藤木大地
いのちのうた〜Song of Life
世界にたったひとつの人生の物語

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藤木大地

いのちのうた〜Song of Life

世界にたったひとつの人生の物語

text by 八木宏之

あの舞台が自分にとって最後の仕事でも良い

日本が世界に誇るカウンターテナー、藤木大地。作家の島田雅彦は藤木大地を「心折れる現実を浄化するシャーマン」と呼び、「高原の空気や石清水にも似た、濁りも澱みもない歌声」と評する。テノール歌手として研鑽を積んでいた20代には、壁にぶつかることも多かった藤木大地に転機が訪れたのは30歳のとき。風邪をきっかけに自らのファルセットの可能性に気づいた藤木はカウンターテナーに転向し、国内外のコンクールで次々と結果を出すようになる。2012年の日本音楽コンクールではカウンターテナーとして初の第1位を受賞。その後、ヨーロッパ各地の歌劇場に活躍の場を広げ、2017年にはライマンの《メデア》のヘロルド役でウィーン国立歌劇場デビューも果たした。日本国内での活躍も目覚ましく、新国立劇場ではブリテンの《夏の夜の夢》(オベロン)、渋谷慶一郎の《スーパーエンジェル》(アキラ)で主演を務め、バッハ・コレギウム・ジャパンによるヘンデルの《リナルド》でもタイトルロールを飾った。その歌声でクラシック音楽界に新風を吹き込む藤木大地が、11月20日に自身3枚目となるアルバム『いのちのうた〜Song of Life』をリリースした。このアルバムの出発点となったのは、新型コロナウイルスが世界を覆い尽くす直前、2020年2月15日に東京文化会館で初演された歌劇『400歳のカストラート』(以下『カストラート』)であった。

「2018年に東京文化会館から“何か新しい舞台作品を考えてもらえないか?”とご依頼をいただいたのが全ての始まりです。以前から練っていたカストラートをテーマにしたリサイタルのアイデアを膨らませて、舞台作品にできないかと思いついたのがスタートになりました。カストラートは歴史のなかでたしかに禁止されたのですが、もし禁止されずにそのままカストラートが残っていたら、音楽史はどうなっていたのだろうか? ワーグナーやマーラー、リヒャルト・シュトラウスはカストラートのために作品を書いたのだろうか? と想像してみました。そして“もしカストラートが禁止されずに生き残っていたら”という“if”の歴史を舞台作品にしようと思ったんです。演出家は誰と組むかいろいろと考えるなかで、人形劇俳優のたいらじょうさんの舞台を観させていただき、たいらさんと一緒に舞台をつくることに決め、音楽監督には加藤昌則さんを迎えて、企画をスタートさせました。たいらさんは脚本を書くにあたり、私のこれまでの人生、歌手としての歩みをインタビューして、私自身の人生をもとに、不老不死のカストラートが400年の音楽史を生き抜いていくファンタジーを描いてくださいました。舞台のフィナーレは加藤さんによるオリジナル作品(本アルバムにも収められている《絶えることなくうたう歌》)で終えようと決めていたので、そこに至るまでの選曲を私自身が音楽史の流れに沿って行い、ひとつの歌劇ができあがりました」(藤木大地、以下同)

『カストラート』は初演後大きな反響を巻き起こし、すぐに再演も決まったが、その直後、急速に拡大した新型コロナウイルスがクラシック音楽界の状況を一変させた。

「『カストラート』を初演した直後、新型コロナウイルスの感染拡大が起きて、コンサートもオペラもできなくなり、一切の仕事がなくなりました。そんななか『カストラート』を振り返ってみて、あの舞台が自分にとって最後の仕事でも良い、これで引退しても良いのではないか、と思えたんです。それくらいにやり切った舞台でした
そんなときに、キングインターナショナルから新しいアルバムをつくるお話をいただきました。いつかオーケストラとレコーディングをしたいと夢見ていたけれど、それにはとてもお金がかかる。でも『カストラート』の編成(弦楽四重奏とピアノ)で歌うのなら可能なのではないかと思い、相談したところ、OKが出たんです。それで新しいアルバムでは『カストラート』と同じ編成で、舞台で歌った作品を中心にしながらも、決してサントラ盤ではない、新しい作品としてのアルバムをつくることになりました」

藤木大地 ©hiromasa

世の中にまだないものをつくりたい

アルバム『いのちのうた』は、カストラートがまだ禁止されずに活躍していたバロック時代の3巨匠、バッハ、ヴィヴァルディ、ヘンデルの作品で幕を開ける。

「カウンターテナーにとって、オペラのレパートリーはバロックかコンテンポラリーしかありません。バロックとモーツァルトの初期作品以降、ベンジャミン・ブリテンの登場まで、カウンターテナーの役はない。だから、カウンターテナーとしてキャリアをスタートしたときから、バロックのレパートリーにはずっと取り組んできました。バッハもヘンデルもヴィヴァルディもしばしばバロック音楽と一括りにされてしまいますが、全く異なる個性を持った作曲家ですし、作曲家ひとりひとりにもっと目を向けて欲しいと思っています

アルバムの中盤では、オーケストラ作品として知られるものや、従来カウンターテナーでは歌われない作品も含め、美しくも哀しみを帯びた名曲が並んでいる。

「バーバーは、『カストラート』では歌おうとするけど声が出ないことに気づく重要な場面で登場しますが、そこでは声が出ない場面なので弦楽四重奏だけが演奏しました。ただ、本当に美しい曲で、自分も歌いたいと強く思ったので、アルバムでは歌うことにしました。マーラーはメゾソプラノによって歌われることが多い作品です。自分が女声のために書かれた作品を歌うときには、メゾソプラノ、アルトではなくてカウンターテナーで歌う価値があると聴いている人に思ってもらえることが大切です。もうひとつ重要なのは、男性が歌っても不自然ではなく、テキストの内容に共感して、それを自分が伝えたいと思うか、という点です。原則として舞台では女性の役は歌わないというルールを自分の中で設けています。例えばケルビーノ(フィガロの結婚)は女声のために書かれた男性の役なので歌うことができますが、カルメンは例え声域的に歌えたとしてもこの条件には当てはならないということになります。しかし今回のアルバムに入れた『レ・ミゼラブル』の《I Dreamed a Dream》は、例外的に女性のための歌です。バロックから現代まで400年の音楽史をカストラート、カウンターテナーを通して辿るなら、ミュージカルのナンバーをひとつは入れたかったですし、自分のルールから外れても歌いたいと思う作品だったので、女性の歌ですが、今回レコーディングしました」

アルバム『いのちのうた』は藤木の歌に寄り添う共演者の豪華な顔ぶれにも注目が集まる。ヴァイオリンの成田達輝、小林美樹、ヴィオラの川本嘉子、チェロの中木健二、ピアノの松本和将と日本を代表する演奏家が集った。そんな名手たちをまとめ、全トラックの編曲も担ったのが加藤昌則だ。前述のように『カストラート』では音楽監督を務め、ピアノ演奏も担当した加藤だが、今回はピアノを松本に任せて、アルバム全体を俯瞰する役割を担った。

「加藤昌則さんとは1枚目のアルバム『死んだ男の残したものは』でもコラボレーションさせていただいています。加藤さんは、たくさんの才能のなかに、天才的な“作曲”という核がある方です。今回のアルバムでは編曲からレコーディングまで、たくさんのディスカッションをしました。アルバムのために新たに編曲された作品は、メンバーが決まってからの編曲となったので、加藤さんがひとりひとりの個性を引き出したアレンジとなっています。例えばマーラーの冒頭では、川本さんのヴィオラの魅力が最大限に活かされています。『カストラート』の上演でも演奏してくれた成田達輝さんをはじめ、全員が私の歌を好んでくれている方たちで、チーム、ファミリーと言えるような信頼関係のなかで一緒にアルバムをつくることができたと思います。加藤さんは編曲を務めてくれただけでなく、ブックレットの執筆も担当してくれました。加藤さんにブックレットの執筆までお願いしたのは、世の中にまだないものをつくりたいという想いが強かったからです。ブックレットもありきたりな曲目解説が並んでいるものではなく、完全なオリジナルにしたかったのです。私のそうした想いは、加藤さんにも、演奏に参加してくれたメンバーにも共有されていたと思います」

アルバムの最後を飾るのは、加藤昌則作曲、声楽家の宮本益光作詞によるオリジナル作品《もしも歌がなかったら》だ。まるで藤木の人生を歌っているかのような音楽と言葉の世界が強く印象に残った。

この歌は僕自身の歌であり、作曲者の加藤さん、作詞者の宮本さんそれぞれの歌でもある、普遍性をもった作品です。アルバムの最後に置くくらい自分にとっては大切な作品で、当初はアルバムのタイトルにしようかとも考えていました。《もしも歌がなかったら》は音楽家の人生における音楽の意味を歌ったものですが、2020年の3月から秋までの半年間、世の中に本当に歌がない時期がありました。あのとき経験したことは、この作品を歌うときにも考えます

悩んだ末に藤木が選んだアルバムのタイトルは『いのちのうた〜Song of Life』であった。これは、《もしも歌がなかったら》のひとつ前に収められた村松崇継の同名曲から取られたものだ。『いのちのうた〜Song of Life』をアルバムのタイトルに決めた想いを聞いた。

「アルバムのタイトルを決めるのは本当に難しいのですが、『いのちのうた~Song of Life』にしたのには、村松さんの《いのちの歌》がアルバムの代表曲であるという以上の想いがあります。ここでいう“いのち”とは、人生という意味での“いのち Life”です。『カストラート』はひとりの男の人生の物語ですが、このアルバムは、そうした人生をひとつのテーマにしています。そこにはもちろん、人の“生き死に”の“生命”も含まれています。この2年間、私たちは命について考えました。命について考えに考えた2年間だったと思います。『いのちのうた』というタイトルは、アルバムに収められた16曲すべてにかかっているもので、人が生まれてから死んでいくまでのさまざまな物語、ドラマを表す言葉なのです

アルバム『いのちのうた〜Song of Life』に参加した音楽家たち ©hiromasa

選んでもらうために努力し続けること

アルバムが後半に差し掛かると、1曲の讃美歌がそれまでのシリアスな色調を一変させる。藤木はこの讃美歌《神ともにいまして》を、劇場やコンサートホールのすべてが閉鎖されていた2020年4月に、自宅からSNSで発信している。ミッションスクールに学んだ筆者には、卒業式に歌う讃美歌として記憶されていた《神ともにいまして》だが、今こうしてコロナ禍のなか、藤木の歌声で聴いてみると違った聴こえ方をしてくる。

「『カストラート』を制作しているなかで、たいらじょうさんからこの讃美歌を教えてもらいました。2020年3月以降、人と会うことができなくなって、この讃美歌の“また会う日まで”という言葉がとても心に響きました
このアルバムのなかで、《神ともにいまして》は、前半に置かれた西洋の作曲家の音楽と後半に置かれた日本の作曲家の音楽を繋ぐ橋のような役割を担っています。音楽は西洋のものですが、歌詞は日本語であるこの讃美歌が、アルバムのなかで洋の東西を自然に結んでくれています。《もしも歌がなかったら》をアルバムの最後に置いたこともそうですが、アルバムの曲順はかなりこだわって決めたので、ぜひシャッフルをせずに、アルバムの曲順通りに聴いて欲しいです」

2021年9月には、横浜みなとみらいホールの初代プロデューサー・イン・レジデンス(2021-2023)に就任し、藤木は歌手としての活動だけでなく、日本のクラシック音楽界全体に目を向ける立場としても、活躍の場を拡げていく。声楽と同時にアートマネージメントも学んだ藤木大地が考える、クラシック音楽界の未来に必要なこととはどんなものなのだろうか。

「このCDは3,500円ですが、3,500円あったら何ができますか? と聞くと、多くの人が映画を観る、ちょっと豪華なランチを食べると答えます。だとすると、このCDは、そうした映画や食事の体験以上のものを提供できなければ選んでもらえないわけです。映画や食事ではなくCDを買うという選択をしてもらっても、そのなかからクラシック音楽を選んでもらい、さらにこのCDを選んでもらわなくてはならない。アルバムを1枚作るのにも、たくさんの人の労力が注がれています。お金もかかります。選んでもらえる1枚になるためには、演奏のクオリティはもちろんのこと、ブックレットの質など、いろいろな部分に気を配らなくてはいけません
これはコンサートでも同じことです。クラシック音楽の入門者向けコンサートやアウトリーチ、無料コンサートで初めてクラシック音楽を聴いたお客さんは、もしそこで満足しなければ2度とクラシック音楽のコンサートには足を運んでくれないでしょう。だからこそ、絶えず演奏を磨き、質を高めて、お客さんに喜んでもらえる努力をしなければいけないのです。クラシック音楽のコンサートにお客さんが来てくれない、CDが売れない時代だ、とよく言われますが、それならば来てもらうために、売れるために努力をしなければならないのです」

たくさんの壁にぶつかりながら、夢の舞台を掴んだ藤木だからこそ、クラシック音楽界にいま必要なことが冷静に見えているのだろう。藤木大地の愛情が詰まったアルバムを手に取って、そのこだわりの全てを味わい尽くしてほしい。

『いのちのうた〜Song of Life』
1. 主よ、人の望みの喜びよ(J.S. バッハ)
2. 喜びに身を震わせて(ヴィヴァルディ:歌劇『ジュスティーノ』)
3. 怪物や魔物と戦わせてくれ(ヘンデル:歌劇『オルランド』)
4. アデライーデ(ベートーヴェン)
5. お客を招くのが趣味でね(J. シュトラウスⅡ世:オペレッタ『こうもり』)
6. アヴェ・マリア(マスカーニ)
7. ヴォカリーズ(ラフマニノフ)
8. アニュス・デイ(バーバー)
9. 私はこの世に忘れられた(マーラー:リュッケルトの詩による5 つの歌曲)
10. I Dreamed a Dream(ミュージカル『レ・ミゼラブル』)
11. 抗いようのない悲しみが(ヘンデル:歌劇『ガウラのアマディージ』)
12. 神ともにいまして(讃美歌)
13. 鷗(木下牧子)
14. 絶えることなくうたう歌(加藤昌則)
15. いのちの歌(村松崇継)
16. もしも歌がなかったら(加藤昌則)
藤木大地(カウンターテナー) 成田達輝(ヴァイオリン)小林美樹(ヴァイオリン) 川本嘉子(ヴィオラ)中木健二(チェロ)松本和将(ピアノ/ 1,8,10以外) 加藤昌則(作曲・編曲)
録音:2021年6月 キング関口台第1スタジオ
キングインターナショナル
【アルバム詳細】
https://www.kinginternational.co.jp/genre/kkc-084/

藤木大地 Daichi Fujiki
2017年、オペラの殿堂・ウィーン国立歌劇場に鮮烈にデビュー。アリベルト・ライマンがウィーン国立歌劇場のために作曲し、2010年に世界初演された『メデア』ヘロルド役での殿堂デビューは、日本人、そして東洋人のカウンターテナーとしても史上初の快挙で、現地メディアから絶賛されるとともに、音楽の都・ウィーンの聴衆からも熱狂的に迎えられただけでなく、日本国内でも大きなニュースとなる。
2012年、第31回国際ハンス・ガボア・ベルヴェデーレ声楽コンクールにてオーストリア代表として2年連続で選出され、世界大会でファイナリストとなり、ハンス・ガボア賞を受賞。同年、日本音楽コンクール声楽部門にて、歴史上初めてカウンターテナーとして第1位を受賞。
2013年、ボローニャ歌劇場の開場250周年記念として上演されたグルック『クレーリアの勝利』マンニオ役に抜擢されてヨーロッパデビュー。続いて同劇場でバッティステッリ『イタリア式離婚狂想曲』カルメロ役で出演し、国際的に高い評価を得る。国内では、主要オーケストラとの公演や各地でのリサイタルが常に絶賛され、全国からのオファーが絶えない。
2017年、ファーストアルバム「死んだ男の残したものは」(キングインターナショナル)をリリース。2018年には、村上春樹原作の映画「ハナレイ・ベイ」の主題歌を担当、同時にマーティン・カッツとの共演によるアルバム「愛のよろこびは」(ワーナーミュージック・ジャパン)を発表。2020年、東京文化会館にて企画原案・主演をつとめた新作歌劇『400歳のカストラート』が大成功をおさめた。また、新国立劇場2020/2021シーズン開幕公演 ブリテン『夏の夜の夢』にオーベロン役で主演、続けてバッハ・コレギウム・ジャパンとのヘンデル『リナルド』でもタイトルロールを演じ、その圧倒的な存在感と唯一無二の美声で聴衆を魅了、オペラ歌手としての人気を不動のものとする。
2021年、大野和士の総合プロデュースにより新国立劇場にて世界初演された渋谷慶一郎『スーパーエンジェル』(島田雅彦台本)ではアキラ役で主演。アンドロイド「オルタ3」との共演は画期的なオペラのかたちを世界へ提示した。
バロックからコンテンポラリーまで幅広いレパートリーで活動を展開し、デビューから現在まで絶えず話題の中心に存在する、日本が世界に誇る国際的なアーティストのひとりである。
洗足学園音楽大学客員教授。
横浜みなとみらいホール プロデューサー 2021-2023。
Official Website https://www.daichifujiki.com

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