<Cross Review>
パトリツィア・コパチンスカヤ
シェーンベルク:月に憑かれたピエロ
シェーンベルク:月に憑かれたピエロ 作品21
J.シュトラウスII世(シェーンベルク編):皇帝円舞曲 作品437
シェーンベルク:ヴァイオリンとピアノのための幻想曲 作品47
ヴェーベルン:ヴァイオリンとピアノのための4つの小品 作品7
クライスラー:ウィーン小行進曲
シェーンベルク:6つの小さなピアノ曲 作品19パトリツィア・コパチンスカヤ(シュプレヒゲザング、ヴァイオリン)
ミーサン・ホン(ヴァイオリン、ヴィオラ)
ジュリア・ガレゴ(フルート)、レト・ビエリ(クラリネット)
マルコ・ミレンコヴィチ(ヴィオラ)、トーマス・カウフマン(チェロ)
ヨーナス・アホネン(ピアノ)録音:2019年12月 チューリヒ放送スタジオ、スイス
ナクソス・ジャパン株式会社
いたいけな少年ピエロの姿
小阪亜矢子
どの程度「歌い」、どの程度「語る」のか。《月に憑かれたピエロ》の語りのパートはシュプレヒシュティンメと呼ばれ、楽譜に音程の目安と明確なリズムが書かれている。しかし大抵の上演や録音では、表現は声楽か朗読かどちらかに寄っている。語り手が声楽家であれば歌の成分が強く出ることが多いし、俳優の場合は語りの自然さが優先されることが多い。では器楽奏者が語る本盤ではどうだろうか。
囁くように語り始めるコパチンスカヤの声は良く言えば軽やかでかわいらしく、悪く言えば子供っぽい。声楽家や俳優の鍛えられた声とは異なる。浮かび上がるのはいたいけな少年ピエロの姿で、グロテスクさや官能性は薄い。曲によってはコミカルで、古いアニメ映画のアフレコのようですらある。
一方で語り口はとても技巧的だ。見事な器楽アンサンブルとは寸分のずれもなく、また、よく聴くとシェーンベルクの指示通り書かれた音程をかすめつつ、時に大きな逸脱も見せる。ドイツ語の語感もわかりやすく、テクストに「引っかく」とあれば文字通り引っかき傷のような声を出し、「ぬぐう」(Wischt)とあればシュの子音を効果音にして服をこする音を表す。またあちこちで器楽に寄り添うように声色を変えており、ヴァイオリンの超高音を先回りして模倣するようなロングトーンや、器楽のトレモロに似せたような雑音を混ぜた声を聞かせる。表現は非常に具体的だ。さらに、速い曲のテンポが恐ろしく速い。「絞首台の歌」(track[12])などは世界最速ではないだろうか。こうなると「声楽的」とも「朗読的」とも言い難く、ほとんど器楽の超絶技巧である。
未成熟な声による超絶技巧で「青白い月」「十字架」「血」など耽美な言葉が語られると、子供特有の残忍さや万能感のようなものが見えて興味深い。21曲を聴き通すと低音域の声質などの点で物足りなさが残るが、本盤はそこで終わらない。すかさずヴァイオリニスト=コパチンスカヤの自由で成熟した演奏が始まる。先ほどまでの語りの幼さが強調されつつ、聴き手の耳は安心し、想像が膨らむ。アルバム全体で「器楽的」というベクトルに振れた、仕掛けの多い《ピエロ》だと感じた。
等身大の歌い方がポップ
坂入健司郎
私は、音楽に取り組むにあたって、自分の心に「素直」であり続けたい。自分にとって「普通」の感覚まで落とし込んで表現し続けたい。そしてなによりも、取り組む作曲家と、一緒に演奏する仲間たちを愛し続けたい――どうして、こんなビジョンを吐露したくなった(正直、恥ずかしい)かというと、コパチンスカヤが歌った《月に憑かれたピエロ》がこうしたビジョンのお手本のような演奏で、あまりにも素晴らしかったから。正直な気持ちを言うならば、皆様にはこの文章を読むのを一旦やめて、直ちにSpotifyかApple Musicなどを開いて聴いて頂きたい。このレビューを読んだ方は必ず聴かないと損です。この素晴らしさを言葉で伝えることすら躊躇われます。
シェーンベルクが作曲した《月に憑かれたピエロ》はシュプレヒシュティンメと呼ばれる「歌唱」と「語り」を両立した表現をソプラノ歌手に求める極めて特異な曲であるが、そのシュプレヒシュティンメをヴァイオリニストである(!)パトリツィア・コパチンスカヤが歌ったという衝撃の録音。シュプレヒシュティンメの楽譜にはかなり緻密に音程の指示が書かれてあり、譜面通りの正確な音程で歌えばマーラーからベルクにつながる爛熟したウィーン音楽の世界を堪能できるし、語りの部分を重視すれば狂気の音楽へ様変わりする不思議な音楽であるが、コパチンスカヤは室内楽の音程の大切さを熟知し、譜面通りの音程を尊重したうえで語っているので、極めて理知的な解釈である。そのうえ、オペラを歌うような歌手ではないので等身大の歌い方が実にポップで、彼女にとって普通の感覚に落とし込んだピエロ像をありのまま素直に伝えている様子が痛快。この作品の演奏で陥りがちなあざとく奇怪さを強調する恣意的な表現が皆無なのだ。
本CDのブックレットには《月に憑かれたピエロ》をドイツ語に翻訳したオットー・フォン・ハルトレーベンの死についてもエピソードが記載されている。彼は遺書に「自分が死んだら頭部を切り、体は火葬し、共にドイツに移送するように」と書かれていたため、彼の友人が亡くなった彼の頭部を新聞紙にくるみ、レストランに持って入り、大騒動の果てに、彼の頭蓋骨がテーブルの下に転がり、酔っ払いたちを訳知り顔でニヤリと笑って見回すというようなことが実際に起こったそうだ。ハルトレーベンもまた、死してなお「普通」の感覚で《ピエロ》の世界を生きていたわけだ。
この録音の欠点を探すことは極めて難しいが、もし挙げるとしたら、コパチンスカヤが歌唱も指揮も務めてしまったがゆえに、シェーンベルクが数秘術に基づき明確に指定している7人の演奏者を6人でレコーディングしてしまったことかもしれない。ただし、この矛盾はコパチンスカヤも認識しており、ベルリン・フィルのメンバーとの実演ではヴァイオリン奏者がヴィオラに持ち替える部分を専任のヴィオラ奏者に演奏させてキッチリ7人で演奏しており、ライヴ演奏では作曲家の指示へ敬意を払っている。きっと奏者の姿が見えないレコーディングならば、天国のシェーンベルクも許してくれているだろう。とにかく、《月に憑かれたピエロ》の新たなスタンダードともいえる名盤が登場したことを心から喜びたい。無論、カップリングのウィーン音楽も絶品です。
熟れきったヨーロッパの甘い腐臭
八木宏之
パトリツィア・コパチンスカヤがシェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》の新録音を出したと聞いて、私の頭には「??」が浮かんだ。彼女がヴァイオリンを担当したのかな? それとも指揮? 弾き振り? そのどれもが不正解だった。この録音で彼女はシュプレヒシュティンメ(語る声の意、シュプレヒゲザング[語る歌]とも言う)を担当しているのだ。コパチンスカヤについてよく知らないという方のために説明すると、彼女はヴァイオリニストである。前回のクロスレビューに登場したクルレンツィスと刺激的で目の醒めるようなチャイコフスキーを聴かせたり、ベルリン・フィルとシェーンベルクやリゲティ、エトヴェシュのヴァイオリン協奏曲で共演して大喝采を浴びたり、今最も注目されるヴァイオリニストだ。しかしこの《月に憑かれたピエロ》で、彼女は歌い、語る。極めて専業化された現代のクラシック音楽界でこういうことはまずない。最近ではソプラノ歌手のバーバラ・ハンニガンが歌いながら指揮をして新たな地平を切り開いているけれど、今回のコパチンスカヤの試みはそれ以上にインパクトのあるものなのだ。
それで、その演奏はどうか。それがもう素晴らしい。ヴァイオリニストがシュプレヒシュティンメを担当しているとか、そんなことは瞬時にどうでも良くなる。シェーンベルクが1912年に作曲した《月に憑かれたピエロ》は20世紀音楽のひとつのテーゼと言える作品であるが、この傑作に新たな名盤が登場したことを何より喜びたい。このコパチンスカヤ盤の魅力は、第一次世界大戦直前の熟れきったヨーロッパの甘い腐臭をたっぷりと包み込んでいることだ。前述のように《月に憑かれたピエロ》は20世紀音楽の源流のひとつであり、これまではその音楽史的な革新性を際立たせた演奏が主流であったように思う。作曲家として《月に憑かれたピエロ》に強い影響を受けて《ル・マルトー・サン・メートル》を書いたピエール・ブーレーズの演奏はその代表だろう。一方でコパチンスカヤは、この作品が持つ、ハプスブルク文化の最期の姿としての側面を大切にしている。《月に憑かれたピエロ》が作曲された2年後の1914年に第一次世界大戦が勃発、無数の命とともに帝国は滅び去るのだ。
このアルバムでは《月に憑かれたピエロ》のあとにシェーンベルク編曲によるヨハン・シュトラウス2世の《皇帝円舞曲》が収録されているのだが(ここではコパチンスカヤはヴァイオリンを弾いている)、このワルツからこれほどまでに死の影を感じたことはなかった。ここにはもはや皇帝も帝国もなく、ただ亡霊たちが踊っているようだ。ヨハン・シュトラウス2世は1889年、オーストリアとプロイセンの親善を祝してこのワルツを作曲したが、同盟国プロイセンもまたオーストリア帝国とともに第一次世界大戦によって消滅する。1925年にシェーンベルクがこのワルツを編曲した時にはもう、ふたつの帝国はどちらも地図になかった。
このアルバムでコパチンスカヤが聴かせてくれる頽廃は100年前に書かれた楽譜から紡ぎ出されたものだけれど、私たちはいまこの音楽が書かれた世界とそう遠くないところにいるのでは? と思えて、得体の知れない恐怖がこみ上げてきた。このアルバム聴いてそんなことを考えるのは私だけだろうか。