田原綾子
ヴィオラと共に生きる 【前編】

<Artist Interview>
田原綾子

ヴィオラと共に生きる 【前編】

text by 八木宏之
cover photo by Hisashi Morifuji

Webマガジン「FREUDE」を立ち上げようと決めたとき、アーティストの音楽や生き様を深く掘り下げていくシリーズをその中心に据えたいと思ったし、そのシリーズの一人目は田原綾子以外には考えられなかった。それくらい私にとって、ヴィオリスト田原綾子は衝撃的な音楽家、芸術家である。

私が田原綾子のヴィオラを最初に知ったのは2019年の秋の暮れだった。友人で指揮者の坂入健司郎からその名と才能については聞かされていたけれど、演奏は聴いたことがなかった。そんな折、ふと思い立ってYouTubeでその演奏を聴いてみて、雷に打たれたような衝撃を受けた。田原の弾くブラームスのヴィオラ・ソナタ第2番は、一瞬たりとも弛緩することなく、強烈なドラマを形作っていた。YouTubeの映像でこれほどの緊張感と情報量を持つ演奏は、実演ではいったいどんなものなのだろうか。その後すぐに、田原の出演する室内楽公演を見つけて飛んで行き、ドホナーニやブラームスの室内楽を聴くに至って、私の思いは確信へと変わった。田原綾子は天才だ。

日本発の国際的ヴィオラの祭典ヴィオラスペースには「それは、にんげんを奏でる楽器だ」というキャッチコピーがある。田原のヴィオラはまさに田原綾子という一人の「にんげん」を奏でている。常に借り物ではない自分自身の言葉で奏で、歌い、語っている。前述の室内楽公演以降も、ソロ、デュオ、室内楽と田原の演奏は可能な限り追いかけてきたし、一度として最初に受けた衝撃が裏切られることはなかった。田原綾子とはいったい何者なのか。そしていかにしてこのようなヴィオリストになり、これからどんなヴィオリストへとなっていくのか。田原に問いかけてみた。

 

 

音楽との出会い 〜ヴァイオリンからヴィオラへ〜

――音楽との出会いはどんなものでしたか?

5歳の時にヴァイオリンを習い始めたのが最初です。その当時は父の仕事の関係で兵庫県に住んでいて、桐朋学園の子供のための音楽教室の茨木教室に通い始めました。その当時は水泳や体操、英語、乗馬などいろいろな習い事にも通っていて、ヴァイオリン一筋というわけではなく、とにかく人前で弾くのが好きで、ただ楽しく弾いていました。12歳の時に父の転勤で横浜に引っ越してきて、子供のための音楽教室の鎌倉教室に転室したのですが、ここでの熱心な雰囲気にすっかり圧倒されたことを今でも覚えています。

――鎌倉教室に通い始めて、ヴァイオリンとの向き合い方は変わりましたか?

鎌倉教室では先生も生徒も真剣で、和音を聴いただけで長三和音、短三和音などを当てていく同級生や、難しいソルフェージュの課題など、ちんぷんかんぷんな私は毎回衝撃を受けていました。でも、負けず嫌いな性格だったのもあって、ヴァイオリンもソルフェージュも一生懸命に向き合うようになり、その頃から音楽にかける時間が少しずつ多くなっていきました。小学4年生の時に鎌倉教室に弦楽アンサンブルのクラスが創設され、その月に一度のアンサンブルの授業がとにかく楽しかった

――アンサンブルの授業はどんな様子でしたか?

音楽教室の小学3年生から中学生までの生徒たちで弦楽アンサンブルを組んで、桐朋学園の先輩方や先生方にも加わっていただいて、最初はパッヘルベルの《カノン》から始めて、グリーグの《ホルベルグ組曲》やヴィヴァルディの《調和の霊感》などを演奏して、アンサンブルの基礎を勉強しました。のちにカルテットを組むことになるヴァイオリンの毛利文香さんとも、このアンサンブルの授業で出会いました。

――そうした環境のなかで、桐朋女子高等学校音楽科を進路に選ばれたのですね。

普通科高校へ進んでもヴァイオリンを弾き続けることはできるけど、私はとにかく室内楽がやりたかったんです。音楽教室のアンサンブルの授業が楽しくて、高校では室内楽を組んで、もっとたくさんアンサンブルをしたかった。だから、桐朋の音楽科を選びました。

――ヴァイオリンを学んでいた田原さんがどういうきっかけでヴィオラを?

桐朋の高校に入学して、皆が演奏家であるという環境と、競争がある環境に、自らが望んだものだったとはいえ、カルチャーショックを受けました。その少し前から、常に競争があるヴァイオリンには息苦しさを感じていて、やりたかった室内楽もなかなか組めなかったりして、1年生の時は苦しかった記憶があります。2年生に上がる時に桐朋のソリスト・ディプロマに通っていた毛利さんに、私がヴィオラを弾くから一緒に室内楽をやろうと声をかけて、最終的に毛利さん、山根一仁くん、上野通明くんとカルテットを組むことになりました。それが今も続いているエール弦楽四重奏団です。

――カルテットでヴィオラを弾き始めてみて、いかがでしたか?

ヴィオラはヴァイオリンとは違う楽器なので、最初は音が全然鳴らなくて、カルテットの録音を聴いても、私の音だけが小さくてよく聴こえないという状態でした。ほかの3人はもちろんずっと弾いてきたヴァイオリンとチェロなので、私だけがテクニックが追いつかなくて、足を引っ張ってしまっているという思いでした。それでもヴィオラをやらされているという意識は全くなくて、そうした日々のなかで早くヴィオラをうまくなりたいと常に考えるようになっていきました。

恩師岡田伸夫との出会い

――ヴィオラを弾くようになって、最初は独学だったのですか?

最初の1年は完全な独学だったので、本当に大変でした。ヴァイオリンとヴィオラを器用に持ち替えて弾く人もいるのですが、私はそういうタイプではなかったので、今井信子先生の演奏会を聴きに行ったり、ヴィオラの名手でもある原田幸一郎先生に質問したりしながら、試行錯誤の日々でした。それでも独学では限界があることは痛感していたので、ヴァイオリンを師事していた藤原浜雄先生と当時の担任だった作曲家の鷹羽弘晃先生に岡田伸夫先生をご紹介いただいてヴィオラのレッスンに通い始めました。

――岡田先生のレッスンはどうでしたか?

岡田先生には本当に基礎の基礎から理論的に丁寧に教えていただきました。最初の1ヶ月は曲を弾かずに構え方から始めて、そこからようやく右手の使い方、左手の使い方、体の使い方、そして音の出し方も開放弦から一つ一つ勉強して行きました。基礎を学びたくて仕方のなかった私にとってはまさに渡りに船の素晴らしいレッスンでした。

――その当時はヴィオラとヴァイオリンを両方同時に勉強されていたわけですが、異なる楽器を同時に勉強する難しさはありましたか?

すごく大変でした。私は一応大学4年生までヴァイオリン専攻だったんです。岡田先生のレッスンに通い始めてからすぐに、「ヴィオラで生きていきたい!」と直感的に思ってしまったのですが、藤原浜雄先生は「そこまで急いでヴィオラに転向しなくても」というご意見で。でも先生のことが昔から大好きな私は、その後も藤原先生に師事させていただいていました。ただ、途中から藤原先生のレッスンにもヴィオラを持っていってヴィオラを弾いていたので、先生も半ば諦めていらっしゃったかもしれません(笑)。

――大学1年生のときに東京音楽コンクールとルーマニア国際音楽コンクールで相次いで優勝されていますね。

岡田先生は「ヴィオラを始めてまだ間もないのだからコンクールを受けるのはまだ先だよね」とおっしゃっていました。それでも、東京音楽コンクールの二次予選の課題曲だったヒンデミットのヴィオラ・ソナタ作品11-4をどうしても弾きたくて、一生懸命準備するからとお願いして、コンクールを受ける許可を先生からいただいたんです。そうしたらまさかの本選に残ってしまって。本選の課題曲はバルトークのヴィオラ協奏曲で、ヴァイオリンの時からオーケストラと一緒にコンチェルトを弾いたこともないし、バルトークのコンチェルトも弾いたことがなかったので、すっかり焦ってしまいました。岡田先生も「それは大変だ」と(笑)。
それでも当時は2次予選から本選まで約1ヶ月の準備期間があったので、必死に取り組んで、本番では何の雑念もなくバルトークを弾きました。その一週間後にあったルーマニアのコンクールでもバルトークの協奏曲の第一楽章を弾いて、本当に運よく両方で良い結果をいただくことができました。

 

photo by Taira Tairadate

日本から世界へ 〜パリ、そしてデトモルトへ〜

――桐朋学園で学ばれたのち、パリに留学されています。留学先にパリを選ばれたのは?

岡田先生は早い時期から留学を勧めてくださっていました。でも私には岡田先生のレッスンが本当に素晴らしかったので、なにも岡田先生以外の先生に教わらなくても、と思っていました。留学を考え始めたきっかけは大学2年生のときに受けた東京国際ヴィオラコンクールでした。その時は予選で落ちてしまったのですが、海外からコンクールを受けに来ていた同世代のヴィオラ奏者たちのすごく伸び伸びとした演奏に触れて、海外で勉強することも意識するようになって、そのコンクールで審査員をされていた今井信子先生にも「一度外から日本を見てみなさい」と背中を押していただいて、留学先を探し始めました。
大学4年生になる春に京都フランス音楽アカデミーでブルーノ・パスキエ先生のレッスンを受講して、パスキエ先生のもとで勉強したら自分らしくヴィオラを勉強できるんじゃないかなと思って。京都フランス音楽アカデミーからの奨学金をいただけるというご縁もあり、パスキエ先生が教えていたパリのエコール・ノルマル音楽院への留学を決めました。

――ブルーノ・パスキエ先生からはどんなことを学ばれましたか?

パスキエ先生は大学1年生のときにも一度レッスンを受けていたのですが、実はそれが自分にとって初めての外国のヴィオラの先生のレッスンだったのです。その温かいお人柄が私には心地よく、ずっと印象に残っていました。パスキエ先生は、「こうでなければならない」というような教え方はなさらず、とにかく自分を表現していくということを大切にされる先生なのです。

――パリでの暮らしはどうでしたか?

一人っ子だったこともあって、ずっと両親といるという暮らしだったので、パリに来て、部屋に自分とヴィオラだけという環境に身を置いて、その孤独感が私には心地よいものでした。そういう暮らしの中でヴィオラに対する信頼も増したし、ヴィオラという存在をもっと大切にしていこうという思いが深まっていきました。

――その後さらにドイツのデトモルト音楽大学へ進学されています。パリの後、さらにドイツで勉強を続けようと思われたのはなぜですか?

パリで3年勉強して、もう少しヨーロッパで勉強を続けたいと思うようになりました。以前に小樽で受講したファイト・ヘルテンシュタイン先生のエネルギッシュかつ理論的なレッスンが印象に残っていて、ヴェルビエ音楽祭に参加した際にヘンルテンシュタイン先生の師でもある今井信子先生にご相談して、ご紹介いただきました。

――パリで学んだパスキエ先生、いまデトモルトで学ぶヘンルテンシュタイン先生、それぞれに違う良さがありましたか?

パスキエ先生からはとにかくもっともっと自分を表現していくことを学びました。それに対してヘルテンシュタイン先生は、自分の表現したいことをどう実現していくか、その方法を理論的に教えてくださいます。表現するためのパレットの色を増やしていったのがパリでの勉強で、そのパレットを使って描いていくためにどんな筆を選んでどう描いていくのかを今デトモルトで勉強しています。

――今井先生から「一度外から日本を見てみなさい」と背中を押されて、実際に海外から日本を見てみていかがでしたか?

外国でたくさんの人に会って、本当に色々な人がいるなあということを知りました。日本人だから、フランス人だから、ドイツ人だからこうだ、というような見方は、あまりしなくなって、その人そのもの、その人のパーソナリティを見るようになりました。大人しいフランス人もいるし、はっきり主張する日本人もいます(笑)。一方で「私は日本人だ」という思いも同時に強まったと思います。日本人のなかにある、言葉にしなくても通じあう気遣いの文化、「静」を大切にする美意識というのは本当に独特なもので、美しいものだと思います。無音の時間をどれくらい効果的に使うかなども考えるようになりましたし、以前より日本人作曲家の作品を大切に弾いていきたいと思うようになりました。

 

ここまで、ヴィオリスト、そして音楽家としての田原綾子の歩みを聞いてきたが、その言葉から、田原のヴィオラ演奏の魅力が裏付けられていくようだった。恩師岡田伸夫のもとで一つ一つ作り上げた自らの音は今の田原の力強い言葉となっているし、留学によって培った「静」を大切にする美意識は、武満徹や森円花などの邦人作品の演奏に確実に息づいている。後編では田原の室内楽への想いや、これからの挑戦などに迫っていく。

後編へつづく

田原綾子 Ayako Tahara
日本の若い世代を代表するヴィオラ奏者のひとり。東京音楽コンクール、ルーマニア国際音楽コンクール優勝。読響、東響、東京フィルなどと共演、室内楽奏者としても国内外の著名アーティストと多数共演するほか、オーケストラの客演首席も務めるなど、活躍の幅を広げている。パリ・エコールノルマル音楽院にてブルーノ・パスキエ、デトモルト音楽大学にてファイト・ヘルテンシュタインに師事。2019年度明治安田クオリティオブライフ文化財団海外音楽研修生。サントリー芸術財団よりPaolo Antonio Testoreを貸与。
【オフィシャルサイト】
https://www.ayakotahara.com

公演情報
上野 de クラシック Vol.56  東京音楽コンクール入賞者によるコンサート
5月20日(木)19:00~20:00
東京文化会館 小ホール 全席指定:1,650円
實川 風[ピアノ]
ショスタコーヴィチ:ヴィオラ・ソナタ op.147
ラフマニノフ:チェロ・ソナタ op.19(ヴィオラ版)
【公演情報ページ】
https://www.t-bunka.jp/stage/8256/

 

 

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