにとってマーラーとはどんな作曲家でしょうか?
マーラーを初めて聴いたのは中学1年生のとき、NHKの FM放送で、エリアフ・インバル指揮NHK交響楽団の《復活》でした。その後2003年にNHKホールで準・メルクルとN響による《復活》を聴いて、それが生で体験する初めてのマーラーとなりました。
マーラーは19世紀末の作曲家としてはかなり器用な人物であり、指揮者としてのバランス感覚を作品からも感じます。マーラーは幸せなときに悲しい作品を書き、悲しいときに幸せな作品を書く作曲家です。そういう意味で、第5番や第6番の交響曲は幸せ過ぎて恥ずかしくなってしまうのですが、作曲家として不遇の時期に書かれた第2番、弟の自殺という衝撃のなかで書かれた第3番、そして妻アルマの不倫に苦しみながら書かれた第10番などは、美しい作品ですが、その背景には深い悲しみがあって強く惹かれます。
マーラーはスコアに細かな指示を書き込んでいますが、それをただなぞるだけではマーラーの音楽にはなりません。それらの指示を踏まえて指揮者がさらにスコアを読み込むことが何より大切です。マーラーによる指示が書かれている前の部分から次の指示への準備を始めないと、ガタガタとした不安定な演奏になってしまいます。マーラーの交響曲の演奏は車の運転に似ていて、標識が見えたらそれに備えて前もって準備するのと同じイメージです。
――マーラーとともに、ブルックナーも坂入さんが得意とするレパートリーです。ユヴェントスとの《復活》の1週間後、1月23日には愛知室内オーケストラとのブルックナーの交響曲第4番《ロマンティック》(コーストヴェット版第2稿日本初演)も予定されています。また2024年のブルックナー生誕200年には、ブルックナー・ツィクルスを行うと表明されていますね。
ブルックナーは本当にピュアな作曲家です。マーラーのスコアにはたくさんの指示がある一方で、ブルックナーのスコアは指揮者がその意図を汲み取ってあげなければなりません。ブルックナーの演奏には指揮者の共感力が求められるのです。
ブルックナーは本をほとんど読まず、家には聖書しかないような人でした。ワーグナーの崇拝者と言われていますが、物語やライトモティーフには全く関心がありませんでした。ブルックナーは音楽と物語が結びつかない作曲家なのです。ただし聖書の世界に生きていた人なので、黙示録のなかにある天使のラッパが突然鳴り響いてカタルシスが訪れるような表現はブルックナーの交響曲に度々現れます。ブルックナーの音楽には敬虔な信仰のなかに俗っぽい艶かしさが共存していて、カトリック特有のラテン的なテクスチャを感じさせます。そうした聖と俗のバランスがブルックナーの交響曲を演奏するうえでとても大切なのです。
ブルックナーはシューベルトとともにオーストリアの真のローカルな作曲家です。ブルックナーが多くの時間を過ごしたザンクトフローリアン修道院の周りの農村風景こそがブルックナーの交響曲を理解するうえで欠かすことのできない要素で、それはドイツとは全く異なるオーストリア固有の色と匂いを持っているのです。
愛知室内オーケストラと演奏する第4番《ロマンティック》には作曲家の中世への憧れが反映されていて、ブルックナーの音楽美学が凝縮されている作品だと言えます。生誕200年を記念したブルックナー・ツィクルスでは、第1番から第9番まで全ての交響曲を指揮するつもりです。それに加えて異稿など普段あまり演奏されない作品も取り上げたいと考えています。
簡単なことと夢中になることはイコールではない
――今、クラシック音楽界では若い世代にもっと聴きに来てもらうためのさまざまな模索をしていますが、それらは道半ばです。ぴあ株式会社で働きながら指揮活動を展開し、クラシック音楽界を独自の視点で見つめてきた坂入さんは、現状をどう分析され、クラシック音楽界が若い世代により開かれたものになるためにはどうしたら良いとお考えですか?
クラシック音楽の聴き手の高齢化は日本以上にドイツ、オーストリアが深刻です。日本のクラシック音楽はバブルの時代に盛り上がったものなので、50代、60代に分厚いファン層がいます。韓国は10歳ほど若く、熱心なファンは40代に多いのです。中国はさらに若くて、私たちの世代である30代が多くクラシック音楽を聴いています。このようにクラシック音楽の隆盛は国によって時間差があります。日本のクラシック音楽界はお客さんが高齢化して、市場が縮小していると言われていても、まだまだ世界有数のクラシック音楽市場であり、その規模はロンドンとニューヨークに並びます。とは言えこのままでは、高齢化と市場縮小は加速するでしょう。
現在の日本のクラシック音楽のファンを分析してみると、その関心が細分化され過ぎているということが指摘できると思います。バブルの頃はCD(レコード)を買う人、コンサートへ行く人、アマチュアで楽器を演奏する人が重なっていましたが、今はCDを買う人はあまりコンサートへは行かず、アマチュア・オーケストラで演奏する人もあまりコンサートへは行かないという状況があります。こうした現状に流動性を持たせることが重要だと思います。
テレビゲームって難しくて、攻略本がないとクリアできなかったりしますよね? それでもみんな熱中しています。それなのになぜクラシック音楽の入門コンサートや子ども向けコンサートは「わかりやすい」作品しか演奏しないのでしょうか。簡単なことと夢中になることはイコールではないのです。子供たちに聴いてもらうコンサートこそ、大人も楽しめるような内容にして、思い切り「背伸び」できる工夫をしなければ、子供たちには退屈なコンテンツとしてトラウマを植え付けるだけです。「わからないけれどわかりたい」と思ってもらうことが、クラシック音楽の未来のために絶対必要なことだと思います。
歌舞伎では観劇用のイヤホンガイドが用意されています。クラシック音楽、オーケストラのコンサートだって、初めて来場したお客さんにはイヤホンガイドを用意してもいいのではないかと思っています。クラシック音楽が面白いコンテンツなんだということをわかってもらうためには、それくらいやっていく必要があるのではないでしょうか。
――最後にブルックナー・ツィクルス以外にも、今後チャレンジしてみたいプロジェクトなどがあれば教えてください。
近現代の取り上げられないオペラ、例えばヒンデミットのオペラ3部作《殺人者・女の望み》《聖スザンナ》《ヌシュ・ヌシ》などをユヴェントスでやってみたいですね。それから、バロック音楽も!交響曲ではブルックナー以外にも、ブラームスとシベリウスの交響曲全曲には今後取り組んでいきたいと思っています。
指揮者坂入健司郎のこれまでの歩みからこれからのビジョンまで、その全容に迫った今回のインタビューは、坂入の名前は知っているけど、どんな指揮者なのかはまだ知らないというクラシック音楽ファンへの良き「坂入健司郎ガイド」になったのではないだろうか。これから坂入健司郎の名前をオーケストラやホールのプログラムの中に見つけることがますます多くなってくるだろう。坂入がプロのオーケストラと繰り広げる熱いやりとりにはぜひ注目して欲しいのだが、同時に東京ユヴェントス・フィルハーモニーやオーケストラ・リベルタで坂入が取り組む新たなレパートリーやコンセプチュアルな演奏会にもぜひ目を向けて欲しい。プロフェッショナルとアマチュアの間に線を引かないことこそが坂入の音楽思想の核心であり、その全てに目を向け、耳を傾けて初めて、坂入健司郎の芸術を知ることができるのだ。
坂入健司郎 Kenshiro Sakairi
1988年5月12日生まれ、神奈川県川崎市出身。慶應義塾大学経済学部卒業。
これまで指揮法を井上道義、小林研一郎、三河正典、山本七雄各氏に、チェロを望月直哉氏に師事。また、ウラディーミル・フェドセーエフ氏、井上喜惟氏と親交が深く、指揮のアドバイスを受けている。13歳ではじめて指揮台に立ち、2008年より東京ユヴェントス・フィルハーモニーを結成。これまで、J.デームス氏、G.プーレ氏、舘野泉氏など世界的なソリストとの共演や、数多くの日本初演・世界初演の指揮を手がける。2015年、マーラー交響曲第2番「復活」を指揮し好評を博したことを機に、かわさき産業親善大使に就任。同年5月には、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンへ出演を果たし、MOSTLY CLASSIC誌「注目の気鋭指揮者」にも推挙された。2016年、新鋭のプロフェッショナルオーケストラ・川崎室内管弦楽団の音楽監督に就任。その活動は、朝日新聞「旬」にて紹介された。2018年には東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団に初客演しオルフ「カルミナ・ブラーナ」を指揮、成功を収め、マレーシア国立芸術文化遺産大学に客演するなど海外での指揮活動も行なった。2020年、日本コロムビアの新レーベルOpus Oneよりシェーンベルク「月に憑かれたピエロ」をリリース。2021年1月に愛知室内オーケストラへ客演、ブルックナー:交響曲第3番を指揮し名古屋デビュー。同年8月には名古屋フィルハーモニー交響楽団に初客演。またオーケストラ・キャラバンTOKYO 名古屋フィルハーモニー交響楽団公演にも客演し、東京オペラシティコンサートホールにてロシア・プログラムを指揮。喝采を浴び、新星登場を予感させた。同年11月に大阪フィルハーモニー交響楽団へ客演。
今後、新日本フィルハーモニー交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、大阪交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団などへの客演も予定されている。公演情報
東京ユヴェントス・フィルハーモニー活動再開記念演奏会2022年1月15日(土)18:00 開演(17:15 開場)
ミューザ川崎シンフォニーホール指揮:坂入 健司郎
独唱:中江 早希 谷地畝 晶子
合唱:東京ユヴェントス・フィルハーモニー合唱団
演奏:東京ユヴェントス・フィルハーモニーアイヴズ:《答えのない質問》
V.ウィリアムズ:《トマス・タリスの主題による幻想曲》
マーラー:交響曲第2番《復活》公演詳細:https://tokyojuventus.com/
愛知室内オーケストラ ソリスト川本嘉子シリーズ 第2回〜ヒンデミット〜
2022年1月23日(日)15:00 開演(14:00 開場)
愛知県芸術劇場コンサートホール指揮:坂入健司郎
ヴィオラ:川本嘉子バッハ/ストコフスキー編:平均律クラヴィーア曲集 第1巻 – 第24番 前奏曲
ヒンデミット:《白鳥を焼く男》
ブルックナー:交響曲第4番《ロマンティック》
※新ブルックナー全集 コーストヴェット校訂 1878/80年 第2稿(日本初演)