カーチュン・ウォン
アジアのクラシック音楽の未来を描く【後編】

<Artist Interview>
カーチュン・ウォン

アジアのクラシック音楽の未来を描く【後編】

text by 八木宏之
cover photo ©Angie Kremer

現在、日本フィルハーモニー交響楽団の首席客演指揮者を務め、2023/2024シーズンからは首席指揮者に就任するカーチュン・ウォン。師であるクルト・マズアともゆかりの深い、ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団の首席客演指揮者就任も決まっているカーチュンは、日本とドイツを拠点に、アジア、ヨーロッパ、そしてアメリカへと活躍の場を広げている。インタビューの後編では、東南アジアのクラシック音楽事情から、日本フィルのシェフとして思い描く将来のビジョンまで、大いに語ってもらった。

アジアのクラシック音楽の現在地

――カーチュンさんのレパートリーの特徴のひとつに、日本の作曲家への強い関心が挙げられます。伊福部昭の《リトミカ・オスティナータ》(2022年5月の日本フィル第740回東京定期演奏会、ピアノは務川慧悟)と《シンフォニア・タプカーラ》(2023年1月の日本フィル第747回東京定期演奏会)に続き、5月の日本フィル第750回東京定期演奏会では芥川也寸志の《コンチェルト・オスティナート》をチェロの佐藤晴真さんと演奏されます。また2022年3月に東京オペラシティ コンサートホールで行われた、東京フィルハーモニー交響楽団との武満徹の演奏会も強く印象に残っています。カーチュンさんはどのようにして日本の作曲家に出会われたのでしょうか?

日本の作曲家へ目を向けるようになったのは、私の作曲家としての関心がきっかけです。大学で作曲を勉強していたときに、どういうアイデンティティをもって音楽を書くべきなのか悩むことがありました。中国系、マレー系、インド系など、様々な文化的背景を持つ人々がともに暮らすシンガポールで、私は西洋の音楽と楽器を勉強していたわけですが、西洋とアジアの美学、例えばバッハの対位法とバリのガムランの美学は全く異なるものです。そんなときに、武満徹や伊福部昭、芥川也寸志、早坂文雄といった戦後の日本の作曲家たちが、西洋の楽器を用いてどのように日本、そしてアジアのアイデンティティを表現しているのか興味を持ったのです。
日本はアジアの国のなかで最初に西洋の文化を受け入れ、それを独自の方法で発展させてきました。それは音楽だけに限りません。例えば料理の分野でも、トンカツやシュークリームなど、日本が西洋の文化を自分たちの文化に巧みに取り入れている例を見つけることができます。
務川慧悟さんと演奏した伊福部昭の《リトミカ・オスティナータ》の冒頭で、オーボエとフルートが作り出す和音は紛れもなく日本の響きです。なぜ西洋の楽器でこのような日本的な響きを作り出すことができるのか、私はずっと興味があったのです。武満徹の《弦楽のためのレクイエム》には、フランスのメシアンからの影響が見られますが、同時に日本の美学も強く感じさせます。こうした問いは、私が長年にわたり探求し続けているテーマなのです。

本番へ向けて集中するカーチュン・ウォン ©吉田タカユキ

――カーチュンさんは日本フィルの首席指揮者の就任披露会見でも、「アジア」を重要なテーマのひとつに掲げられていました。これから日本フィルのシェフとして、日本の作曲家だけでなく、カーチュンさんの故郷シンガポールを含む、東南アジアの作曲家の作品も日本の音楽ファンに紹介してくださるのでしょうか?

これまでのクラシック音楽の世界では、東南アジアの作曲家たちはあまり目立たない存在でしたが、近年東南アジアからも優れた作曲家が少しずつ出てきています。シンガポール、マレーシア、タイ、ベトナムといった国々には、プロフェッショナルのオーケストラもあります。しかしまだその数は少なく、東南アジアの作曲家たちはオーケストラのための作品を書く機会に恵まれていません。彼らは主に室内楽やピアノ・ソロの作品を書いています。オーケストラの方も、コンテンポラリーの作品の演奏経験が乏しいのが現状です。東南アジアの作曲家たちがオーケストラ作品を書く機会をつくり、それを演奏して、彼らの才能を世界に紹介していくことは私のひとつの夢です。

――5月の公演では、芥川也寸志とともに、ミャスコフスキーの交響曲第21番《交響幻想曲》とヤナーチェクの《シンフォニエッタ》が演奏されます。日本と東欧の音楽が組み合わされたこのユニークなプログラムについて、そのコンセプトを教えてください。

このようなプログラムを成功させることができる国というのは世界にもそう多くありません。日本はその数少ない国のひとつであり、日本フィルはこのプログラムを魅力的なものにすることができる稀有なオーケストラなのです。この演奏会のプログラムを考えていたとき、まず芥川の作品を演奏することを決めました。伊福部に続く作曲家として、芥川を取り上げるのは自然な流れだと思ったからです。私は以前から芥川の音楽を敬愛していて、とりわけ遺作となった《佛立開導日扇聖人奉讃歌 いのち》という合唱とオーケストラのための作品(テキストはなかにし礼による。鈴木行一がオーケストレーションを補筆して完成させた)が大好きなのです。今回取り上げる《コンチェルト・オスティナート》では、オブリガートにハープシコードが用いられていますが、この作品のそうしたバロック的な側面を、ヤナーチェクとミャスコフスキーの祝典的な音楽と結びつけたら面白いと考えました。
ヤナーチェクの《シンフォニエッタ》は金管楽器が活躍するとても華々しい作品ですし、ミャスコフスキー《交響幻想曲》もシカゴ交響楽団の創設50周年を祝って書かれた交響曲です。またこれらの3曲は、バロック的、祝典的であると同時に民俗的な音楽でもあります。このプログラムには誰もが知る有名な作品は含まれていませんが、日本フィルとサントリーホールで演奏するにふさわしいものだと確信しています。

日本フィルハーモニー交響楽団を指揮するカーチュン・ウォン ©山口敦

マーラーからマクフィー、そして東南アジアの作曲家まで

――先ほど「アジア」というキーワードについて伺いましたが、そのほかに首席指揮者として取り組みたいプロジェクトなどがあれば教えてください。10月に行われる首席指揮者就任披露演奏会には、マーラーの交響曲第3番が選ばれました。この作品はマーラー国際指揮者コンクールでも指揮された、カーチュンさんにとって思い出深い作品ですね。やはりマーラーも重要なキーワードになっていくのでしょうか?

日本フィルと長期で取り組んでいくプロジェクトについては、いまオーケストラとじっくり話し合っているところです。おっしゃるようにマーラーの交響曲は、これから数年をかけてひとつひとつ取り組んでいきたいと考えています。第4番と第5番はすでに演奏しましたし、来シーズンには第3番と第9番を取り上げます。
マーラーのほかにも、注目していきたい作曲家はたくさんいます。今シーズンは、バルトークとヤナーチェクを演奏する機会が得られました。日本ではまだ披露していませんが、私が得意とする後期ロマン派、チャイコフスキーの交響曲第5番のような作品も日本フィルと演奏したいと思っています。有名な作品もまだあまり知られていない作品も、バランスよく取り上げていきたいですね。

――ドビュッシーの《海》とプーランクの2台のピアノのための協奏曲に、コリン・マクフィーの《タブー・タブーアン》が組み合わされた2024年1月の第757回東京定期演奏会のプログラムも大変興味がそそられます。

《海》は葛飾北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』からインスピレーション得た作品として知られていますね。私も湘南で、浮世絵に描かれた景色はどこなのか探しました。しかし、浮世絵からの影響だけでなく、ドビュッシーが1889年のパリ万国博覧会で初めて触れたアジアの音楽、ガムランについても考えてみる必要があります。

ドビュッシーと同様に、プーランクもガムランに影響を受けて2台のピアノのための協奏曲を作曲しました。ドビュッシーが聴いたのはジャワのガムラン、プーランクが聴いたのはバリのガムランです。この演奏会ではカナダの作曲家、コリン・マクフィーの2台のピアノのための協奏曲《タブー・タブーアン》も取り上げますが、この作品もまたパリのガムランと強く結びついています。そうした西洋の作曲家とアジアの繋がりが、この演奏会のテーマとなります。プーランクとマクフィーで共演するのは、児玉麻里さん、桃さん姉妹です。
別の機会には、西洋の作曲家がガムランから影響を受けて書いた作品だけでなく、バリの作曲家の作品も演奏したいと考えています。カンボジア出身の作曲家、チナリー・ウンの作品を取り上げるアイデアもありますよ。

これが最後の演奏会になっても良いという覚悟を持って

――カーチュンさんは2023年秋から、日本フィルの首席指揮者に就任されると同時に、ドレスデン・フィルの首席客演指揮者にもなられます。ドレスデン・フィルはカーチュンさんの師であるクルト・マズアも首席指揮者を務めたオーケストラです。一歩一歩着実にステップアップしているカーチュンさんが思い描く将来のビジョンはどのようなものなのでしょうか?

私の人生にはドイツとたくさんの結びつきがあります。ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学で勉強し、グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝し、ニュルンベルク交響楽団の首席指揮者を務めてきました。今回新たにドイツ東部の名門オーケストラであるドレスデン・フィルと継続的に仕事をするチャンスを得ることができて、とても嬉しいです。ドイツはクラシック音楽の歴史を形成してきた、クラシック音楽の源のような国だと思います。そうした国で音楽活動を続けることは、私にとって大きな意味を持つことなのです。リヒャルト・シュトラウスなど、ドレスデンと関係の深い作曲家の作品を、オーケストラとともにこれからたくさん学んでいきたいと思っています。
ひとりの音楽家としては、これからも絶えず前進し続けていきたいですね。コロナ禍によって、私たちの歩みは3年間停滞してしまいました。その体験を通して、常にベストを尽くさなければいけないという思いがより一層強まりました。日本フィルともドレスデン・フィルとも、互いの音楽哲学を尊重し合いながら、どの公演もこれが最後の演奏会になっても良いという覚悟を持って、取り組んでいきます。

リハーサルに取り組むカーチュン・ウォンと日本フィルハーモニー交響楽団 ©吉田タカユキ

――日本では、若い世代にクラシック音楽に興味を持ってもらうために、さまざまな取り組みが行われてきましたが、まだ道半ばで、大きな成果が得られているとは言えない状況です。より多くの若者にクラシック音楽のファンになってもらうには、どのようなことに取り組んだら良いと思われますか? カーチュンさんのアイデアがあれば教えてください。

私自身もこの問題について日々考えています。先週、シンガポール交響楽団を指揮する機会があったのですが、客席には若い世代が多く見られました。シンガポールは世界のなかでも、クラシック音楽の若い聴衆に恵まれている国だと思います。クラシック音楽と若者の関係は、国や都市によって事情が異なるのです。
では、どのようにして、若者にクラシック音楽に対する関心を持ってもらうのか。それにはまず、質の高い演奏を届けることが大切です。初めてクラシック音楽を聴く人にその魅力を伝えるには、クオリティがとても重要なのです。ビギナー向けのコンサートで、楽章ひとつだけを抜粋して演奏したりすることがしばしばありますが、そうした方法は、聴き手の音楽体験を薄めてしまうことになるので、私はあまり好きではありません。もちろん子供向け、未就学児向けのコンサートでは、彼らの集中力に適した内容のプログラムを組むことも大切です。しかし、将来ブルックナーの交響曲も楽しめるような聴衆を育てていくためには、2時間の公演のなかで質の高い演奏を提供し、お客さんが作品をより楽しむためになにが必要か、考えていかなくてはなりません。
テクノロジーの活用は若者へのアプローチにとても効果的です。Appleが世界中のオーケストラと提携してこれからたくさんのコンサート配信を行なっていくと思いますが、そうしたサービスは、若い人たちに上質なクラシック音楽を届けるひとつの方法になっていくと思います。InstagramやTikTokなどのSNSを活用して、若い人たちの関心を分析することも必要です。近い将来、『あつまれ どうぶつの森』のようなオンライン・ゲームのなかでオーケストラがコンサートをする日が来るかもしれません。
私がよく行く唐揚げ屋さんのオーナーは、最近、TVドラマ『リバーサルオーケストラ』を観てクラシック音楽に興味を持ち、私が指揮者だと知るとたくさんの質問してくれました。こうしたドラマからクラシック音楽に関心を向けてもらうのも素晴らしいことだと思います。クラシック音楽に出会うきっかけは、日常のいろいろなところにあるのです。日本フィルとはこれから、いろいろな発信の方法を皆で話し合っていきたいと思っています。

 

インタビューは約2時間に及んだが、カーチュンは丁寧に言葉を選びながら、私の質問にひとつひとつ誠実に答えてくれた。今回のインタビューを通して、時代の潮流を読み、クラシック音楽の未来のためになにをすべきかを冷静に考えるカーチュンの戦略家としての顔も垣間見えた。カーチュンは間違いなく、これからのアジアのクラシック音楽界を引っ張っていくリーダーになる。日本フィルのシェフとしても、常識にとらわれない斬新なアイデアで、21世紀のオーケストラのあり方を示してくれるはずだ。そしてなにより、カーチュンの音楽に対する深い愛と尽きることのない好奇心が、新たな名演を生み出し、新しいクラシック音楽ファンを生み出していくことだろう。FREUDEでは引き続きカーチュンの挑戦を追いかけて、読者の皆さまにお伝えしていこうと思う。

カーチュン・ウォン Kahchun Wong
今秋より、日本フィルハーモニー交響楽団首席指揮者、およびドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団首席客演指揮者に就任となるシンガポール出身のカーチュン・ウォンは2016年グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝、その名を世界に知られることとなる。2022年8月までニュルンベルク交響楽団首席指揮者を務め、これまでに、ニューヨーク・フィルハーモニック、ロサンゼルス・フィルハーモニック、クリーヴランド管弦楽団、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団を含む国内外の主要楽団との共演も果たす。
2016/2017年にロサンゼルス・フィルハーモニック ドゥダメル・フェローシップ・プログラムを拝命。また、ベルリンのハンス・アイスラー音楽大学にてオーケストラ/オペラ指揮の音楽修士号を取得。
2019年、33歳という若さでシンガポールとドイツの文化交流並びにドイツ音楽文化の海外普及における献身的な取り組みと顕著な功績により、シンガポール出身の芸術家として初めてドイツ連邦大統領より功労勲章を与えられた。
2021年12月の日本フィルハーモニー交響楽団定期公演で演奏されたマーラー交響曲第5番のライブ録音CDが日本コロムビアよりリリースされている。
公式ホームページ:https://kahchunwong.com

公演情報
日本フィルハーモニー交響楽団 第750回東京定期演奏会
2023年5月12日(金)19:00開演(18:20開場)
2023年5月13日(土)14:00開演(13:10開場)
サントリーホール

カーチュン・ウォン(指揮)
佐藤晴真(チェロ)
日本フィルハーモニー交響楽団

ミャスコフスキー:交響曲第21番《交響幻想曲》嬰ヘ短調 Op.51
芥川也寸志:チェロとオーケストラのための《コンチェルト・オスティナート》
ヤナーチェク:《シンフォニエッタ》

公演詳細:https://japanphil.or.jp/concert/20230512

日本フィルハーモニー交響楽団 第754回東京定期演奏会
カーチュン・ウォン 首席指揮者就任披露演奏会
2023年10月13日(金)19:00開演(18:20開場)
2023年10月14日(土)14:00開演(13:10開場)
サントリーホール

カーチュン・ウォン(指揮)
山下牧子(メゾ・ソプラノ)
harmonia ensemble(女声合唱)
東京少年少女合唱団(児童合唱)
日本フィルハーモニー交響楽団

マーラー:交響曲第3番 ニ短調

公演詳細:https://japanphil.or.jp

映像配信
日本フィルハーモニー交響楽団 第747回東京定期演奏会
2023年1月20日(金)19:00開演
サントリーホール

カーチュン・ウォン(指揮)
日本フィルハーモニー交響楽団

伊福部昭:《シンフォニア・タプカーラ》
バルトーク:《管弦楽のための協奏曲》

配信リンク(購入期限 〜2023年7月19日):https://members.tvuch.com/v/classic/225/

日本フィルハーモニー交響楽団 第244回芸劇シリーズ
2023年1月29日(日)14:00開演
東京芸術劇場

カーチュン・ウォン(指揮)
小菅優(ピアノ)
日本フィルハーモニー交響楽団

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 Op.30
ラフマニノフ:交響曲第2番 ホ短調 Op.27

配信リンク(購入期限 〜2023年7月28日):https://members.tvuch.com/v/classic/226/

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