坂東祐大と考えるクラシック現在進行形
Vol.3 作曲家の生き方
さまざまなフィールドを自在に行き来する作曲家、坂東祐大は今、なにを考え、どのように動いているか。その活動を通して、クラシックの過去、現在、未来が見えてくる。
text by 原典子
cover photo by Shinryo Saeki
ギリギリのエッジを攻める
原 坂東さんは現在、ご自身が創設したEnsemble FOVEの精鋭プレイヤーたちとともに、さまざまな新しいアート・プロジェクト、宇多田ヒカルや米津玄師らポップス・アーティストとのコラボレーション、映画やドラマの音楽など、多方面へと活動を展開していらっしゃいます。現代音楽とポップス、どちらの作品に取り組むときも、作曲家としての意識は変わらないのでしょうか?
坂東 そうですね、どんな作品においても音楽との向き合い方という意味では本質的に同じで、つねに自分のアーティスト性を保っていたいなと思っています。僕はトラックメーカーでも編曲家でもないので、できないこともたくさんありますし。作曲家として真正面から真剣に向き合えるプロジェクトでないと、お互いにとって幸せにならないとも思っています。
原 宇多田ヒカル《少年時代》の編曲も、坂東さんのアーティスト性がしっかり生きていました。
坂東 とはいえ、ポップスのときはそこに1枚フィルターを入れる行程が入るかもしれません。
八木 フィルターというと?
坂東 まるで自分のことを歌っているようだと人々が共感するところがポップスの大衆性だとしたら、「この表現は人々にどのぐらい理解されるか」みたいなことは、僕ひとりだけでなくそのプロジェクトに関わるチーム全員で考えなければいけないのかなと思います。歌においては歌詞においても、必然的に。
原 たしかに、現代音楽ではそのフィルターは必要ないですものね。
坂東 現代音楽は作家主義が根底にありますし。映画やドラマの音楽をやるときも多少そのフィルターは意識していて、「ここまでならギリギリいけるかな」というラインを見極めてエッジの攻め方を考えたり。「あの映画でここまでやっているから、自分もここまではいけるかな」とか、「あ、ちょっといきすぎたかな?」みたいなこともたまにあるのですが(笑)。
原 そのせめぎ合いは『大豆田とわ子と三人の元夫』を見ていても分かりますね(笑)。
坂東 このドラマはとにかく坂元裕二さんの脚本が超絶技巧なので、そこになるべく追いつこうと全力で取り組んでいます。攻めるところは、ものすごく攻めるつもりで。そういう場を、これからもっと増やしていかなくてはと思います。僕だけでなく、クラシックの人たちが映画やドラマという場で、アーティスト性を保ちながら挑戦できる土壌を作りたいですね。
作曲家の営みと音楽史
八木 坂東さんのお話を聞いていて思ったのですが、「これは現代音楽」とか「これはポップス」とか音楽でカテゴライズするのではなく、作曲家という人たちの生き方やメチエ(表現技法)にスポットを当ててみると、クラシックの歴史というのは断絶せず続いているのではないでしょうか。黛敏郎も、武満徹も、坂本龍一も、Yaffleも、坂東さんも、状況に合わせてジャンルを問わずいろいろな音楽を書いてきて、どの作品においてもそのとき自分が考えていることをストレートに出している。つまり「それが現代における作曲家の形です」という見方で20世紀の戦後日本の音楽史を眺めると、時代性と連続性があって、「クラシックは終わった」という結論には至らないのでは。
原 ほう、見方を変えれば生きていると。
八木 そこをヘンに「坂本龍一はこっち」「野平一郎はこっち」と縦割りするから、分からなくなってしまうだけで。「作曲家としての行為」を軸に考えると、クラシックは生きているんですよね。
坂東 作曲家別に見ていったとき整合性がとれるというのは、たしかにそう思います。それは「マニアがジャンルを殺す」という話にも通じるのかもしれません。それと僕の立場から言えることは、日本のクラシックにおいて作曲家の立場って非常に肩身が狭いと思うんですよね。また一般的な物差しで言っても2021年において、作曲家はアーティストであるということを理解してもらうのは本当に難しいことで。ごく当たり前のことなのに、わざわざ言っていかないといけない状況ではあります。作曲家は裏方ではありません。
原 それはクラシックが生き残っていくための必要最低条件ですね。
音大で学べること、学べないこと
坂東 僕、インタビューで質問をしていただいたのに、逆に疑問を投げかけて終わるみたいパターンがすごく多いですけど、大丈夫ですかね?
原 この「クラシック現在進行形」シリーズは、答えを出すのが目的の記事ではないので全然OKです! 逆にモヤモヤして終わる方がいいぐらいで。
坂東 モヤモヤで思い出しましたが、ちょうど今日、友人に「音大に入らないと作曲家にはなれないの?」と素朴な疑問を投げかけられて、「そんなことないと思う」って答えたと同時に、「あれ、でもオーケストラ曲の作曲は難しいかも」と思った自分がいたんですよね。和声法とか対位法とか、西洋的に体系化されたされたものを1回きちんとインストールしないと難しいのではないかと。それって独学でも可能かもしれませんが、おそろしく遠回りですよね。うーん、でも「音大に入らないと作曲家にはなれない」とは断言したくない気持ちもあって……。
八木 Yaffleも言ってましたね。ポップスの仕事をしていても、基礎となっているのは和声だし、オーケストレーションの技法として学んだことだって。もちろん「作曲する」という行為自体は独学でも可能だし、そもそも学ぶ必要すらないかもしれない。けれど職業として知識や技術を身につけようと思ったら、音大がいちばん近道ではあると思います。とはいえ、近年増えてきた音大の「商業音楽コース」みたいなのとも違うかなと。実用的な技術だけでなく、やはり本来的な意味でのアカデミックな勉強をしないと。そうやってあらゆる音楽の理論を学んだうえで、映画音楽だろうがポップスだろうが、書きたいものを書けばいいわけで。
坂東 そうですね、たとえば映画音楽だって突き詰めてやろうと思うとすごく難しい道のりだと思うんです。和声もかなりレベルの高いものが要求されますし、オーケストレーションも自由自在にできないといけない。また、トラックメイキングやエンジニアリングについての知識もないと絶対にプロジェクトが実現できない。そのうえでお芝居についても分かっていないといけないし、観た人がグッとくる映画的な時間感覚もおさえないといけない。いろんなことを体系的に、かつ奥深くまで学んで、さらに自分で磨いていく必要がある。本当にとんでもない世界です。
八木 そうかと思えば以前、作曲家でピエール・シェフェールの研究などでも知られる水野みか子先生が面白いことをおっしゃっていました。「音大って不思議なところで、入るためには和声をたくさん勉強しなければならないのに、作曲科に入った瞬間、そこから離れる方法をずっと教えられる」と。たしかに、あれだけ和声をきれいに書く方法を叩き込まれたうえで、「それはダメ!」と否定されるのが現代音楽界ですよね。
坂東 あはは、そうですね。完全にダブルバインドに陥っている。本当に不思議なところですね。
原 ……とまあ、クラシックは死んだのか生きているのか、モヤモヤする部分はありますが、坂東さんの今後のご活動のなかから、その答えを見つけ出していきたいと思います。たくさんの刺激的なお話をありがとうございました!