小林壱成
あるヴァイオリニストの肖像【前編】

小林壱成
あるヴァイオリニストの肖像【前編】

text by 本田裕暉
cover photo ©︎T.Tairadate/TSO

ヴァイオリニスト小林壱成(こばやし・いっせい)の音楽に出会ったのは、今から8年ほど前、2016年5月5日のことだった。その日のことは今でもよく覚えている。当時大学4年生だった小林は、ゴールデンウィークの風物詩「ラ・フォル・ジュルネ音楽祭」の丸の内エリア・コンサートに東京藝術大学弦楽科の代表として出演し、パガニーニ《24のカプリース》第15番とブラームス《ヴァイオリン・ソナタ第2番》第1楽章、そしてメンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲 ホ短調》第1楽章(ピアノ伴奏版)を演奏して万雷の拍手を浴びていた。なかでも、しっとりとしなやかに、気品に満ちた音色で紡がれたブラームスのソナタはとりわけ美しく、作曲家が楽譜に書き記した「アマービレ(愛らしく)」という指示を地で行くような「慈愛」さえも感じさせる響きだった。それを耳にした筆者は瞬く間に小林のファンになってしまった。

ソロでの演奏活動に加え、ラ・ルーチェ弦楽八重奏団(2013年結成)やステラ・トリオ(2017年結成)のメンバーとして室内楽の演奏にも積極的に取り組み、そして2021年からは東京交響楽団の第1コンサートマスターとしても目覚ましい活躍を続ける小林壱成。近年その音はますます深化し、かつてのノーブルさはそのままに、いっそう強い輝きを放つようになってきている。こうした小林の音は、いったいどのようにかたちづくられてきたのだろうか。また、ひとりの若き音楽家として、どんな想いを持って演奏活動に取り組んでいるのだろうか。「ヴァイオリニスト小林壱成」が誕生するまでの歩みや近年の活動、そして音楽家としての信条について、じっくりと話を聞いた。

小林壱成 ©︎Shigeto Imura

広島時代――ヴァイオリンとの出会い

――ヴァイオリンを学び始めたのは何歳の頃だったのですか?

小学1年生、6歳のときのことでした。少し遅めですよね。

――小林さんは兵庫県伊丹市のご出身ですが、このときにはすでに広島に移られていますね。広島交響楽団の元コンサートマスター小島秀夫さんのもとで学ばれています。

3歳のときに広島に移ったのですが、はじめは幼稚園に来ていたカワイ音楽教室でピアノを習っていたんです。小学校に上がるときにそれが終わってしまうので、どうしようかなと考えていたところ、ちょうど家のポストに小島先生のヴァイオリン教室のチラシが入っていたのですよね

そのときに母から「このままピアノを続けるか、ヴァイオリンをやってみるか、どっちがいい?」と訊かれたんです。今思えばちょっと誘導尋問のようだったなと(笑)。私は「新しいものがある」と言われたら、それをやってみたいと思うタイプでしたから。父が転勤族だったので、運搬が大変なピアノよりも手で持ち運べるヴァイオリンを習わせたいという事情もあったのだと思います。

幼少時代の記録
ムンク《叫び》とともに叫ぶ

――小島先生に習うなかでジュニアオーケストラにも入団されたそうですね。

習いはじめてから半年くらい経った頃に、先生が「ジュニアオーケストラをやっているから挑戦してみたらどう?」と誘ってくださったのです。そこで幅広い年齢層の仲間と一緒に演奏するなかで、オーケストラの楽しさを知りました。モーツァルト《後宮からの逃走》序曲やベートーヴェン《田園》を弾いたことを覚えています。当時の技術では絶対弾けるわけがないんですけれど、がむしゃらに弾いていて。ヴァイオリンは隣の友達と全く同じ音を弾くことが新鮮で、皆でひとつの曲を弾いているエネルギーを身体で感じてすごく楽しかったんです

幟町教会の思い出

――小学生の頃からオーケストラに親しまれていたのですね。広島時代、他に印象に残っている出来事はありますか?

両親ともにカトリック信徒だったこともあり、よく教会に連れて行ってもらったことを覚えています。幟町教会という教皇様もいらしたことのあるような由緒正しい教会で、そこでは東京藝術大学バッハカンタータクラブやバッハ・コレギウム・ジャパンなども演奏していました。私の母は教会の聖歌隊に所属していたので、スコアを見ながら練習を見学したり、オランダ人の神父様が演奏するオルガンをすぐ隣で聴かせていただいたりしたんです。当時はそれが日常だったので何とも思わなかったのですが、今考えてみると、本当に貴重な体験をしていたと思います。

東京へ移って――まろ先生とTJOS

――その後、小学3年生のときに東京に移り、「まろ」こと篠崎史紀さんが率いる青少年オーケストラ、東京ジュニアオーケストラソサエティ(TJOS)に入団されました。

TJOSのよかった点は、変な「部活感」がなかったところです。私は小学4年生の頃から2年間、吹奏楽部でサックスを吹いていたので、コンクールに向けてひたすらストイックに練習していく「青春物語」的な世界も知っていて。部活動にもひとつの目標に向かって結束力を高めていく面白さはありますし、曲を仕上げるべく頑張るという点については何も変わらないのですが、TJOSはそういった「部活っぽさ」とは無縁の世界だったんです。

先生方皆さんが団員一人ひとりの個性をとても大切にしてくださったのですよね。NHK交響楽団をはじめとするプロのオーケストラで活躍されている先生方が、自分たちの知っている世界を学生のスケールに合わせてくださっていた、という印象でした。練習では先生方もたくさん弾いてくださって、決して押しつけがましくならずに、しかし「何かが違う」ことに気づかせてくれるんです

指揮者の先生も素晴らしい方ばかりでした。私が最初にご一緒させていただいたのは広上淳一先生だったのですが、下野竜也先生や山下一史先生も振りに来てくださって。今、東京交響楽団の第1コンサートマスターとして共演するような先生方に音楽を教えていただけたのは、当時の私にとってとてつもなく大きいことでしたね。東響のリハーサルで広上先生に「アイスクリームがとろけるような音色が欲しい」なんて言われたりすると、20年前にもTJOSで同じ話を聞いたなと、当時のことを懐かしく思い出します(笑)。

――TJOSでの学びのなかで、とくに「今の演奏活動に結びついている」と感じる出来事などはありますか?

私が本当の意味で「オーケストラの面白さ」に目覚めたのは中学2年生のときでした。リムスキー=コルサコフの《シェエラザード》を第2ヴァイオリンの3プルト表の席で演奏したのですが、すごくいい曲だなと思ってノリノリで弾いていたのですよね。

それがまろさんの目に留まったらしく、翌年、中学3年生のときにコンサートマスターに指名していただいたんです。オッフェンバック《天国と地獄》序曲を演奏したのですが、この曲にはヴァイオリンのソロがあるのですよね。私は、両親がかっちりしたタイプの人間だったこともあり、自然と「書いてあることを書いてある通りに弾かなくてはならない」という考え方で演奏していました。ところが、まろさんはソロをオクターヴ上げてみたり、もっともっと高い音域まで上ってみたり、ずっと自由に弾いていて(笑)。でも、それが曲のキャラクターに合っていた。そのときに音楽とはよい意味で「遊ぶ」ものだということを知りました。まろさんが私のなかの「トリガー」を引いてくださったんです。

――殻を破ってくださった先生だったのですね。小林さんは後に東京藝術大学在学中にも篠崎さんのもとで学ばれています。

そうです、私が学部4年生になったときに非常勤講師としていらっしゃって。

――TJOSの頃から数えるとかなりの長期間にわたって学ばれていることになりますが、印象に残っている教えはありますか?

多すぎて何を話したらいいか難しいですね(笑)。まず演奏面については、私は当初やりたいことを100%出し切り、とにかく羅列してまとまりのない演奏をしていたので「大事なところだけは守ってほしい」という方向性で指導していただきました。「ここだけは絶対こうしてね。でも、この部分はこれさえ守ればあとは自由にやっていいよ」と。

加えて、コンサートマスターとしてのあり方についても多くのことを教えていただきました。コンサートマスターには、やはり本番で弾く以外の仕事もたくさんあるのですが、そういったものをいかにマネージしていくか、ということを学びました。演奏だけでなく、人間としての振る舞い方についても道を示していただいたと思っています。

リハーサル時の一コマ ©︎MATSUO Junichiro/TSO

小学校高学年から中学生時代――三戸先生と大谷先生

――小林さんは三戸泰雄さんをはじめ、他にもたくさんの先生のもとで学ばれていますね。

小学5、6年生の頃、母の勧めもあって東京音楽大学付属音楽教室に入ることにしたんです。最初に三戸先生のレッスンを見学させていただいたときのことはよく覚えています。ものすごく巧い女の子がバルトーク《ヴァイオリン協奏曲第2番》を弾いていて。こんなにバリバリ弾ける子がいるのかと衝撃を受けました。じつは、その子は城戸かれんさんだったのですが(笑)。

三戸先生もとても面白い先生でした。コンサートマスターを務めていらっしゃった縁で小島先生とも交流があったようで「ああ、小島君のところのか!」とあたたかく迎えてくださいました。野球の長嶋茂雄さんじゃないですけれど「グッとやって、ジュッと弾くんだよ」みたいな教え方をされる先生で(笑)。

その後、中学3年生になる頃に、三戸先生が東京音大の定年を迎えられて、「大谷康子さんっていう人にお願いしようと思うから」と伝えられたんです。

――ここでまた、東京シティ・フィルや東京交響楽団のコンサートマスターを歴任された先生に師事されるのですね。

びっくりですよね(笑)。大谷先生からは、表現や奏法についても習いましたが、それ以上に音楽家としてのあり方を教わったと感じています。私は、よほど恣意的な演奏でない限りは、どんな音楽を聴いても「それもいいね」と感じるタイプなのですが、大谷先生は嫌いなものは嫌いだとはっきり言い切れる強い信念を持っていらっしゃるのですよね。その後姿からたくさんのことを学ばせていただきました。

コンサートマスター経験が豊富な恩師たちの教えを胸に、本番の舞台へ ©︎T.Tairadate/TSO

東京藝術大学での学び

――その後も清水高師さん、ペーター・コムローシュさん、ピエール・アモイヤルさん、ヘルヴィッヒ・ツァックさんと錚々たる先生方に学ばれていますね。

まず、清水高師先生には藝高(東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校)に入ってからの3年間お世話になりました。当時の私は、後に「最初に来たときはどうしようかと思った」と言われてしまうほどにテクニックがなかったのですが、清水先生はそうした部分を丁寧に教えてくださる先生でした。とくに右手の使い方に関して根気強く見ていただけたのは嬉しかったです

コムローシュ先生には、東京藝術大学の学部1年生のときに教えていただきました。バルトーク弦楽四重奏団の創設者ということもあって、先生のレッスンにバルトークを持っていく学生がとても多いなか、私は見ていただきたかったブラームスの《ヴァイオリン協奏曲》を弾いたのですが、そうしたら涙を流していらっしゃって。「僕にブラームスを持って来てくれるなんて! なんで皆バルトークばかり持ってくるんだ!」と言われました。「演奏で感動してくれたんじゃないんかい」と内心苦笑しつつ「やはりバルトーク四重奏団は素晴らしいですから」とお伝えしたら、「僕、バルトーク嫌いなんだよね」なんて言い出して(笑)。面白い先生でしたね。

――コムローシュさんから学んだなかで印象に残っていることは?

彼からは「弾くときのスタンス」について教わりました。「50%は酔う、50%は冷静に。その割合を動かしていくのが大事」だと。単に50:50にするのではなく、比率を動かしていく。「酔う」方に振りきってしまうと全てがうるさくなって、聴き手に伝わらない演奏になってしまうので、歌う上では、それをいかに冷静に揺らすかが大事だと仰っていました。演奏中はやりたいことがたくさん出てきてしまうけれど、それらは「冷静さ」で我慢する。そして、自分で決めておいた一番大事なポイントで「酔う」んだよと

――その後にアモイヤルさんのレッスンが続くわけですね。

アモイヤル先生もまた異なる角度から私のなかの「トリガー」を引いてくださる先生でしたね。「作曲家が誰だからこう弾かねばならない、みたいなことは今はそこまで考えなくていいんじゃないかな」と仰っていたのが印象に残っています。もちろん、ハバネラのリズムの特徴のような守るべき約束事も教えてくれるのですが、でも「それは頭に入れておくだけで守りすぎずに弾いてね」と。1度聴いてもらってアドヴァイスを貰う、というかたちのレッスンが多かったので、毎週違う曲を準備しておく必要があり、大変でした(笑)。

――皆さん本当にタイプが違って面白いですね。

だいぶ違いますね。ツァック先生も、やはりとてもドイツ的な先生でよかったです。私はツァック先生に習っていた2015年に日本音楽コンクールのファイナルまで進めたんですよね。ドイツに連れて行こうかという話もしてくださったのですが、私はすでに中学生の頃からアントン・バラホフスキー先生に定期的にアドヴァイスをいただいており、良いなと思っていたのでヴュルツブルクに行くことは断念しました。

――バラホフスキーさんにはそんなに早くから習われていたのですか。

最初にレッスンを受けたのは2009年、中学3年生のときでした。この年の11月にバイエルン放送交響楽団が来日していて、コンサートマスターのバラホフスキー先生も日本にいらしていたのですよね。彼の「若い刺激」を感じさせる、エネルギーに満ち溢れたレッスンを受けて「この先生がいい!」と強く思ったんです

――それで、おのずと留学先は決まっていたわけですね。

そうなんです。バラホフスキー先生に習いたいとお伝えしたところ「僕は教え子はとっていないんだけれど、壱成だったらプライベートで来ていいよ」と仰ってくださって。そして、「ドイツに来るんだったらベルリンがお薦めだよ」と――。

後編へつづく

小林壱成 Issey Kobayashi
東京藝術大学、同大学院を卒業・修了し、ドイツ・ベルリン芸術大学大学院修士課程修了。Gyarfas Competition最高位受賞。在学中、 Symphonieorchester der UDK Berlinのコンサートマスターとしてヨーロッパ各国で演奏。幼少よりN響特別コンサートマスター篠崎史紀監督の青少年オーケストラT.J.O.S.で活動し、藝大にて師事。渡独後はProf.M.Contzen、バイエルン放送響第1コンサートマスター A.Barakhovskyに、また室内楽をアルテミス・カルテットに学ぶ。青山音楽賞新人賞、日本音楽コンクール他受賞多数。野村財団、明治安田QOL文化財団、ローム音楽財団等奨学生。ソリストとして、東響、読響、兵庫芸術文化センター管(PAC)ほか、M.ヴェンゲーロフとはバッハの二重協奏曲にて共演。国内外の音楽祭出演はじめ、レーピン等著名音楽家と共演を重ねる。

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東京交響楽団HP:https://tokyosymphony.jp/

執筆者:本田裕暉
1995年生まれ。青山学院大学大学院文学研究科比較芸術学専攻博士前期課程修了。主な研究対象は19世紀ドイツの音楽史、とくにヨハネス・ブラームス、マックス・ブルッフらの器楽作品。2018年より音楽之友社『レコード芸術』誌に定期的に寄稿。CDライナーノーツ、演奏会プログラム等に多数執筆している。

※この記事は、これからの時代に活躍してほしい音楽評論家やライターを広くご紹介する、FREUDEの「執筆者応援プロジェクト」の一環として、一般社団法人ビトゥイン・ミュージック・タイズの助成を受けて制作されています。

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