<Review>
カーチュン・ウォンが挑んだ幻の大作
武満徹《弧》[アーク]
text by 八木宏之
cover photo ©大窪道治/提供:東京オペラシティ文化財団
このホールにこそふさわしいオール・タケミツ・プログラム
3月2日に東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアルで行われた『武満徹《弧》[アーク]』は、プログラムの全てが武満作品という演奏会で、武満が設計段階から深く関わったこのホールにこそふさわしいものだった。指揮台に上ったのは、近年注目を集めるシンガポール出身の若手指揮者、カーチュン・ウォン。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団である。カーチュン・ウォンは今回の演奏に際して、武満の長女、眞樹と交流するなど、作曲家像の深い理解に努めた。プログラムの前半には《地平線のドーリア》《ア・ウェイ・ア・ローンII》《弦楽のためのレクイエム》が、後半にはピアノ・ソロに高橋アキを迎えて《弧》[アーク]が演奏された。1960年代の武満を代表する大作でありながら、その編成の特殊さゆえに演奏機会が少ない《弧》の久しぶりの実演ということもあり、会場は開演前から期待と熱気に包まれていた。公演を聴きに来ていた作曲家の友人も、中学時代にCDで聴いて以来待ち望んでいた《弧》の実演に今日ようやく立ち会えると、興奮気味であった。私にとっても《弧》の実演は初めての体験であり、この貴重な機会を逃すまいと演奏会へ出かけたのだ。
前半の《地平線のドーリア》《ア・ウェイ・ア・ローンII》《弦楽のためのレクイエム》は、3曲とも弦楽合奏のための作品だ。1966年作曲の《地平線のドーリア》は、17人の弦楽器奏者が「ハーモニック・ピッチ」と「エコー」と名付けられた2群の合奏体に分かれて演奏し、両者の響きの対比が空間的な効果を生み出す。《地平線のドーリア》は武満にとって初めての外国からの委嘱であり(アメリカのクーセヴィツキー財団による)、武満が世界にその名を知られる作曲家へと飛躍していった時期の作品である。雅楽を思い起こさせる白黒の響きに付けられた細かな陰影が官能的な《地平線のドーリア》だが、カーチュン・ウォンと東京フィルの演奏には探るような意思疎通がもたらす停滞感があって、声部のひとつひとつが立体的に浮かび上がらずやや平坦であった。
しかしそうした演奏も、コンサート冒頭の緊張ゆえだったようだ。次の作品《ア・ウェイ・ア・ローンII》では、アンサンブルの精度は格段に高まっていった。《ア・ウェイ・ア・ローンII》は1981年、武満の円熟期の作品であり(オリジナルは1980年作曲の弦楽四重奏曲)、《地平線のドーリア》に聴かれる1960年代の実験精神からは遠い。《ア・ウェイ・ア・ローンII》のテクスチャは柔らかく、その音楽には武満の「うた」がある。《地平線のドーリア》のあとにこの作品を聴くと、映像がモノクロからカラーになったかのような感覚を抱くのだ。余談になるが、昨年発売された《ア・ウェイ・ア・ローンII》の世界初演(岩城宏之指揮札幌交響楽団)を含むアルバム『1982 武満徹世界初演曲集』に併録されている武満の講演を聞いてみると、この作品についてだけでなく、1980年代初頭の武満の美学を知ることができて大変興味深い。とりわけ聴衆との質疑応答には熱がある。
《弧》22年ぶりの日本再演
《ア・ウェイ・ア・ローンII》に聴かれる武満後期の流麗で抒情的な音楽世界のほうがカーチュン・ウォンの美意識と相性がよいのかもしれないと思ったけれど、1957年作曲の出世作《弦楽のためのレクイエム》の色彩豊かな演奏を聴いて、これがカーチュン・ウォンの武満に対するアプローチなのだと理解した。ストラヴィンスキーに高く評価された《弦楽のためのレクイエム》は、武満作品のなかでもとりわけ名高く、最も演奏頻度の高い作品のひとつであろう。カーチュン・ウォンも20世紀音楽史の古典といえるこの作品を通して、武満の音楽の魅力に引き込まれていったという。この日の演奏を聴くまで、《弦楽のためのレクイエム》は《ア・ウェイ・ア・ローンII》よりも《地平線のドーリア》に近いモノクロな響きを持つ作品だと思ってきたけれど、カーチュン・ウォンの演奏はカラー彩色が施されたモノクロ映像のように情報量が多く、これまで気付かなかった響きが浮かび上がってきてはっとした。演奏会のあと、カーチュン・ウォンが本作について「どこかアジア的でありながら、アジア的でない」と語っている記事を読んで、カーチュン・ウォンの演奏が腑に落ちた。これまで私はこの作品を「アジア」や「日本」という型にはめて、1950年代の日本映画の映像のような白黒のイメージで固めてしまっていたのかもしれない。
後半はいよいよ《弧》である。1963年から66年にかけて作曲され、76年に改訂された《弧》は、2部6曲から成るピアノ独奏付きの管弦楽作品だ。この作品が滅多に演奏されない幻の存在となっているのには、第1部と第2部で編成が大きく変わるという現実的な理由がある。今回の演奏でも、第1部と第2部の間にはこの日2度目の休憩が設けられていた。演奏にさまざまなハードルがあるわりには、演奏時間が30分にも満たないという点も、この作品の演奏頻度に影響を与えている。全曲舞台初演(改訂版世界初演)は1977年にニューヨークにて、ピーター・ゼルキンとピエール・ブーレーズ、ニューヨーク・フィルハーモニックによって行われたが(ブーレーズによる武満作品の演奏は珍しい)、全曲舞台日本初演(改訂版日本初演)は1990年、高橋アキと岩城宏之、新星日本交響楽団によるサントリーホールでの演奏であり、初稿完成から四半世紀が過ぎてからの日本初演であった。その後2000年にも廻由美子と沼尻竜典、東京都交響楽団によってサントリーホールで演奏されたが、今回の演奏はそれ以来22年ぶりの日本再演となる(1998年にはロルフ・ハインドとオリヴァー・ナッセン、ロンドン・シンフォニエッタによりイギリス初演が行われている)。
武満研究者の小野光子による充実したプログラムノートによると、今回の演奏に用いられた2種類の図形楽譜、《弦楽器のための弧》(1961/63)と《ピアニストのためのクロッシング》(1962)は武満が《弧》の完成に先駆けて制作したもので、《ピアニストのためのクロッシング》を用いての演奏は初めてのことだという。この《ピアニストのためのクロッシング》の図形楽譜は長らくオリジナルの行方がわからなくなっていたが、今回の演奏に際して高橋アキの自宅で発見されたとのこと(武満の盟友で高橋アキの夫である音楽評論家の秋山邦晴が保管していた)。
カーチュン・ウォンに引き継がれた武満演奏のバトン
《弧》は編成が特殊なだけでなく、演奏には図形楽譜が用いられ、演奏者の即興に委ねられた「不確定性(偶然性)の音楽」としての要素もあり、武満作品のなかでもとりわけ戦後前衛の実験精神が色濃い。しかしカーチュン・ウォンのアプローチは1960年代のモダニズムを前面に押し出すのではなく、楽譜を純音楽的に捉え、そのコンセプトよりも作品固有の美に光を当てていた。この作品の独奏ピアノは、演奏していない時間も長く、ピアノ協奏曲のソリストのような性格のものではないが、作品の全曲日本初演を担い、生前の武満とも親交のあった高橋アキの存在は大きく、舞台上で若い指揮者とオーケストラを鼓舞し続けていた。
武満の音楽は、今日国際的なレパートリーの一部を成しており、日本人以外の音楽家による演奏も活発に行われている。パリに留学していたとき、フランス人の学友たちと話していて最初に名前が挙がる日本人作曲家はいつも武満だった。国際的な評価を獲得していた武満には日本国外からの委嘱も多く、外国人演奏家のために作曲することも珍しくなかった。また武満の作品は、例えば《ア・ウェイ・ア・ローンII》がジェイムズ・ジョイスにインスピレーションを得ているように、日本固有のテーマに結びついたものばかりではない。ドビュッシーが世界に共有される音楽遺産であるように武満の音楽もまた世界中で話されている音楽言語なのだ。それにもかかわらず、これまで私は無意識のうちに武満を「日本」というコンテクストにはめ込み、その音楽世界のなかから日本の美のようなものを無理に探し出そうとしていた。そのことに今回カーチュン・ウォンの演奏を通して気がついた。
今回の演奏会と《弧》再演の意義は、公演の最後にカーチュン・ウォンが語った「これからも武満徹の作品を演奏し続けていく」という言葉と、高橋アキが語った「これからはカーチュン・ウォンのような若い人たちに武満徹の音楽のバトンを引き継いでいく」という言葉に集約されていたように思う。今回の演奏会を通して武満徹という作曲家に大きく近づいたカーチュン・ウォンは、これからその音楽の伝道者となっていくだろう。またカーチュン・ウォンの「日本」や「アジア」というコンテクストから適度に距離を取った武満解釈も、新しい時代の武満演奏のスタイルを形作っていくように思う。生前武満は、東京オペラシティ コンサートホールに「未来への窓Window to the future」というキーワードを掲げ、その精神は今日まで『コンポージアム』や『武満徹作曲賞』をはじめとするこのホールのコンテンポラリー企画に息づいている。武満演奏のバトンが新しい世代へと引き継がれた今回の公演も、まさしく「未来への窓」を感じさせるものであった。
【公演webページ】
https://www.operacity.jp/concert/calendar/detail.php?id=14965