Yaffle

Yaffleと考える
クラシック現在進行形 Vol.3

Yaffleと考えるクラシック現在進行形

Vol.3 音楽は「快」を求めざるべきか

音大の作曲科で学び、ポップスのフィールドで活躍するソングライター/プロデューサー、Yaffle(小島裕規)の目から見たクラシックを語ってもらうシリーズ記事。最終回はいよいよ音楽と人間の間にある本質的な性(さが)に迫る。

「汚し」を入れるテクニック

Yaffle 香港
photo by Hngry Pow

 ポスト・クラシカルって「クラシック」と銘打っているものの、音楽的な手法としてはポップスやインディ・ロックに近いと思うのですが。

Yaffle そうでしょうね。ヴィヴァルディの《四季》をリコンポーズ(再構築)したマックス・リヒターの《四季》だって、「春」のサビのところなんかはすごく分かりやすいポップス的なコード進行(6534進行)でしょ。最初のアブストラクトなサウンドスケープは完全に我慢タイムで、それを乗り越えてはじめてあのコード展開が気持ちよく感じるという作りですよ。

 わかるような気がします。つかみどころのない響きのあとに王道のコード進行が聴こえてくるとほっとするかも。

Yaffle 僕も創作するときに、きれいなものの前にちょっとした「汚し」を入れるという手法をとることがあって。完全な協和音って、それ以上きれいにはならない、限界なわけです。だからきれいなものを、よりきれいに見せるためには、その前に汚いものを見せるしかない。聴き手が心地よくない状態、ある種のプレッシャーを与えてからきれいなものを出すと、いきなりポンと出されるよりきれいに見える、気持ちよく感じる習性があると思います。

 人間の生理にかなった構造なんですね。

Yaffle 人間が「快」に感じるルーティンを固定化したものが、僕らが積み上げてきたポップスの方法論であって、良くも悪くも。僕は王道のコード進行が大好きだから、そういった「快」の部分をストレートに見せてくるポスト・クラシカルには肯定的ですよ。だけど、クラシックの本家本流のアカデミックな人たちにとってはどうだろう? 「ポスト・クラシカルこそクラシックの未来だ」みたいにぶつけたら反発されるよね。イージーリスニングって呼んでたころはポップスだったのに、「今から名前変えます!」って言ってポスト・クラシカルになって、クラシックの本流にいきなり合流してきたら(笑)

 ギャーーッ!! って炎上します。

大衆性を失った先にあるもの

八木 たしかに、現代音楽の世界では「快」を感じてはいけない、心地よくてはいけないみたいな空気がありますよね。

Yaffle 12音技法なんてまさにそうでしょ。快とか不快を完全に超越しているというか。

※12音技法
12の音高(ピアノの白鍵、黒鍵でド~シまでの12音)を均等に用いるために、ある音高が1度使われたらほかの11音が出揃うまでその音高は用いないというルールに基づいて作曲する技法。
従来の調性音楽の可能性を広げた無調音楽をさらに理論化することに成功した。アルノルト・シェーンベルクが1921年に《ピアノ組曲》Op.25の「プレリュード」ではじめて実践し、提唱した。

八木 クラシックだって、かつてのハイドンやモーツァルトの時代は「快」を追求する音楽だったのに、20世紀、戦後と進むごとに少しずつそれを拒否するようになって、大衆性を失ったと。

Yaffle それはクラシックだけではなく、ジャズだってスウィングの時代は「快」の音楽だったのに、それがビバップになって、モードになったあたりから別の方向に行っちゃって、フリージャズになって精神性を表現するみたいな話になって、大衆性を失った。オルタナ以降のロックなんかも同じ。

 Yaffleさんは「快」を追求することを否定しないと。

Yaffle そもそも、曲を作るときに「快」を無視するっていう感覚がよくわからないもん。「快」を感じる曲を作ることは、僕からしたら自然なこと。「ここが泣きのポイントだ」とか「このサビがいい」とか、そういうのを無視して作曲することに、僕はちょっと違和感を覚えるけど、アカデミックな世界ではそうではないわけで。どちらが正しいということではないけれど。

 そういう意味においてはポップス的思考ですね。

Yaffle 経済原理のなかに自分がいるということに対して、それほどネガティブに捉えていないというか。お金があるところに人が集まって、人が集まるといろいろな考え方が生まれて、そこから面白いものが生まれる状態が健全だと思っていて。音楽だってある程度の市場原理が存在していないと、発展が止まって、ただの古典になっちゃいますから。

真ん中を突くのがいちばん難しい

八木 「古典」という言葉で思ったのは、現代音楽においては「革新的であろうとすること自体が保守」になっているということ。例えばピエール・ブーレーズは「保守本流の革命家」とも言うべき存在で。

Yaffle 「保守本流」って、政治家みたいだな(笑)。でも、僕が音大というアカデミックな世界に一瞬でも身を置いたことで受けた影響は、商業主義に対する嫌悪感がまったくなくなったこと。逆説的だけど。なぜなら、アンチ商業主義の行きつく先を見てしまったから。音楽を快・不快でとらえることをやめた途端に、どういうところへ行くか、アートの極北を知っているから、軽々しく「アートを目指す」なんて言えない。

 なるほど。

Yaffle ポップスのアーティストでも、「自分は快・不快で曲を作っているわけではない」と商業主義を否定する人がいるけど、経済原理や資本主義を完全に無視したところで創作をしている人たち、いわゆる「現代音楽」の人たちの音楽を知ってますか? と言いたい。それに比べたら、あなたたちの音楽は紛れもないポップスですよと。

 アートの極北を知る男の目は厳しい……。

Yaffle 僕がいつも思うのは、新規性と大衆性の真ん中を突くのがいちばん難しくて、すべての芸術における肝だということ。新規性だけに振り切るのなんて簡単で、みんなが不快に思うことをやればいいだけだし、大衆性に振り切るなら、昔からウケてきたものをパクればいいだけ。だけど、現代音楽の人たちは、創作においてもっとも難関な「真ん中」を目指そうとしない、みんな避けて通ってるわけ。

 Yaffleさんのソロ・アルバムを聴くと、まさにその「真ん中」を目指しているように感じます。

Yaffle 僕がいるところは、ポップスの中心より少しインディ寄りのところなのかなと思いますが、ちょっと新しいけど大衆性があって良い曲、みたいなのを作りたいですね。最近ではJ-POPの世界でも新規性を打ち出すアーティストが増えてきたように感じています。

 興味が尽きないお話をありがとうございました。Yaffleさんのご活躍を今後も楽しみにしております!

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