<Review>
ワーグナーの楽劇は現代と同期し得るか
新国立劇場でめくられた《ニュルンベルクのマイスタージンガー》上演の新たな1ページ
text by 八木宏之
cover photo 撮影:堀田力丸/提供:新国立劇場
多くの困難を乗り越えて
新国立劇場でワーグナーの楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》が上演され(11月18日から12月3日まで全5公演)、私は11月15日のゲネプロを鑑賞した。この《マイスタージンガー》のプロダクションが数々の困難を乗り越えてついに上演の日を迎え、無事に全日程を終えることができたことに、まずは心からの祝意を示したい。芸術を力強く鼓舞するこの楽劇は、新型コロナウイルスによって危機に瀕した私たちの文化生活に一筋の光を差し込んでくれた。《マイスタージンガー》のあらすじや登場人物については新国立劇場の公演ページの「ものがたり」に簡潔でわかりやすい解説が掲載されているので、気になる方はまずそちらをご参照いただきたい。
ザルツブルク・イースター音楽祭、ザクセン州立歌劇場、東京文化会館、新国立劇場の国際共同制作であるこのプロダクションは、「オペラ夏の祭典2019-20 Japan↔Tokyo↔World」の企画として、東京オリンピックへの期待が高まる祝祭的な雰囲気のなか、2020年6月から7月にかけて上演が予定されていた。しかし、それらは新型コロナウイルスの世界的流行によって中止となり、2021年8月に東京文化会館で、新国立劇場では2021年11月から12月に改めて延期上演されることになった。東京文化会館での延期公演は長引く新型コロナウイルスの影響で残念ながら中止となったが、2021年11月18日にようやく新国立劇場で初日を迎えることができたのだった。
大野和士と東京都交響楽団による第1幕への前奏曲には、この上演に込められた数多の人々の想いが溢れ出ているようだった。この上演の主役と言っても過言ではない東京都交響楽団の演奏は豊かな立体感があり、金管楽器の細かなパッセージのひとつひとつに至るまで、強い意志が感じられた。普段はコンサートホールを活動の場とするオーケストラ、それも東京都交響楽団のようなパワフルで輝かしいサウンドを持つオーケストラがピットに入る場合、舞台上の歌い手たちがオーケストラに埋もれてしまうということもしばしば起こるが、東京都交響楽団は歌手の前に立ちはだかる壁とはならずに、歌手たちを大きく包み込んでいた。そうした巧みなバランスは、オペラ指揮者大野和士の真骨頂だろう。歌手たちもハンス・ザックスのトーマス・ヨハネス・マイヤーやヴァルターのシュテファン・フィンケを筆頭に、力強い声の持ち主ばかりで、ワーグナーの音楽を聴いているという幸福感を存分に満たしてくれる。今回特に印象的だったのは、ベックメッサーのアドリアン・エレートとダーヴィットの伊藤達人のふたりだ。この両者が音楽的にも、演劇的にも、この上演に厚みをもたらしていたのは間違いない。とりわけ、伊藤達人は急な役柄変更であったにもかかわらず、圧倒的な存在感を示していた。これまで《マイスタージンガー》を観るときに、ダーヴィットに注目したことはあまりなかったが、伊藤の熱演に触れて、この作品におけるダーヴィッドの重要性を理解することができただけでなく、第3幕に至るころには、ダーヴィットのファンになってしまうほどだった。
現代人の目で観たワーグナーの世界
さて、この《マイスタージンガー》、上記のように大満足の上演だったが、考えさせられることもあった。ワーグナーの作品のなかでも特に《マイスタージンガー》が好きな私は、この上演の魅力について、周囲の音楽愛好家の友人たちと熱心に話をした。そのなかで、《マイスタージンガー》の舞台上演に今回初めて接したという人たちから、その内容に「ショック」を受けた、という声を聞いたのだ。ショックというのは、この作品の長く議論されてきたドイツ・ナショナリズムのことでも、反ユダヤ主義のことでもない。ある人は、この作品におけるエーファの扱い、すなわち男性たちが女性をモノのように扱うことが耐え難いと言い、またある人はこのオペラにおけるベックメッサーの境遇はいじめ以外の何物でもなく、ザックスも周囲の人々も、ベックメッサーに対してあまりに残酷であると言った。それらを聞いて、私ははっとした。ワーグナーの作品はおおよそ150年前の芸術作品であり、それは現代のモラルとは切り離されたものであると当たり前のように受け入れていた自分に気付いたのだ。
私が《マイスタージンガー》で1番好きな場面のひとつは、第2幕の幕切れの大乱闘である。声とオーケストラが渾然一体となって、カオスであるのに美しい瞬間を作り出すあのクライマックスも、起きていることはリンチであると捉えるならば、それを美しいと感じるのは適切ではないだろう。ベックメッサーはこのオペラの中で、常にコミュニティの嫌われ者として描かれている。しかしそれはベックメッサー自身に非があるものなのだろうか。
私は頭を抱えてしまった。これまで私は《マイスタージンガー》の上演に触れながら、しかも聖地バイロイトにまで出かけてこの楽劇を観ていながら、そうしたドラマの持つ問題に目を背けて、外国語であるドイツ語で歌われるが故に、音楽だけを楽しんでいたのかもしれない。今回の上演でも、そこでエーファやベックメッサーがどんな理不尽な目にあっているのかなど、私はちっとも考えていなかった。
その一方で、今回初めて《マイスタージンガー》に触れたある人は、ワーグナーのオーケストレーションとライトモティーフのもたらす効果に圧倒され、これからワーグナーをたくさん聴くのだ! と興奮していた。ワーグナーの音楽の持つ力が、今日においても全く魅力を失っていないのは事実である。では、音楽は素晴らしいが、内容は今日のモラルにそぐわないのでテキストを変えます、カットします、などということはあり得るかといえば、それは不可能だ。オペラを含むクラシック音楽の世界ではオリジナルに手を加えるなどありえないし、決してあってはならないことである。作曲家の残した楽譜や台本は最大限尊重されなければならない。
今日のオペラ上演で演出が果たす役割
ワーグナーの作品は古典であるから、今日のモラルとは分けて考えるということもあり得るだろう。しばしば小説に添えられている、「今日においては不適切な表現が含まれますが、オリジナルを尊重して原文のママとしています」という注意書きと同じ考え方である。もちろんそれもひとつの答えであるし、これまで私もそうした立場であった。しかし、それでは少しずつ、ゆっくりと時間をかけて、オペラは同時代性を失ってしまうのではないだろうか。
そこで重要となってくるのが演出家の存在である。今回の《マイスタージンガー》の上演を観て、私はようやく演出が今日のオペラに果たす役割に気がついた。舞台を中世のニュルンベルクから現代のオペラハウスに移したイェンス=ダニエル・ヘルツォークの演出には、一見ショッキングな要素は見当たらないが、ラストにはマイスターたちがヴァルターへ贈った絵をエーファが破り捨てるという強烈なシーンが用意されていた。これには賛否両論が巻き起こった。エーファの行動はもちろん作曲家自身の指示ではない。ワーグナーのテキストでは、ヴァルターはマイスターの世界を拒否するが、エーファには最後まで何の選択肢も与えられない。歌合戦の優勝者との結婚を拒否できるが、その場合は優勝者以外の誰とも結婚できないというのは、選択肢とは言えないだろう。ヘルツォークは、ワーグナーの台本の中では永遠に無力であり続けるエーファに、絵を破かせ、マイスターたちを拒絶するという行動を取らせることによって、音楽にも、テキストにも手を加えることなく、演出によって新しい人格を与えたのだ。この演出により、《マイスタージンガー》は私たちが生きる今日と同期することができたと言える。ベックメッサーについても、エーファほど明確ではないにせよ、ただの笑い者ではなく、ひとりの尊厳ある人物として新しい命を吹き込まれていたように思う。歌合戦で大恥をかかされた後のベックメッサーの立ち居振る舞いには、この人物の誇りが感じられた。それはヘルツォークの演出によるものだけでなく、エレートのこの役に対する深い読み込みが生んだ、新しいベックメッサーの姿だろう。
オペラハウスという場をどう見るかは人それぞれであるが、オペラハウスには今を生きる人々が集う、生きた場所であって欲しい。そこに集うのは、紛れもなく2021年の私たちであり、劇場の外の社会では、エーファに対する男尊女卑も、ベックメッサーに対するイジメも、断固拒絶している私たちなのだ。ここで考えたことは《マイスタージンガー》に限ったことではなく、ほかの多くのオペラ作品に起こり得る問題であろう。そこに同時代性をもたらして、新しい命を吹き込むのがオペラ演出の役割である。演出は、今日もなお過去の偉大な作品が上演され続けるために必要不可欠な要素、作品をアップデートし続ける機能であるのだ。このプロダクションは、そのひとつの成功例である。
【“オペラ夏の祭典2019-20 Japan↔Tokyo↔World” Webサイト】
https://opera-festival.com
【新国立劇場の次なるワーグナー上演は《さまよえるオランダ人》 詳細はこちらから】
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/derfliegendehollander/