マダム・ピリンスカとショパンの秘密

<Review>
『マダム・ピリンスカとショパンの秘密』

『マダム・ピリンスカとショパンの秘密』
エリック=エマニュエル・シュミット 著
船越清佳 訳
音楽之友社 2021年

text by 八木宏之

ショパンが苦手な人にこそ読んでほしい、人生のレッスン

私はショパンの音楽の素晴らしさを知るのにとても時間がかかった。14歳でクラシック音楽の世界にのめり込んだが、ショパンは長い間とても苦手だった。ピアノが弾けない私には、感傷的で甘ったるい音楽にしか思えなかったのだ。そんな私がショパンの魅力に気づいたのは愛知県立芸大の大学院に入ってからだった。毎週、奏楽堂で行われる学内演奏会へ行ってピアノ科の学生が弾くショパンを聴き続けた。最初は、なぜみんなショパンばかり弾くのかと閉口した。ベートーヴェン、シューベルト、ドビュッシーを弾く学生はとても少なく、とにかくショパンばかり弾くのだ。そうして毎週、毎週、さまざまな学生のショパンを聴き続けているうちに、ショパンの音楽が、弾く人を鏡のように写していることを発見した。テクニカルなもの、上手い下手ではなく、弾き手の精神、理想、苦悩を冷徹なまでに写す磨き抜かれた鏡、それがショパンの音楽だった。それ以来、私はショパンの音楽に惹きこまれていった。

なんの話をしているのかというと、『マダム・ピリンスカとショパンの秘密』である。現代フランスを代表する劇作家でピアノ愛好家のエリック=エマニュエル・シュミットが書いたこの自伝的小説を、フランスを中心に活動するピアニスト、音楽ジャーナリストの船越清佳氏が翻訳したものがこのたび出版された。この小説はシュミット自身をモデルにした主人公が亡命ポーランド人のピアノ教師、マダム・ピリンスカから受けるショパンの音楽のレッスンが物語の中心を成している。ただ、そこにはテクニックについての手解きやヒントは全くない。それどころか、マダム・ピリンスカのレッスンではほとんどピアノにすら触らない。そのかわりに、マダム・ピリンスカは不可思議ではあるけれども実に本質的な課題を主人公に次々と課していく。

露を落とさずに花を摘む練習や静寂を聞く練習、種を池に投げ込んで水面に波紋を描く練習など、一見ピアノや音楽とは関係がなさそうな課題の数々を通して、ショパンを弾くとはどういうことなのか、音楽を奏でるとはどういうことなのか、マダム・ピリンスカは実にユニークな方法で説いていく。私はマダム・ピリンスカのレッスンを読み進めながら、大学院時代に聴いた無数のショパンを思い出した。私に「ショパンの秘密」を教えてくれたのは、世界的な巨匠の超越的な名演ではなく、学友たちの率直で赤裸々なバラードやスケルツォだった。彼らの全身全霊の演奏を通して、ショパンを弾くとは、どう生きるのか、ということなのだと漸く気づくことができた。

この小説は、もちろんピアノを弾く人、学ぶ人にも読んで欲しいのだけど、ピアノを弾かない人、そしてかつての私のようにショパンの音楽が苦手な人にもぜひ読んでもらいたい。そして主人公とともにマダム・ピリンスカのレッスンを受けて欲しいと思う。きっと自分のなかのショパンの音楽に対する小さな何かが変わるはずだ。そしてそれはきっと、とても素敵な変化に違いない。

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