<Artist Interview>
コハーン・イシュトヴァーン
クラリネットの求道者 【前編】
text by 八木宏之
cover photo by Lakeshore Music
ハンガリー出身で日本を拠点に活躍するクラリネット奏者、コハーン・イシュトヴァーンを一言で言い表すならば「総合芸術家」だろう。卓越したクラリネットの演奏はもちろんのこと、演奏会では作曲家として自作自演も披露し、ナビゲーターとして聴衆に自らの言葉で語りかける。また自身の演奏を洗練された映像作品に仕上げてYouTubeで発信し、その技術と才能を用いて同世代の演奏家の発信にも尽力する(田原綾子のインタビュー後編で紹介した《さくら》の演奏映像はコハーンの作品のひとつ)。クラリネット奏者、作曲家、ナビゲーター、映像作家、写真家。コハーンの才能は多岐にわたり、それら全てが絡みあって見事な花を咲かせているのを目の当たりにすると、「総合芸術家」という言葉しか思いつかないのだ。
コハーンの音楽には泉から水が溢れ出るかのような感情表出の豊かさがあるが、 多彩な音色のパレットと圧倒的なテクニックによって、その演奏は極めて解像度が高く、構築的でもある。プーランクもブラームスもハンガリーの音楽も、最初の1音で一瞬にしてコハーンの世界へと引き込まれていき、つい先ほどまでの世界と切り離されたかのような錯覚に陥る。自分と歳の変わらないこの超越した芸術家は、これまでどんなことを考えてきたのか、そしていま何を思い、どこへ向かっているのか。彼に直接問いかけてみたくなり、芸術家コハーンの実像に迫ってみたら、想像をはるかに超える答えが返ってきた。
父の背中を見てクラリネットの道へ
――コハーンさんはハンガリーの音楽家ファミリーに生まれたとうかがいました。音楽やクラリネットとの出会いはどんなものだったのでしょうか?
父はクラリネット奏者、母はフルート奏者で、両親とも音楽学校で教えたり、オーケストラで演奏したりしていました。でも朝から晩まで音楽漬けというタイプではなく、生活の中で音楽とそれ以外の時間のバランスを大切にしている家族でした。今、自分も大人になって、自分の家族を持って、それがとても良い音楽環境、家庭環境だったとわかるようになりました。私の両親のように音楽と向き合う時間と家族と過ごす時間のバランスに気を使うことはとても健康的で自然な環境だと思います。
――そうした環境の中で、お父さんの楽器クラリネットを選ばれたのですね。
あまり深く考えてクラリネットを選んだわけではなくて、子供の時は父のやっていることがなんでもカッコいいと思えて、それで父の真似をするように8歳から少しずつクラリネットを始めました。その前に6歳くらいからリコーダーを祖父や母と一緒に勉強したりしていました。
――そのあとはクラリネットに夢中になっていった?
正直小学生のころは何回もやめたいと思いました。最初はそんなに真剣ではなかったし、練習は好きではなかったので(笑)。毎週土曜日に父のクラリネットのレッスンがあったけど、父のほかの生徒たちと遊ぶことの方が楽しみな、そういうところはごく普通の子供だったと思います。
――音楽家になろうと決心したのは何歳くらいの頃だったのでしょう?
ハンガリーでは大学で勉強する人がまだそんなに多くなかったんです。だから高校進学の頃になると、みんな自分の将来の仕事について真剣に考えなくてはいけません。そんななかで、自分は音楽家を職業に選んで、音楽高校に進むことにしました。日本の音楽高校とは違って、ハンガリーの音楽高校は職業訓練として音楽家を養成するというカラーが強いので、音楽高校で勉強した人はほとんどがプロの音楽家になります。同級生はみんなプロの音楽家になりました。
――日本の音楽高校とは雰囲気が少し違うのですね。日本の音楽高校や音楽大学はプロ養成学校というよりもアカデミックに音楽と向き合う場所で、その教育の結果として、その中からプロが出てくるという感じです。
日本の音楽高校、音楽大学では、楽器を勉強した後、演奏家ではなく音楽に関係するいろいろな職業に就く人がたくさんいますよね?これは本当に素晴らしいことだと思います。音楽を仕事としてではなく、本質的に集中して勉強して、その後に演奏家以外のいろいろな選択肢がある日本のシステムを僕は素晴らしいと思っています。
僕は音楽高校を卒業したあとにリスト音楽院に進学しましたが、これはハンガリー、ブダペストの音楽家の典型的なコースです。これには良い面と悪い面があると思います。僕は小学生の時から、なんとなく自分の人生のキャリアがイメージできました。そしてそのイメージ通りに歩みました。もちろん音楽教育、クラリネットの勉強という点ではとても合理的です。でももし、そのキャリアの途中で壁にぶつかったら、例えば学校や先生と合わなかったら、受験に失敗したら、コンクールで良い成績を収められなかったら、オーケストラのオーディションに通らなかったら、自信を失って人生の迷子になってしまいます。うまくいかなかった時に演奏家以外の人生をイメージするのがとても難しくなってしまう。でも日本では演奏家以外の音楽との向き合い方、関わり方が自然と存在している。だから日本のシステムと環境は優れていると思うのです。
妻との出会い
〜ハンガリーから日本へ〜
――ブダペストの名門、リスト音楽院で学ばれたのち、日本へ活動拠点を移されたのは日本人の奥様と出会ったことがきっかけだとうかがいました。奥様と出会われるまで、また日本に来るまで、日本についてはどんな印象をお持ちでしたか?
リスト音楽院で、留学生だった妻(クラリネット奏者の鈴木玲子さん)と出会い、21歳の時ハンガリーで結婚しました。僕の人生では、いつも音楽のキャリアより、プライベートの方が大切です。どうやったら彼女とずっと一緒にいられるかを考えて、23歳の時日本へ行く決断をしました。日本に来る前は妻の生まれた国という以上の知識はなかったから、日本へ行ったことのない一般的な外国人と同じように「日本=ハイテクの国」というステレオタイプなイメージしか持っていませんでした。
――実際に来日してみて、日本で音楽家としての生活をスタートさせて、いかがでしたか?
日本に来てすぐに、東京音楽コンクールで優勝して、そのあともいくつかのコンクールで立て続けに優勝することができて、それは本当にラッキーでした。自分は子供の時からクラリネットのソリストになりたかった。プロのクラリネット奏者のキャリアでは、オーケストラに入ることが一般的です。これまでも何度も、クラリネットのソリストは難しい、オーケストラに入ることを目指した方が良い、と言われてきました。オーケストラに入った方が良いかなと思ったこともありました。でも、やっぱりソリストになりたいという気持ちは捨てきれなかった。そんななか、日本のコンクールで優勝して、ソリストとしてのキャリアをスタートできたことは、本当にラッキーだったと思います。日本に来て間もない頃、ハンガリーの音楽学校で一緒に勉強した友人の金子三勇士君が、ソリストの道を諦めないように背中を押してくれたのも大きかったですね。
――来日後数年間、東京音楽大学大学院でも研鑽を積まれていますね。日本の音楽大学での勉強や学生生活はどんなものだったでしょう?
日本のクラシック音楽文化と日本の音楽大学文化は分けて考える必要があると思います。日本にはパッションにあふれた素晴らしい音楽家がたくさんいます。と同時に、日本の音楽大学は受験の時も、入学した後も、とにかくライバルの人数が多いから、学生まではテクニックに主眼を置くことが多いように思います。そういう環境の中で高い技術を身につけた日本人の若い演奏家がヨーロッパへ行くと、しばしば「メトロノームみたい」と言われてしまいます。もちろんこれはヨーロッパ人の日本人演奏家に対するネガティブな思い込み、ステレオタイプだし、日本人の若い演奏家みんながそうなわけじゃない。でも日本人の演奏家に対してそういうイメージがあるのは、日本の音楽大学の環境によるものが大きいと思います。職業選択や音楽との関わり方が柔軟なことが日本の音大の良い点だとすると、これは少しネガティブな点かもしれません。
――日本人の真面目で正確さを好む性質も関係しているのかもしれませんね。
さっき、日本の音楽大学のテクニックを重視し過ぎる雰囲気をネガティブに話したけれど、もちろんそこには良い側面もあります。僕がリスト音楽院に入った頃は、楽譜に対してなんとなく向き合っているというか、ぼんやりとしたイメージで吹いていた気がします。でも日本の音大生は楽譜を真面目に正確に読み込んで演奏する。あと、ヨーロッパでは最初のリハーサルに完璧な準備を整えて来る人はあまりいないけど、日本人は必ず完璧な準備をしてからリハーサルに臨みます。これは日本人の真面目さの良い側面だと思うし、昔はこうした文化の違いで妻とよくケンカをしました(笑)。
カルチャーショックのなかで見つめ続けた本質
――コンクールでも日本とハンガリーの違いなどはありましたか?日本の同世代の演奏家たちにどんなことを感じられたでしょう?
日本に来た頃はカルチャーショックの毎日でした。日本とハンガリーでは違うことばかりです。僕はどんなことでも、良い悪い、白い黒い、と単純化したくないと思っています。それを断ってからお話しすると、例えば日本人のコンクールに対する捉え方に驚きました。日本人はよく「学ぶためにコンクールを受ける」と言います。ハンガリーでそんなことを言う人はほとんどいないと思います。ハンガリーはソビエト連邦の崩壊まで共産圏の国でした。僕の親たちの世代まで、音楽とスポーツで良い成績を収める、コンクールで優勝するというのは、自由になるための数少ない方法でした。コンクールで優勝すれば、外国へ行って、自由を手にすることができた。そのカルチャーは民主化した今でもまだ残っています。だから「勉強のためにコンクールを受ける」というハンガリー人はまずいません。みんな優勝するためにコンクールを受ける。優勝という結果が全てです。2位では意味がないのです。このハンガリーのカルチャーは良い面と悪い面があるけど、僕には大きなカルチャーショックでした。
――それははとても興味深い洞察だと思います。たしかに日本人はプロセスを大切にすることを美徳とする傾向がありますね。でももしかしたらみんな内心は優勝したいのかもしれない(笑)。でもそれを表には出さない文化ですよね。
そうそう。だから日本のカルチャーは難しい。あともうひとつ、これは音楽界だけじゃないし、日本だけじゃないと思うけど、「何を言うか」よりも「誰が言うか」をあまりにも重視し過ぎる傾向は感じます。権威ある人の言葉は大事にするけど、「何を言うか」、「何をするか」という本質の部分に目を向ける人はそんなに多くない。
――それも鋭い指摘ですね。人間の性(さが)なのかもしれないけど、権威主義はいつも私たちの心の中に潜んでいると思います。コハーンさんは今、大学でクラリネットを教える立場ですが、日本人の学生たちを指導していて、どんなことを感じますか?
これまでの話とは矛盾するようだけど、人間はいつも人間でしかないと思います。日本人、ヨーロッパ人である前にまず人間です。確かに色々な国でカルチャーの違いはあります。例えば、ボディタッチが好きな文化と嫌いな文化がありますよね?でも人間は誰でもお母さんから生まれてきて、お母さんに触られるのは好きなはずです。それが人間のベースプログラム。でもその後で、文化の影響とか、環境とか、嫌な体験とか、いろいろなことが積み重なって、ボディタッチを避けるようになると思うんです。子供は日本でもヨーロッパでも馬鹿騒ぎをするし、いたずらをするのが好きです。日本の子供、ハンガリーの子供、という違いはそんなにない。音大生も同じです。
確かに、日本に来た時、日本の音大生たちはみんな自信が無いように見えました。でも世界中の音大でマスタークラスをするようになって、色々な国の音大生を見ていると、どの国でも音大生はみんな自信がなさそうに見えることに気が付いたんです。音大生というのはみんな自信がない状態だし、日本の音大生の特徴というのはないと思います。そこに異なるカルチャーとシステムがあるだけです。
――コハーンさんの今のお話を聞いて、はっとしました。音楽と向き合う若者の心境に国や文化による違いはないのかもしれませんね。
もちろん日本人の自分を出さないことを美徳とする文化の影響はあるし、その文化のなかで、どうやって自分の心を開いて良いかわからなくなって、自分がなにを感じているのかもわからなくなってしまう、そういう心の問題を抱えている人もいると思います。 僕はレッスンをする時、上手くなることももちろん大事だし、生徒が上手くなるように教えるけれど、本当に一番大事なのは技術じゃなくて、心を自由にすることだと思っています。教え始めた頃は、生徒が大学4年間で学んだあと、プロとして仕事ができるように考えて教えていました。でも音楽はそれだけじゃない。まずは心を自由にしてあげることが何より大切だと気付いたんです。いま自分のレッスンで目指していることは、最後には生徒たちに僕が必要なくなること、自分で考えて、感じて、進むことができるように導いてあげることです。
ここまでコハーン・イシュトヴァーンの歩んだハンガリー、そして日本での道のりに迫ってきた。23歳で祖国を離れ、遠い日本で音楽家として生きる決断をしたコハーンの眼に映る日本のクラシック音楽界の姿には、多くの発見があった。カルチャーショックに戸惑いながらも、コハーンは冷静に自分を見失うことなく、クラリネットのソリストとして、ひとりの芸術家として、日本のクラシック音楽界に大きなインパクトを残していく。後編では、そんなコハーンの音楽の奥に秘められた思想をより深く掘り下げる。
後編へつづく
コハーン・イシュトヴァーン István Kohán
ハンガリー出身のクラリネット奏者コハーンは、今日の管楽器ソリストの中で最も注目度の高い奏者の一人である。12歳でバルトーク音楽院(高等学校)英才教育コースに入学し、リスト音楽院を経て2013年に活動拠点を日本に移した。同年第11回東京音楽コンクール第1位 及び聴衆賞受賞し、音楽家としての道を歩き始めた。2015年には日本で最も権威のあるコンクール第84回日本音楽コンクールにて第1位及び岩谷賞(聴衆賞)、E.ナカミチ賞を受賞するなど、この数年で15のコンクールで24もの賞を受賞してる。国内外の数々のオーケストラやアーティストとも共演を重ねる。コンサートや演奏活動に加え、東京音楽大学にて講師として教鞭をとっている。「コハーン・メソッド」という自身の指導方法を確立し、若手音楽家のサポートに情熱を注いでいる。
【オフィシャルサイト】
https://ja.istvankohan.com
【公式YouTubeチャンネル】
https://www.youtube.com/user/IstvanKohan/featured
公演情報
コハーン クラリネットリサイタル
7月8日(木)19:00
王子ホール
入場無料(要予約)
嘉屋 翔太[ピアノ]
ブラームス:クラリネット・ソナタ第1番 へ短調 Op.120-1
フォーレ:夢のあとに
ガーシュウィン=コハーン:ラプソディ・イン・ブルー ほか
【公演情報ページ】
https://www.imusic-apf.org/2021-7-8%E3%80%80コハーン-クラリネット・リサイタル%E3%80%80-心満/