コハーン・イシュトヴァーン
クラリネットの求道者 【後編】

<Artist Interview>
コハーン・イシュトヴァーン

クラリネットの求道者 【後編】

text by 八木宏之
cover photo by Lakeshore Music

23歳でハンガリーから来日し、東京音楽コンクールや日本音楽コンクールなどで次々と優勝、クラリネットのソリストとしていま大きな注目を集めるコハーン・イシュトヴァーン。コハーンは同時に作曲家、写真家、映像作家、そして教育者としても幅広く活躍する。コハーンの演奏会ではただクラリネットの作品が演奏されるだけでなく、彼が直接聴き手に語りかけ、時には全員で瞑想の時間を持つことすらある。レパートリーもクラリネットに限らず、自作自演からバッハ、ブラームスのヴァイオリン作品まで実に幅広い。そこに予定調和というものは皆無である。
東京池袋の自由学園明日館で行われたコハーンのリサイタルを聴いた私は、その演奏に圧倒されただけでなく、彼が創り出した2時間の特別な体験に深い感銘をうけた。帰り道も、また翌日も翌々日も、コハーンと共有した自由学園での時間と空間が私の頭から離れなかった。コハーンとは何者なんだろう?この芸術家はどんなことを考えているんだろう?私は気になって仕方がなかった。

インタビューの後編ではいよいよ、彼の芸術活動の根底にある思想について深く掘り下げていく。コハーンは慎重に言葉を選びながら、自らの信じる道についてゆっくりと語ってくれた。

 

広がり続けるフィールド

――コハーンさんのコンサートでは、クラリネット以外のレパートリーも積極的に演奏されていることが強く印象に残りました。バッハやブラームスのヴァイオリン作品などにも挑戦されるのはなぜなのでしょう?

もちろんクラリネットのために書かれた作品は大好きだし、素晴らしい作品もたくさんあります。でもヴァイオリンやピアノと比べたらとても少ないのは事実です。もし他の楽器に素晴らしい作品があるのなら、それも演奏したいのです。バッハはクラリネットの作品を書いていないけれど、その音楽を歌いたいと思ったら僕はどんな楽器のレパートリーでもクラリネットでチャレンジします。ブラームスのヴァイオリン・ソナタもヴァイオリンで演奏するのとクラリネットで演奏するのとでは全然違うものになるし、クラリネットで演奏するから出せる歌心があると思っています。

――コハーンさんは音楽家であるだけでなく、プロフェッショナルの写真家や映像作家でもありますね。写真や映像制作にも熱心に取り組まれるのはなぜですか?

写真も映像制作も、自分のカッコいいアーティスト写真が撮りたかったり、カッコいい演奏映像をYouTubeにアップしたりしたかったという実際的な理由で始めました。特に映像制作に夢中になったのは、ある出来事がきっかけです。まだ自分のYouTubeの動画がバッハの演奏映像ひとつしかなかった頃、ある国際コンクールで韓国人のクラリネット奏者に「あなたがコハーンですね!あなたの大ファンです!」と話しかけられたんです。僕は困惑しました。自分は無名のクラリネット奏者なのに、この人は何を言っているんだろう、って。でも話してみたら、自分がYouTubeにアップしたたった1本のバッハの映像を見て感動してくれたことがわかった。その時に、映像の持つ本当の力を感じたんです。それまでも映像の重要性はわかっていたつもりだったけど、どれくらい重要なのかはわかっていなかった。
それ以来どうやったら魅力的なミュージック・ビデオが作れるのか研究し続けています。田原綾子さんの《さくら》のビデオはRising Star Seriesのひとつだけど、このシリーズは自分が感じた映像の力と自分が蓄積した制作技術を他の同世代の演奏家たちと共有したくて始めたものです。その制作を通して試行錯誤して、さらに技術を磨くことができたし、これからも続けていきたいと思っています。

 

photo by Lakeshore Music

ポジションではなくクオリティ
〜クラリネットはツールであって目的ではない〜

――もうひとつ、コハーンさんの演奏会でいつも印象的なことは、コハーンさんが自分の言葉でお客さんに直接語りかけることです。どうして演奏の間に語りかけるのですか?

お客さんに語りかけるのは、音楽家の責任だと思います。ただ演奏だけするのと、なぜその音楽を演奏するのかを語りかけてから演奏するのと、お客さんのインプットが違うと思うんです。聴きに来てくれたお客さんを見ていると、多かれ少なかれみんな心に問題を抱えているように感じます。僕はみんなに音楽を教えたいわけじゃない。ただ、演奏会を通してみんなが抱えている心の問題をときほぐして欲しいと考えています。今の時代は、幼い時から勉強して、競争して、プレッシャーを感じて生きています。溢れる情報の中で、欲しくないものを欲しいと思わされて、それを手にするように仕向けられて、急き立てられています。これはヨーロッパにもある問題だけど、日本ではより顕著だと思います。

――コハーンさんのリサイタルで、お客さんと一緒に全員で目を閉じて瞑想の時間を持ったのは、そうした考えがあってのことなのですね。

目を閉じて心を静かにすることで、音楽を聴く状態を作り出すことはとても大切だと思います。現代の生活の中で、私たちはひとつのことに集中して取り組む時間を持つことがとても難しくなっています。食べている時も100%味わってはいない、なにか他のことに気をとられたりしています。音楽を聴く時も同じです。食べているようで100%食べていない、聴いているようで100%聴いていない

――確かにストレスやプレッシャーの多い生活の中で、演奏会へ出かけても、演奏会に行ったということ、誰の演奏する、誰の作品を聴いたという事実だけを通過してしまっていることがあるのかもしれません。

以前に地方でレッスンをした時にこんなことがありました。レッスンをしているとその生徒の抱えている問題はクラリネットではなくて、精神的なものだとわかってきた。そこで持っていた大好物のうなぎパイを彼女に差し出して、心を鎮めて、味や食感に集中して、甘い、ちょっとしょっぱい、サクサク、カリカリ、そういううなぎパイのテクスチュアに100%集中して食べるように言いました。彼女はそうして心から集中してうなぎパイを食べて、それから泣き出してしまいました。彼女はうなぎパイに100%向き合って食べることで、心の問題に気づくことができた。こうした問題は、彼女だけじゃなくて、みんなが抱えていることだと思います。僕の演奏会でみんな一緒に瞑想して、音楽を聴いて、それでそこにいる全員に変化があるとは思いません。でもその中でひとりでも、ふたりでも、心に良い変化を感じてくれたら、それは意味があることだと思います。

――いまコハーンさんがひとりの音楽家、芸術家として思い描く未来や実現したいことはどんなものでしょうか?

演奏家としても、教師としても、どういうポジションに到達したいということでなく、自分自身がどういうクオリティに到達したいかということをずっと大切にしたいと思っています。言葉で説明するのはすごく難しいけれど、自分を媒介にして自分の周りにいる人が安心するような、relieve(やわらげる、開放する)する存在になりたいんです。それは宗教を開きたいとかそういうことでは全然ないんですよ(笑)。たしかに自分は心理学とか仏教の思想、禅の思想をたくさん勉強してきたけど、宗教とかそういうものではないんです。自分にとってクラリネットはツールであって目的ではない。演奏したら注目を集めることはできるかもしれない。でもそれは「注目」でしかなくて、本質ではないんです。コンサートでもレッスンでもYouTubeでも、自分の役割は自分が人生で乗り越えてきたこと、それを通して学んだことをみんなに伝えることだし、その本質的な目的のツールとしてクラリネットがあることを忘れたくないと思っています。

 

自由学園での特別なコンサートを体験して以来、ずっと聞いてみたいと思っていた芸術家コハーン・イシュトヴァーンのビジョンと哲学を今回のインタビューで明らかにすることができた。未曾有のパンデミックの緊迫のなかで心が少しずつ壊れかけていたとき、コハーンが創り出した音楽体験、幻想的な時間と空間は、自分のなかで良いインパクトとなり、それは今でも確実に残り続けている。それがこれほどの深い思想と哲学に支えられたものだったとは、その時はまだ想像もできなかった。コハーン・イシュトヴァーンは大きな存在だ。とてつもなく大きな芸術家である。彼はこれからも日本のクラシック音楽界にポジティブな影響を与え続けると思うし、私たちが想像もつかないような音楽世界を創造し続けるだろう。

 

コハーン・イシュトヴァーン István Kohán
ハンガリー出身のクラリネット奏者コハーンは、今日の管楽器ソリストの中で最も注目度の高い奏者の一人である。12歳でバルトーク音楽院(高等学校)英才教育コースに入学し、リスト音楽院を経て2013年に活動拠点を日本に移した。同年第11回東京音楽コンクール第1 及び聴衆賞受賞し、音楽家としての道を歩き始めた。2015年には日本で最も権威のあるコンクール第84回日本音楽コンクールにて第1位及び岩谷賞(聴衆賞)E.ナカミチ賞を受賞するなど、この数年で15のコンクールで24もの賞を受賞してる。国内外の数々のオーケストラやアーティストとも共演を重ねる。コンサートや演奏活動に加え、東京音楽大学にて講師として教鞭をとっている。「コハーン・メソッド」という自身の指導方法を確立し、若手音楽家のサポートに情熱を注いでいる。
【オフィシャルサイト】
https://ja.istvankohan.com
【公式YouTubeチャンネル】
https://www.youtube.com/user/IstvanKohan/featured

公演情報
コハーン クラリネットリサイタル
7月8日(木)19:00
王子ホール
入場無料(要予約)
嘉屋 翔太[ピアノ]
ブラームス:クラリネット・ソナタ第1番 へ短調 Op.120-1
フォーレ:夢のあとに
ガーシュウィン=コハーン:ラプソディ・イン・ブルー ほか
【公演情報ページ】
https://www.imusic-apf.org/2021-7-8%E3%80%80コハーン-クラリネット・リサイタル%E3%80%80-心満/

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