ウェールズ弦楽四重奏団のベートーヴェンができるまで
サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン
リハーサル・レポート

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ウェールズ弦楽四重奏団のベートーヴェンができるまで

サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン

リハーサル・レポート

text by 本田裕暉
photo by István Kohán

毎年6月にサントリーホール ブルーローズで開催され、多くの室内楽ファンを魅了している『サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン』(以下CMG)。この室内楽の祭典の名物企画となっているのが「ベートーヴェン・サイクル」である。これは毎年ひとつの弦楽四重奏団が、1週間ほどという短期間のうちにベートーヴェンの弦楽四重奏曲を全曲演奏するという世界的にも珍しいシリーズであり、2011年のCMG初開催時のパシフィカ・クァルテット以来、これまでに11組のクァルテットが個性あふれる名演を繰り広げてきた。

この「ベートーヴェン・サイクル」に、今年は日本が誇る名クァルテット、ウェールズ弦楽四重奏団が登場する。ウェールズ弦楽四重奏団は、2006年に桐朋学園大学の学生によって結成され、2008年にARDミュンヘン国際音楽コンクールにて第3位入賞を果たした実力派クァルテットだ。創設メンバーの﨑谷直人、横溝耕一、富岡廉太郎の3人に、三原久遠が合流。バーゼル音楽院に留学し、ハーゲン・クァルテットのライナー・シュミットに学んだ。2012年に同音楽院を修了して帰国すると、以後はそれぞれのソロやオーケストラ奏者としての演奏活動と並行しながら、10年以上にわたって多彩な活躍を続けてきた。筆者も折に触れて彼らの演奏を耳にしてきたが、その純度の高い、どこまでも研ぎ澄まされた響きに接するたびに、こんなにも凄い――もっと言ってしまえば恐ろしい――アンサンブルだったかと、驚かされてしまう。「勁い(つよい)」という言葉がこれほど似合うクァルテットはほかにないだろう。

CMGの開催に先駆けて、筆者は2024年4月上旬にサントリーホールのリハーサル室で行われた「ベートーヴェン・サイクル」の練習を見学する機会を得た。以下、その模様をほんの一部分ながらご紹介しよう。

クァルテットの聖典に挑む

ベートーヴェンの音楽について考えるうえで、弦楽四重奏曲は交響曲やピアノ・ソナタとならぶ重要なジャンルのひとつである。1798年から1800年にかけて、20代後半の作曲家が満を持して書き上げたOp.18の6曲(第1番〜第6番)。《交響曲第3番「エロイカ」》初演の翌年にあたる1806年に書かれた《ラズモフスキー四重奏曲》(第7~9番)。冒頭楽章のピッツィカート(弦を指ではじく奏法)の楽句にちなんだ「ハープ」の愛称で知られる《第10番》(1809年)。作曲家が自筆譜の表紙に「クァルテット・セリオーソ(厳粛な四重奏曲)」と書き込んだ《第11番》(1810年)。そして、32曲のピアノ・ソナタも9つの交響曲もすべて書き終えた後に、最晩年の貴重な2年半ほどを費やして生み出された5つの傑作(第12~16番と「大フーガ」)。

ベートーヴェンがキャリアの幅広い期間にわたって作曲したこれら16曲の弦楽四重奏曲を聴けば、モーツァルトやハイドンが確立した伝統的な書法に始まり、それらを十分に消化・吸収したうえで独自の表現を大きく花開かせ、最終的にフーガや変奏の技法が巧みに用いられた晩年の「孤高様式」へと到る、作曲家の創作の歩みを肌で感じることができる。と同時に、基本的には単旋律楽器である4つの弦楽器(2つのヴァイオリンとヴィオラ、チェロ)による、わずか4声部しか用いることができないという厳しい制約のなかで、信じられないほどに豊かな音楽を生み出したベートーヴェンの偉大さも存分に体感できることだろう。

この音楽史上に燦然と煌めく、クァルテットの「聖典」とも言うべき16曲を短期間のうちに集中して聴ける点で、CMGの「ベートーヴェン・サイクル」は音楽ファンにとってとりわけ貴重な機会であるが、一方で、この企画は演奏者にとっては過酷な「挑戦」ともなり得る。ウェールズ弦楽四重奏団は過去にも大分のiichiko総合文化センターと東京の第一生命ホールでベートーヴェンの全曲演奏ツィクルスを行ない、また2017年からはフォンテック・レーベルにて全曲録音にも取り組んでいるが、これほどまでに短い期間で16曲を演奏するのは今回が初めてだという。その難しさについて、ヴィオラの横溝は「やはり体力的な難しさがありますね。身体だけではなくて、脳みその体力という面も含めて」と語ってくれた。

とはいえ、既に2度のツィクルスを成功させているウェールズ弦楽四重奏団である。全曲はレパートリーとして手の内に入っており、今回のリハーサルも、音楽を新たに作り上げるというよりも、精妙なガラス細工のように緻密に作り込まれた「ウェールズのベートーヴェン」にさらなる磨きをかけていく、といった趣であった。

筆者は2日間、それぞれ4時間のリハーサルを見学したのだが、とりわけ印象的だったのは変ロ長調の2曲、《弦楽四重奏曲第6番》Op.18-6と《第13番》Op.130「大フーガ付」を扱った1日目だ。録音がまだ出ていない両曲ということもあり、一体どんな音色で鳴り響くだろうと楽しみにしていたのだが、さっそく純度の高い、思わず息をのむような演奏が繰り広げられた。

真摯なアプローチで陰翳を浮き彫りに

リハーサルは《第6番》の第1楽章から始まった。とりわけ強烈だったのは、行進曲風の第2主題部だ。冒頭から続いた朗らかな響きが、この第2主題部に入ると突如変貌を遂げた。ひたすらに繊細な、ピアニッシモの世界。それまで気にもとめていなかった空調装置の音が、急にはっきりと聞こえてくるほどの静寂。しかし、弱奏であっても、そこで鳴り響いている音は勁い。ウェールズの4人の音は当初から均整の取れた、よく融けた響きだったのだが(少なくとも筆者にはそう聞こえた)、彼らはこの第2主題部を幾度か繰り返して練習し、細部のニュアンスにさらなる彫琢を施していった。

そしてこの第2主題部は、楽章後半の再現部で登場する際にいっそう凄みを増し、シューベルト晩年の作品を髣髴とさせる、どこか恐ろしい翳りを帯びた響きに転じた。作曲家の師、ハイドンの作品にも通じる古典的な響きを基調としたOp.18-6ではあるが、そこには一筋縄ではいかない「闇」も潜んでいて――そうした作品のもつ陰翳を、4人は繊細な筆致で自在に描き出していく。この第2主題部を聴いて、ここまで「怖い」と感じたのは初めてだった。

続いて、なんともやわらかい響きで始まった第2楽章。穏やかな調べを夢見心地に聴いていると、中間部でふたたび「闇」が忍び寄ってくる。ここで誤解を招かぬよう書いておかねばならないのは、ウェールズはなにもわざとらしく「闇を描こう」とはしていない点だ。楽譜に記された音を精確に、和声の移ろいをよく感じながら、透徹したピアニッシモで奏でる。その結果として、そうしたぞくりとするような響きがごく自然に立ち上ってくるのであり、柔和な主部と不気味な中間部との対比が鮮烈に打ち出されるのである。作品それ自体に語らせる、なんとも真摯なアプローチだ。

3拍目にsf(スフォルツァンド、特に強くの意)が置かれた個性的な主題が登場する第3楽章では、ゆったりとしたテンポで丹念にアンサンブルの縦のラインをチェック。そして第4楽章は先に主部を確認し、一旦休憩を挟んでから「ラ・マリンコニア(=憂鬱)」と記された深遠な序奏へ。わずか数メートルという至近距離で聴いてもまったく硬さを感じさせない、シルクのような手触りの響きに驚かされた。

この第4楽章序奏では、まずは両ヴァイオリンに交互に登場する前打音の扱いについての確認が行われたが、加えて富岡の指摘を踏まえて、冒頭から度々現れる同音連打を「ターン、タンタン」と弾くのではなく「ターー、ターター」と間をあけすぎずに持続する弾き方に統一していた点も興味深かった。これによって、冒頭部分に得も言われぬ緊張感がもたらされ、その後の強弱のコントラストに富んだセクションに自然につながっていくようになった。一見些細な変更にも思えるが、こうした小さな積み重ねがあってこそ、ウェールズ一流の堅固な響きが実現されているのだろう。

対話を重ねてステージへ

2度目の休憩を挟み、リハーサルは《第13番》へ。第1楽章冒頭から始まり、第2、4、3楽章と進んで、この日の練習は美しい「カヴァティーナ」の第5楽章で締めくくられた。さながら弦楽合奏のような芳醇な響きがリハーサル室にいた全員を包み込む。調和のとれた節度ある歌い口は心地よく、穏やかな歩みのなかで﨑谷がノーブルに歌う中間部の凛とした美しさも忘れがたいものだった。

無論、この第5楽章もただ通して終わるのではなく、音量指示が細かく書き込まれている箇所についての意思統一を行なうなど、曖昧なところがあればきっちりと詰めていく。例えば、この楽章の第15~17小節の部分。楽譜には、第15小節に「p cresc. >」、第16小節に「cresc. >」、そして第17小節に「p」との指示が書き込まれている(「>」はデクレシェンド記号、松葉とも)。こうした一見分かりづらい部分では、必要に応じて立ち止まり、意見を交換して迷いをなくしていくのである。ここでは、横溝の言うところの「全体としては文字で書かれたクレシェンド(cresc.)のなかに、松葉のデクレシェンドがある」という解釈に着地していた。

4人のメンバーそれぞれが「弾き手」であると同時によき「聴き手」でもあり、互いに気になる点を伝え合い、アイディアを持ち寄って解決を目指す。ときには試行錯誤を重ねつつ、リスクとリターンのバランスを十分に検討しながら、最適の解決策を選び抜く。その過程で少しずつ、しかし着実に「ウェールズのベートーヴェン」が磨かれていく。こうした徹底的な下準備があるからこそ、彼らの音楽は熱気に満ちた本番の舞台でも決して揺らがず、青い炎のように強く光り輝くことができるのだろう。

そう、忘れてはならないのは、今回筆者が立ち会ったのはあくまでもリハーサルであり、本番ではないということだ。2日目に4人は《第13番》の第3楽章を頭からゆっくりとさらった後、﨑谷の発案を受けてテンポを本番に近づけて練習していたのだが、このときには既に、それまで聴いていたものとは一味も二味も違う、いっそう雄弁な音楽が聞こえてきた。はたして、6月に彼らはどんな調べを聴かせてくれるだろうか。ウェールズ弦楽四重奏団がかたちづくる唯一無二のベートーヴェンを思う存分堪能できる日が、今から楽しみでならない。

左から﨑谷直人、三原久遠、横溝耕一、富岡廉太郎

公演情報

サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン(CMG)
会場:サントリーホール ブルーローズ(小ホール)
https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/feature/chamber2024/

ウェールズ弦楽四重奏団 ベートーヴェン・サイクル

ウェールズ弦楽四重奏団
ヴァイオリン:﨑谷直人/三原久遠
ヴィオラ:横溝耕一
チェロ:富岡廉太郎

ベートーヴェン・サイクル I
2024年6月8日(土)18:00開演(17:30開場)
弦楽四重奏曲第2番 ト長調 作品18-2
弦楽四重奏曲第5番 イ長調 作品18-5
弦楽四重奏曲第12番 変ホ長調 作品127

ベートーヴェン・サイクル II
2024
69日(日)17:00開演(16:30開場)

弦楽四重奏曲第9番 ハ長調 作品59-3「ラズモフスキー第3番」
弦楽四重奏曲第15番 イ短調 作品132

ベートーヴェン・サイクル III
2024年6月11日(火)19:00開演(18:30開場)
弦楽四重奏曲第4番 ハ短調 作品18-4
弦楽四重奏曲第10番 変ホ長調 作品74「ハープ」
弦楽四重奏曲第7番 ヘ長調 作品59-1「ラズモフスキー第1番」

ベートーヴェン・サイクル IV
2024
612日(水)19:00開演(18:30開場)

弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 作品18-6
弦楽四重奏曲第13番 変ロ長調 作品130「大フーガ付」

ベートーヴェン・サイクル V
2024年6月13日(木)19:00開演(18:30開場)
弦楽四重奏曲第1番 ヘ長調 作品18-1
弦楽四重奏曲第11番 ヘ短調 作品95「セリオーソ」
弦楽四重奏曲第14番 嬰ハ短調 作品131

ベートーヴェン・サイクル VI
2024年6月15日(土)18:00開演(17:30開場)
弦楽四重奏曲第3番 ニ長調 作品18-3
弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 作品135
弦楽四重奏曲第8番 ホ短調 作品59-2「ラズモフスキー第2番」

料金(6公演とも):指定席4,500円 サイドビュー席3,000円 U25席1,000円

公演詳細:https://www.suntory.co.jp/suntoryhall/article/detail/001344.html

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