<Cross Review>
映画『TAR/ター』
監督・脚本・製作:トッド・フィールド
『TAR/ター』
5月12日(金)TOHOシネマズ日比谷他全国ロードショー監督・脚本・製作:トッド・フィールド
出演:ケイト・ブランシェット、ニーナ・ホス、マーク・ストロング、ジュリアン・グローヴァー
音楽:ヒドゥル・グドナドッティル
原題:TÀR/アメリカ/2022年 © 2022 FOCUS FEATURES LLC.
配給:ギャガ公式サイト https://gaga.ne.jp/TAR/
描かれている世界は、地獄。
坂入健司郎(指揮者)
――ある指揮者の転落人生を描いた物語。指揮者という職業に携わっている私にとっては、しばらくトラウマになってしまうほどリアルなものだった。ティーザー広告ではケイト・ブランシェット演じる主人公の指揮者、リディア・ターの狂気を強く打ち出していたけれど、そういった狂気は私には感じられなかった。指揮者は多かれ少なかれ多面性を有していて、狂気すら孕んでいるもの。むしろ誠実極まるブランシェットの名演技によって等身大の指揮者像が描かれていて、受け手にフィクションとノンフィクションの境界を見失わせていく。
普通のメディアではいきなりこんな話はできないかもしれないけれど、クラシック音楽にフォーカスした『FREUDE』読者の皆様なら、「MTTってなんの略称? レニーって誰?」そんな説明は不要だと思うので、あえて言及したい。ディティールが細かすぎてちょっとびっくりするほどリアルなのだ。例えば、ラジオからショスタコーヴィチの交響曲第5番の終結部が流れてきて、ターは「レニーの演奏かしら?」と独り言をつぶやく。そうしたら最後でどんどん遅くなっていくので、ため息交じりに「こんなに遅くしてしまったら駄目。きっとMTTの演奏よ」――間髪入れずにラジオのMCが「マイケル・ティルソン・トーマスの演奏でお送りしました」とアナウンスするような何気ない風景描写だったり、オーディションを受けてオーケストラに新しく入ってきたロシアのチェロ団員(試用期間中)がマエストロ、ユーリ・シモノフの姪っ子だったり、何気ないシーンにも異様なまでリアルな実名が出てくる。そして、ジェームズ・レヴァインやシャルル・デュトワのスキャンダルでさえも実名で取り上げられている。一方、フィクションとして登場するターを支援する投資家、エリオット・カプランが財団を立ち上げてターを支援しながら、マーラーを指揮するコツをターから聞き出そうとしている一幕も、邪悪なまでにリアルな世界への想像を掻き立てる設定なのだ。クラシック音楽ファンならこうしたやり取りだけでも終始楽しめるはず。
さて、主人公のリディア・ターはアメリカの5大オーケストラを指揮し一世を風靡、今はベルリン・フィルハーモニーの首席指揮者として活躍している、誰もが「The King of Conductor」と思うポジションにある。そして、若手の女性指揮者を育てる「良き指導者」というイメージも確立しつつある。その中で権力を持ち過ぎたが故のちょっとした判断の間違い、指揮の理想を持っているが故の意地悪な指導、抗えない欲望、ボタンの掛け違いなどが負のスパイラルに拍車をかけてターを不穏な雰囲気へ陥れてゆき、成れの果てには……。
私はこの映画を観たあと、不眠症になってしまった。リハーサルをするたびに、映画のシーンがよぎって不安な気持ちが抜けない期間が続いてしまった。どうしてくれよう。しかし、そんな後味の悪い映画を観ることができることも人生の楽しみではないだろうか? 久々に生涯忘れられない映画に出会いました。
最後に、「クラシック音楽を知らなくても楽しめますか?」という質問にもお答えしたい。間違いなく楽しめます。映画好きならば、きっと満足できる見事な伏線回収だし、「敷居の高い」と言われ続けているクラシックのリアルな世界をここまで凝縮して覗くことができる映画は未だかつてないです。あともうひとつ。ターは大学時代、東アマゾンの民俗音楽研究に没頭していた経歴があります。映画の冒頭に流れるシャーマニズムを感じる血湧き肉躍る民俗音楽は、この物語を「単なる悲劇」で終わらせない重要な鍵となるでしょう。いや。なると願っていますよ。同業者からの切なる願いです。
徹底した「リアル」がもたらす擬似体験
有馬慶
リディア・ター(ケイト・ブランシェット)はベルリン・フィルの首席指揮者を務め、作曲や教育にも力を入れている。まさに「女性版バーンスタイン」といった風情の彼女は、マーラーの交響曲全集の完成や自伝の出版を控えていた。すべてを手に入れたかのように見えたが……。
本作は二つの印象的なシーンから始まる。
一つは長尺のインタビューシーン。飄々としたインタビュアーの質問に、リディアは時折考え込むような間を置きつつ、堂々たる受け答えをする。そんな彼女の姿には底知れぬ説得力がある。ブランシェットの役作りはもちろんだが、本作の製作には本職の指揮者であるジョン・マウチェリが関わっている。彼はレナード・バーンスタインと長い間親交があり、『指揮者は何を考えているか』の著者でもある。
トッド・フィールド監督は嘘くさくない「リアル」な指揮者の姿を描くことに血道を燃やしている。上記のシーンの他にも、ドレスデン・フィルが実際に撮影現場で演奏した録音を使ったり、実在の音楽家や団体の名称が頻繁に出てきたりする。リディアの助手であるフランチェスカ(『燃ゆる女の肖像』や『パリ13区』に出演していたノエミ・メルラン)をはじめ、実際にこういう人物がいるのであろうと思わせるキャラクターがたくさん登場する。このような徹底した「リアル」の追求によって、世界的な指揮者であるところの主人公、さらには超一流のリーダーの視点というものを観る者に疑似体験させるのである。
もう一つはリディアの自室でのシーン。彼女はたくさんのマーラーのレコードを床にばらまき、あれでもない、これでもないと蹴散らしていく。そして、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルによるマーラーの交響曲第5番と、バーンスタイン指揮ベルリン・フィルによるマーラーの交響曲第9番の二つを残す。最終的に彼女はアバド盤を選び、そのジャケットとまったく同じ格好でジャケットを撮ることにこだわる。
これは彼女の性格を印象付けるシーンとして強烈だが、私はアバド盤を選択した意味について考えてみたい。ご存じの通りアバドは、ヘルベルト・フォン・カラヤンの後任としてベルリン・フィルの芸術監督として選出された。専制君主的なカラヤンの時代が終わり、民主的な指揮者が求められてのことである。彼の在任期間中の功績やその音楽性についてはさておき、本作で描かれるリディア・ターという人物像とはかけ離れた存在である。どちらかと言えば、カラヤンの方が彼女のイメージに近いだろう。彼女がアバド盤を選んだのは毒のある皮肉なのか、彼女は自分自身をそのように捉えているということなのか、はたまた彼女の願望が込められているのか。
本作には痛快なカタルシスはない。あるのはいつ終わるともわからない苦悩だ。指揮者であるということは、リーダーであるということはそうした無間地獄を味わい続けることなのかもしれない。それがどんな地獄なのかは、ぜひご自身の目で確かめてほしい。
「悪女」ではないからこその恐怖
原典子
海外では昨年公開されていたので、『TAR/ター』の前評判はかねてから伝わってきていた。ものすごく性格の悪い女性指揮者の話だと聞いて、敬愛するケイト・ブランシェット様が演じる悪女ならどんなに性格が悪くても許せるし、むしろ翻弄されたい……などと私は勝手な妄想を膨らませていた。が、試写を観たら予想とはまったく違う映画であった。
第一、主人公のリディア・ターはまったくもって「悪女」ではない。ベルリン・フィルの首席指揮者としてクラシック界の頂点に君臨しているが、あたりかまわず威張り散らすわけでもなく(今どきそんなことをしたら即パワハラで訴えられる)、年若いアシスタントを側に置いて目をかけ、年老いた前任指揮者の話し相手になり、オーケストラのコンサートマスターとは公私にわたるパートナーシップを築いている。女性指揮者が活躍するチャンスを与える支援団体を設立し、教育的な活動にも余念がない。
つまり、置かれた立場で自分がなすべきことをソツなくこなしている。ただ、それだけだ。音楽家が実名でバンバン登場するほどリアルさを追求している映画だが、たしかに現実世界でも、こういった目配りのできる音楽家が出世街道を歩んでいる。だからこそ、後半の展開における恐怖が他人事とは思えないのだ。
リディアが日常生活においてつねに追われ、思考が中断させられる描写も身につまされる。ピアノに向かって作曲をはじめようとした途端に鳴るドアベル、メールの着信音。眠りについたと思えば不気味な物音が、ランニングをしていたら叫び声が……次第に強迫観念に取り込まれていく過程を、ヒドゥル・グドナドッティルによる音響が巧みに描き出す。
唯一、リディアが犯した罪といえば(錯乱して起こしたステージ上での暴行事件は別として)、自分への想いを抱いていたクリスタという若手指揮者の苦悩に手を差し伸べず、自殺した後も巻き込まれることを恐れてメールを削除したこと。それとて、前任の指揮者アンドリスいわく「ひとたび告発されたら、それは有罪と同じ」という世界において、自分を守るためには当然の行動だったのだろう。しかしその出来事をきっかけに、リディアの栄光に満ちた人生は凋落の一途を辿っていく。
多忙を極める毎日のなかで、自分や家族を守りながら、自分が理想とする音楽を追い求める女性。彼女を追い詰め、崖下へと突き落としたものはなんだったのか――。四六時中スマートフォンのカメラに監視され、一挙手一投足がSNSに投稿され、完璧な人格と、完璧な社会性が求められる時代に生きるクラシック音楽家のリアルを描いたトッド・フィールド監督の皮肉に、空いた口が塞がらないラストであった。音楽家ならずとも、誰もが落ちうる奈落であることがさらに怖い。