丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス2024
レポート【前編】

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丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス2024

レポート【前編】

text by 八木宏之

夏の暑さがまだ残る2024年9月18日、私は東京から飛行機と電車を乗り継いで、兵庫県の丹波篠山へ向かった。この地で行なわれる『丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス』を取材するのが旅の目的である。JR福知山線の篠山口駅からはタクシーに乗り換え、マスタークラスの会場である丹波篠山市立田園交響ホールへ。道中でタクシードライバーの紳士から聞いた話によると、丹波篠山は秋がなにより魅力的だという。紅葉が美しいのはもちろんのこと、黒枝豆、栗、黒豆、山芋、そして牡丹鍋など、多くの特産品が旬を迎える。とりわけ牡丹鍋は、1年のうち、狩猟が解禁される11月から2月の間にのみ、生の肉が提供されるので(そのほかの期間は冷凍物になる)、それを目指して多くの旅行者が丹波篠山を訪れるとのこと。紅葉と美食を楽しむには、私の訪問時期は少し早すぎたようだが、車窓からのぞむ晩夏の丹波篠山の風景は驚くほど緑が深く、力強い自然に囲まれて日々の疲れが癒えていくのを実感した。なにより今回の目当てはヴィオラである。

地域密着の多彩なプログラム

北海道の小樽で2004年から2019年まで15年にわたって開催された『小樽ヴィオラマスタークラス』を引き継ぐかたちで、2021年にスタートした『丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス』は、今年で4回目となる。9月12日から21日までの10日間、日本、韓国、中国、スイス、イギリスの各地から集まった12名の若きヴィオリストたちが、ソロに、室内楽に、アンサンブルに、ヴィオラ漬けの日々を過ごした。講師は、世界的ヴィオラ奏者の今井信子を中心に、ザ・イマイ・ヴィオラ・クァルテットのメンバーであるファイト・ヘルテンシュタイン、ウェンティン・カン、ニアン・リウの4名が務めた。レッスンは原則として一般公開され、地元丹波篠山はもちろんのこと、遠方からも多くの聴講生が訪れる。

マスタークラスの運営は丹波篠山のボランティア・スタッフに支えられており、受講生たちは市役所や小学校で行なわれるアウトリーチ・コンサート『おでかけコンサート』で、マスタークラスの実りを地域に還元している。私が取材を開始した直後にも、丹波篠山市役所のロビーで、『おでかけコンサート』が開催され、菊田萌子、ボーシェン・リ、シュオ・スー、ヒンキー・シェンによるヴィオラ・クァルテットが、ゲオルク・テレマンやジャン=マリー・ルクレールといった古典作品から、ピエトロ・マスカーニの《カヴァレリア・ルスティカーナ》間奏曲、《グリーンズリーヴズ》《日本の童謡メドレー》のような誰もが一度は耳にしたことのある名曲まで、30分のプログラムを市民に届けていた。

『おでかけコンサート』丹波篠山市役所ロビーにて
『おでかけコンサート』丹波篠山の観月会にて
『おでかけコンサート』丹波篠山市立大山小学校にて

マスタークラスの最後の2日間、9月20日と21日には『マスタークラスコンサート』も開催された。ここでは、受講生たちがマスタークラスでの学びを披露し、講師たちも自らの磨き上げられた技をもって生徒たちに模範を示す。また地元のアマチュア・オーケストラ、メロマン室内管弦楽団と講師、受講生たちによるJ.S.バッハの《ブランデンブルク協奏曲 第3番》の合同演奏も行なわれた。

私が今回取材したのは、9月18日と19日の2日間。講師たちによるレッスンのラストスパートを間近で体験することができた。『丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス』では、受講生はマスタークラス期間中に4人の講師全員のレッスン(1回50分)をそれぞれ2回ずつ受ける。ピアノとのデュオ作品のレッスンでは、草冬香、伊藤修子、松田龍、3名のマスタークラス専属ピアニストが伴奏を受け持った。ソロだけでなく室内楽を重視しているのもこのマスタークラスの特徴で、ヴィオラ・クァルテットのレッスンも3回受講し、前述の『おでかけコンサート』と『マスタークラスコンサート』でその成果を発表した。また日本におけるアレクサンダー・テクニークの第一人者、小野ひとみのレッスンも提供され、ステージにおける緊張との向き合い方や、演奏するうえでの自然な身体の使い方を学ぶことができる点もユニークである。

今井信子によるレッスン
小野ひとみによるアレクサンダー・テクニークのレッスン

あなた、ヴィオラに転向したら?

今回の取材を通して、私が特に注目した受講生は、笠井大暉とアントワーヌ・テヴォの2人だった。笠井はイギリスに生まれ、日本に帰国後、5歳からヴァイオリンに親しんだ。父の転勤に伴い、オーストラリア、アメリカで少年時代を過ごした笠井は、その後、単身生まれ故郷のイギリスへと戻って、英国王立音楽院のヴァイオリン科を首席で卒業した。笠井がヴィオラに転向したのは2022年のこと。『小澤征爾スイス国際アカデミー』に参加していたときに、笠井が友人のヴィオラを遊びで弾いていると、講師の今井が偶然その演奏を聴き、「あなた、ヴィオラに転向したら?」と声をかけた。今井の言葉が転機となり、笠井はヴィオラにのめり込んでいく。今井はヴィオラへの転向を決めた笠井に楽器も貸してくれたという。今井が教授を務め、カンが助教授を務めるスペイン、マドリッドのソフィア王妃高等音楽院のヴィオラ科に入学した笠井は、めきめき腕を上げ、2024年9月にオーストリアのペルチャッハで開催されたヨハネス・ブラームス国際コンクールのヴィオラ部門で優勝を果たした。ヴィオラと運命的な出会いを果たしてからわずか2年での快挙だった。

ウェンティン・カンのレッスンでの笠井大暉

田園交響ホールのステージで行なわれた今井と笠井のレッスンでは、パウル・ヒンデミットのヴィオラ・ソナタ(1939)が取り上げられた。このレッスンでは、今井は弓の扱い方の指導に多くの時間を割いていた。普段からマドリッドで今井のレッスンを受ける笠井だが、夏休みの間についてしまった小さなクセを今井は見逃さず、正しい方向に修正していく。今井にヴィオラへの転向を勧められただけあって、笠井の音はヴィオラらしい太くあたたかみのあるものだが、今井のアドバイスに従って弓を置く角度を僅かに変化させると驚くほど音量や音色、響きの質が変化し、音楽のスケールもより大きなものになる。

レッスン室(各講師のレッスン場所はホール内のステージと大小さまざまな楽屋をローテーションしている)に移動して、ファイト・ヘルテンシュタインと笠井のレッスンも見学する。演奏されたのはウィリアム・ウォルトンのヴィオラ協奏曲である。笠井がこの作品に取り組むのは初めてということもあって、ヘルテンシュタインは自らも積極的に楽器を弾いて、笠井が作品の流れを掴みやすいように導いていた。ヘルテンシュタインも指導のためにたびたび演奏を止めることはあるが、言葉を交わす間も緊張が途切れることはなく、50分間絶えず音楽が続いているかのような印象を抱かせるレッスンだった。

マスタークラスの講師のうち、カンとヘルテンシュタインは今井の弟子であり、リウも3人とヴィオラ・クァルテットを組む音楽仲間なので、4人の音楽性には重なるところも多いが、それでも4人の音楽家がいれば、それぞれに固有のスタイルがあるものである。代わる代わる異なる講師からレッスンを受けて、受講生は混乱しないものかと心配になるが、笠井はそこに迷いは生じないと語る。

「『丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス』の最大の特徴は先生も生徒もみなヴィオラ弾きだという点です。世界中にさまざまなマスタークラスがありますが、ヴィオラに特化したものはとても珍しく、ユニークだと思います。ヴィオラ奏者しかいない空間にはある種の連帯感が漂っていて、とても親密な雰囲気です。4人の先生からレッスンを受けますが、それぞれに異なる視点からいま自分に必要なことを示していただけるので、混乱することはありません」(笠井大暉)

ニアン・リウによるクァルテットのレッスン

一生の宝物になるレッスン

アントワーヌ・テヴォは2005年生まれ、スイスのローザンヌ出身の若きヴィオリストだ。笠井が成人してからヴィオラに転向したのとは対照的に、テヴォは4歳からヴィオラを弾き続けている。ヴァイオリンを経ずに(正確にはスズキメソードの教室でごく短期間ヴァイオリンも学んだという)、幼少期からヴィオラを弾くケースは極めて珍しい。19歳にしてすでに長い年月をヴィオラとともに過ごしているテヴォの演奏は非常に軽やかで、良い意味でヴィオラという楽器を感じさせない自由な語り口を持っている。ホールのステージで行なわれたカンによるレッスンでは、J.S.バッハの《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番》のヴィオラ版を弾いたテヴォ。身体と弓をいかにリンクさせるかに着目したレッスンだったが、テヴォの流麗で饒舌なバッハは、ヴィオラがすでに彼の身体の一部となり、歌うための声となっていることを感じさせるものだった。

アントワーヌ・テヴォ

テヴォが今井から武満徹の《ア・ストリング・アラウンド・オータム》を学んだレッスンは、今回の取材のハイライトと言っても良いものだった。《ア・ストリング・アラウンド・オータム》は、『パリの秋 フェスティヴァル』がフランス革命200周年を記念して武満に委嘱し、1989年11月29日に今井とケント・ナガノの指揮するパリ管弦楽団によって初演された作品である。ウォルトン、ヒンデミット、バルトークに続く、もっとも重要なヴィオラの協奏的作品のひとつであり、今日ではヴィオラ奏者の主要なレパートリーに定着している《ア・ストリング・アラウンド・オータム》。武満が今井のヴィオラを想定して作曲したこの作品のレッスンを、今井本人から受けることは、若いヴィオラ奏者にとってかけがえのない経験となる。「ここは秋の枯葉のような音色で」など、今井が具体的なイメージを伝えると、テヴォの響きは驚くほど鮮やかに変化し、陰影を深めていく。またこの作品を誰よりも弾き込んできた今井ならではのテクニカルなアドバイスによって、テヴォの演奏の解像度は高まり、細部が研ぎ澄まされていった。受講生のテヴォはもちろんのこと、ピアニストの松田、アシスタントの大島亮から聴講生たちに至るまで、その場をともにした全員が今井の言葉の一切を聞き逃すまいと集中している、その空気がたまらなく心地よい。テヴォにとって、この日の今井のレッスンは一生の宝物となったようだ。

「この春にロンドンで今井先生と出会い、先生のレッスンを受けたいと相談したところ、丹波篠山のマスタークラスを紹介されました。それで、今回初めて日本を訪れることに決めたのです。作品の初演者であり、作曲者の武満徹とも親交のあった今井先生に《ア・ストリング・アラウンド・オータム》のレッスンをしていただけたことは本当に忘れがたい体験でした。武満は《ア・ストリング・アラウンド・オータム》に演奏家による解釈の余地を残していますが、作曲家にインスピレーションを与え、また作曲家が演奏家になにを望んでいたのか、作曲家自身の言葉を知る今井先生からこの作品を学べたことは、貴重な経験であり、私の今後の財産になると確信しています」(アントワーヌ・テヴォ)

ファイト・ヘルテンシュタインによるレッスン

マスタークラスを満たす人間的なあたたかみ

個人レッスンのあとには、ホールで行なわれた講師、受講生とメロマン室内管によるJ.S.バッハの《ブランデンブルク協奏曲 第3番》のリハーサルも見学することができた。《ブランデンブルク協奏曲 第3番》のヴィオラ合奏版は、『小樽ヴィオラマスタークラス』の卒業生である小早川麻美子が編曲を手がけたもので、今井のお気に入りのレパートリーである。2023年3月にアムステルダム・コンセルトヘボウで、同年8月には東京のサントリーホールで開催された今井の傘寿記念演奏会でも、この作品が取り上げられている。4人の講師たちは異なるパートにわかれてアンサンブルに加わり、受講生やメロマン室内管の自発的な演奏を促しながら、要所でディスカッションを重ねていく。この小早川によるヴィオラ版の演奏を聴くと、私はいつも不思議な多幸感に包まれる。たくさんのヴィオラ奏者が集まって一緒に音を出したときに得られる親密な響きは、唯一無二のものだ。そしてこの親密さは、マスタークラス全体に貫かれている「ヴィオラ弾きはみな家族」という今井の想いにも重なる。笠井もテヴォも、『丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス』を満たす人間的なあたたかみを、このマスタークラスのなによりの魅力に挙げていた。今井の背中を追って、またその人柄を慕って世界中から丹波篠山に集う受講生、講師陣、スタッフに、今井は等しく愛情を注ぎ、ひとつのファミリーを形成している。これこそが『丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス』の本質であろう。《ブランデンブルク協奏曲 第3番》のリハーサルが終わったときには夜9時をまわっていたが、今井はその後もホールに残って黙々と練習を続けていた。講師も受講生たちも「まだこれから練習するの!?」と驚いていたが、80歳を過ぎてもなお、努力を惜しまず、黙々と技術を磨き続ける姿は、若いヴィオラ奏者たちに確かなメッセージとなって届いたはずだ。

今井信子
《ブランデンブルク協奏曲 第3番》リハーサル

記事の前編では、レッスンの話題を中心に、マスタークラスの模様をFREUDE編集部の八木宏之がリポートした。後編では、同じく編集部の原典子が修了コンサートをはじめとするマスタークラスのクライマックスと締めくくりをじっくりお届けする。

後編へつづく

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丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス〜ヴィオラの本質を探究する学びの場

丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス オフィシャル・サイト
https://tsvmc.com/

丹波篠山国際ヴィオラマスタークラス Instagram
@tambasasayamaviolamasterclass

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