坂東祐大と考える
クラシック現在進行形 Vol.1

坂東祐大と考えるクラシック現在進行形

Vol.1 時代と音楽

「今もっとも注目される作曲家」として坂東祐大の名前を挙げる人は多いだろう。現代音楽のフィールドのみならず、近ごろでは松たか子主演のドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』の音楽を手がけて話題となったほか、宇多田ヒカルや米津玄師のコラボレーターとしても信頼を寄せられる存在である。今春には現代音楽の作曲家としてのメインワークを発表するレーベル「Yuta Bandoh Studio」を設立、その第1弾としてリリースした『ドレミのうた』は各方面に衝撃を巻き起こしている。そんな坂東に、現在のクラシック音楽を取り巻く状況について話を聞いた。

text by 原典子
cover photo by Shinryo Saeki

坂東祐大 作曲家/音楽家。1991年生まれ。多様なスタイルを横断し、異化や脱構築による刺激と知覚の可能性、感情の作られ方などをテーマに幅広い創作活動を行なう。作品はオーケストラ、室内楽からトラックメイキング、立体音響を駆使したサウンドデザイン、シアター・パフォーマンスなど多岐にわたる。東京芸術大学附属音楽高等学校を経て、東京芸術大学作曲科を首席で卒業。同修士課程作曲専攻修了。2015年、第25回芥川作曲賞受賞。2016年、Ensemble FOVE を創立。代表として気鋭のメンバーとともにジャンルの枠を拡張するさまざまな新しいアート・プロジェクトを多方面に展開している。2021年4月、『ドレミのうた』をリリース。

八木宏之 FREUDE編集人。青山学院大学、愛知県立芸術大学大学院、ソルボンヌ大学にて音楽学を学ぶ。ベルリオーズとブーレーズが好き。

原典子 FREUDE編集人。音楽雑誌の元編集者でありライター。ポスト・クラシカルなど新しいクラシックの潮流に興味がある。

よく分かんないけど面白い

 まず、坂東さんが作曲家を志した理由についてお聞かせいただければと思います。高校から東京藝術大学の附属校に進んでいらっしゃいますね。

坂東 子どもの頃から習い事としてピアノはやっていましたが、エリート音楽一家の生まれでもないですし、じつはあんまり音楽に特別な思い入れはなかったんですよね。表現することは好きだったのですが。だから逆に、中高生のときに熱狂的に音楽にハマってギターを買った! みたいな強烈な体験に憧れていたりもします。

 自然な流れで現代音楽に出会って、作曲するようになった?

坂東 そうです、高校1年のとき、なぜか2ヶ月ぐらいオリヴィエ・メシアンばっかりひたすら聴いていた時期とかはありましたけど(笑)。ひとつ思い出深いのは、大学3年のときはじめてパリに遊びに行って、最初にコンサートで聴いたオンドレイ・アダメクの曲(《回って止まって》)。「いらっしゃいませ、こんばんは~」という日本語からはじまるんですよ。「あれ? 僕、今パリに来たんだけど」と驚きました。同時にすごいカッコいいと思ったし、こういうのって面白いなと。

 メイド喫茶の店員さんの声がエキゾティックに聞こえますね。

坂東 現代音楽というより、コンテンポラリー・アートが好きなんだと思うんです。僕にとっては、現代美術館に行くのが好きみたいなことの延長線上に、こういった音楽もあるのかもしれない。アカデミズム一辺倒ではないけれど、ある一定の文脈の上にあって、ちゃんと訴求力がある。そういったアートが成り立つ土壌が、日本の現代音楽のシーンにはないですよね。

八木 アカデミズムに寄りすぎている感じはします。

坂東 ガチのアカデミズムか、表層的なファッションになってしまうか日本の現代音楽にはそのどちらかしかないというのが、僕には居心地が悪くて。同じ音楽でも、たとえばエレクトロニカやサウンドデザインには現代アート的な領域があるのに、なんでクラシックにはないの? とも思います。普通にそういった表現の場があってもいいのでは。

 たしかに現代美術館やコンテンポラリー・ダンスは、それほどディープなファンでなくても、なんとなく興味を持って足を運ぶことはあると思いますが、現代音楽はもっと入りにくいイメージがありますね。

坂東 そうなんですよ。もちろん、現代美術やコンテンポラリー・ダンスも、すべての人に初見で受け入れられるものばかりではないとは思いますが、現代音楽より「とっつきやすさ」はありますよね。なにも知らなくても、とりあえず見ることができる。それが良い見方かどうかは別としても。現代美術館に行くと、なんだかよく分かんないけど、なにか持ち帰ったような気持ちになって帰れる。それはなぜなんだろう? と音楽の側も考える必要があると思います。

 「なんだかよく分かんなかったけど、面白かった」みたいなことはよくあります。

坂東 まさに僕も、現代音楽にそこまで詳しくない人に自分の作品を聴いてそう言ってもらえるのがいちばん嬉しくて。そこは絶対に大切にしたいと思っているところです。聴いた人が「難しいことはよく分かんなかったけど、刺激になった」と感じてもらえたらいいなと。

それって「現代」じゃなくない?

Ensemble FOVEとの、映画『竜とそばかすの姫』のレコーディング風景

 ここで坂東さんのご意見をお伺いしたいのですが、じつは私、「現代音楽」という言葉を使うたびにモヤモヤするんです。文字面だけ見ると「現代の音楽」だからいろいろな音楽があっていいはずなのに、いわゆる「現代音楽」として我々がイメージするのは、ある一定の音楽に限られるじゃないですか。

坂東 テクスチャーがちょっと調性から外れているような?

 そうそう、いかにも「現代音楽」という感じ。でも、それって「20世紀における現代音楽」なのではと。21世紀に入って20年も経っているのに、いつまでも同じ音楽を指して「現代音楽」という言葉を使っていていいのかな? というのが疑問です。

坂東 それはおそらく、ジャンルが目指していたところと現状とが完全にズレていることから生じる問題ですよね。つまりクラシックの権威主義的な人たちにとって、現代音楽とはクラシックの延長線上にある最先端の音楽で、ほかのジャンルともあいまみえない崇高なものだ、といった意識がある。けれど、実態はまったくそうなっていない。原さんがおっしゃった音楽的なテクスチュアの面を考えてみるとすると、ほかのシーンと比較した際、「最先端じゃなくない? それ。あと現代っていうか20世紀……」っていうことが起こっているかもしれません。現代と謳っているのに同時代性を失ってしまっている。

八木 そのズレはどうして生じてしまったのでしょう?

坂東 クラシックや現代音楽の人たちが、ニッチな世界に入り込みすぎて、あまりにほかのシーンとかけ離れている。知らないだけならまだいいですけど、知らないことを美徳とするような考えもある。これは作曲家だけでなく演奏家にもたびたびある傾向だと思います。個人的には排除する方向に行こうとするのは非常に危ないと思います。本当に誰にも聴かれなくなってしまいますから。

八木 袋小路に陥ってしまうと。

坂東 このトピックは非常にデリケートで、じゃあなんでもジャンルをミクスチャーにすればいいのか、と言いたいかというと、決してそういうわけではありません。基本的に異なるジャンルを混在させることはリスキーな行為です。僕の立場から言いたいことは、どのような立場のアーティストであっても、同時代性をキャッチする感覚を持っていないと、本当にジャンルの袋小路に陥ってしまう、という点です。

クラシックは終わった?!

坂東 「現代じゃなくない?」っていう話で、たとえば僕はライヴ・エレクトロニクス(演奏中の音をリアルタイムで電子的に加工し、スピーカーから出力する電子音楽の技法)にはあまり興味が持てなくて。IRCAM(フランス国立音響音楽研究所)で開発された音楽ソフト「Max」にしたって、要はものすごく複雑なエフェクターみたいなもので。今の技術だったらパッチを書かなくてもプラグインのプリセット一発でできてしまったり、そもそもサウンドデザインで作った方が精度高くない? とか。そういったことを全部無視して生演奏重視でMaxを使い続けているのもどうなのかな。それってクリエイティヴなこととは違うのでは? と思うんです。

八木 IRCAMってもともと創設者ピエール・ブーレーズの「こういうことをやりたい」という発想のもとにはじまっていったわけじゃないですか。その夢を叶えるためのツールとして、4XやMaxといった技術が生まれた。だから、その技術を使って作られた《レポン》や《…爆発-固定…》のライヴ・エレクトロニクスを聴いたとき、僕はそこにすごいパワーを感じました。でも、それ以降の人たちがブーレーズ以上にMaxを使う必然性を見出せないまま使っているから、坂東さんのおっしゃったような状況になっているのではないでしょうか。

坂東 ブーレーズの《レポン》とかって、やっぱり今聴くと古いな~って感じがしてしまうんですよね。1980年代のレガシーだなと。ディズニーランドのトゥモローランドとか、大阪万博での未来都市みたいな「昔の人が考える未来」のイメージ。

 レトロフューチャーですね。

坂東 それです。現代では、その輝かしい未来像は失われて久しいですよと。

八木 結局、ブーレーズだけでなくシンセサイザー音楽などにも言えることですが、最新のテクノロジーに夢を感じて、それに依った表現に行ってしまうと、作品のなかにその時代のテクスチャーが強く残ってしまう。当然テクノロジーは進歩し続けますから、そういう音楽は、あとから聴くと古びたものになってしまいますよね。そう考えると、超時代性のある音楽というのは、テクノロジーとは無縁な弦楽四重奏とかなのかなとも。

坂東 テクノロジーを使うと、そういうことは往々にして起こりますね。現代音楽の世界では、とくに音楽的なテクスチャーに関してですが、「俺ら最先端」って言いながらアップデートされず、時代から取り残されているケースも多々あると思います。技術の面で言うと、絶対的に人材と予算のあるところにテクノロジーは集まるので、たとえば今の最先端技術を考えてみると、立体音響のようなアプローチではハリウッドのクオリティに勝てない。映画音楽や音響に関するポスプロは予算と時間のかけ方が尋常じゃないので。もちろん映画音楽は映画に付随されているものなので直接の比較はできないと思いますが。

八木 「時代と音楽」という話で言うと、戦後の20世紀に関してはイデオロギーと音楽とを結びつけていく流れもありましたね。たとえばイタリア共産党員だったルイジ・ノーノの作品は、前衛音楽そのものに関心がなくても、ノーノのメッセージに共鳴する人々にとってはフックがあったわけで。それが良いか悪いかは別として、純粋に音楽だけを追求したブーレーズとは違う、大衆との接点を持っていたと思うんです。または、クラシック音楽と聴衆との乖離に対して視点を持ったポスト・モダン的なアプローチもあります。この流れは現在のポスト・クラシカルへとつながるものかもしれません。

 20世紀の音楽はテクノロジー、イデオロギー、ポスト・モダンという3つの側面で語られると。

八木 でも、テクノロジーを使った現代音楽は完全に袋小路に入っていって、ノーノたちも冷戦崩壊後には消えてしまって、かといってポスト・モダンやポスト・クラシカルの人たちがクラシックを未来へとつなぐ「解」を持っているかというと、そうではない。

坂東 となるとさまざまな可能性が絶たれて、「かつて人類はクラシックという音楽を創造し……」みたいな遺跡となってしまうのでしょうか。

八木 これは僕の意見ではないと断ってから言うと、ひょっとして「創造芸術としてのクラシック音楽は終わった」という可能性もあるのでしょうか?? 僕は今でも生き続けていると信じているから、こうしてFREUDEを立ち上げたのですが。

坂東 終わった可能性はあるかもしれません。あんまり信じたくないですが……。大胆な仮説から、これからの可能性を考えてみるのは刺激的ですね!

――果たしてクラシックは本当に終わってしまったのか?! 次回へと続く。

最新情報をチェックしよう!