<Artist Interview>
ベンヤミン・アップル
好奇心を持ち続けて【後編】
text by 本田裕暉
cover photo by David Ruano
ドイツ・レーゲンスブルク出身のバリトン歌手、ベンヤミン・アップルは自身が最も得意とする歌曲の分野を中心に多彩な演奏・録音活動を繰り広げている。CDのリリースも多く、バッハやシューベルト、ブラームスらの楽曲はもちろんのこと、ヴォルフの管弦楽伴奏歌曲集(CPO、555380)や、ドイツの作曲家ハンス・ゾマーの管弦楽伴奏付き歌曲集(PentaTone、PTC5187023)の録音にも取り組むなど、他ではなかなか聴けない作品を複数手掛けている点は特筆すべきだろう。インタヴューの後編では、そうした興味深い取り組みの一つに数えられる『フランツ・シューベルト:オーケストラ伴奏による歌曲集』の話題からスタートし、シューベルト作品の魅力やアップルが愛してやまない「リート」への想いについて、じっくりと伺った。
管弦楽伴奏版の魅力
――2023年10月には『フランツ・シューベルト:オーケストラ伴奏による歌曲集』(BR Klassik、900346)もリリースされましたね。あえて管弦楽伴奏版を集めたアルバムを作ろうと考えられたのは何故ですか?
じつは私は、こうした他の作曲家がオーケストレーションした編曲版も大好きなんです。「違う次元」が加わるところが面白いのですよね。もちろんオリジナルはピアノ伴奏版であって、その代わりになるわけではないのですが、しかしオーケストラが伴奏することによって幅が広がるなと感じています。原曲とはまた異なった多様な解釈が生まれるのです。
加えて、管弦楽伴奏版には、普段とは違った聴衆を呼び込むことができるという側面もあります。リートのコンサートに足を運ぶファンは本当に数が少ないのです。オーケストラの演奏会を聴きに行く人は歌劇場には行くかもしれませんが、リートのリサイタルにはなかなか来てくれません。ですから、オーケストラの力を借りることによって、そういった方々にリートの魅力を再発見していただきたいなと思ったのです。そして、歌曲のリサイタルにもぜひ来ていただきたい。そういう想いも込められています。
――アルバム冒頭の〈夕星〉からなんとも美しい響きで、管弦楽伴奏版ならではの広がりも感じられました。オーケストラの伴奏で歌うときと、ピアノ伴奏のときとで意識を変えていることなどはあるのでしょうか?
私にはこの声しかありませんから、それを使うしかないのですけれども、やはり考え方が少し違うかもしれませんね。ピアノ伴奏で歌うのは、例えて言うならば水彩画を描くようなものです。紙の上に非常に細かく線を引き、繊細な描き方をする。そして色も淡いパステル調が多い。それに対してオーケストラ伴奏版の場合は、いわばキャンバスに大きなブラシを使って描く油絵なのです。そういう感覚の違いはありますね。
――アルバム最後のマックス・レーガー編〈魔王〉などは、まさにオーケストラ伴奏版ならではの「色の強さ」が感じられ、そこではアップルさんの表現の瞬発力もまた輝いていましたね。
〈魔王〉は特にオーケストラに合っていますね。もともと非常にドラマティックで刺激的な作品ですから。この曲には、他にも7~8人の作曲家たちが管弦楽伴奏版を作っていたはずです。
――録音される中で、オーケストレーションの点で特に凄いと感じられた作曲家や曲はありましたか?
アントン・ウェーベルンによる《美しき水車小屋の娘》の〈涙の雨〉の編曲は小さな編成による室内楽的な表現が素敵ですね。レーガーが手掛けた編曲も素晴らしく、複数曲収録していますが、中でも〈万霊節のための連祷〉は美しく、心を揺さぶられます。ただ、「この作曲家が特別に凄い」ということはなく、編曲者と曲との相性が重要だと感じました。
ちなみに、今回ミュンヘン放送管弦楽団を指揮してくださったのはオスカー・ヨッケルという1995年生まれの若い指揮者です。ベルリン・フィルの首席指揮者キリル・ペトレンコのアシスタントを務めている方でして、今後は彼も頭角を現してくると思います。
最も感動する作曲家シューベルト
――今回の管弦楽伴奏版歌曲集に加え、2022年には《冬の旅》(ALPHA854)もリリースされているなど、アップルさんはシューベルト作品の演奏や録音に定期的に取り組まれていますね。
シューベルトは私の関わる全てのプロジェクトにおいて中心的な存在となっています。私はシューベルトのことを最も偉大な作曲家だと思っているんです。彼はメロディを生むという点において尽きることのない泉のような人で、まさしく「巨匠」と言えるような作曲家です。彼は大衆に忖度して曲を書くようなことはしていません。彼の内から湧き出る、彼の心から生まれている曲ばかりなのです。表現方法もとても誠実で、まるで友だちのように語りかけてくれる。だから、私が最も感動する作曲家でもあるのです。私はシューベルトの調性の扱い方が大好きなんですが、彼の長調の作品は、短調の作品よりもさらに深い悲哀を感じさせることがあります。テクストに対するこだわりも本当に素晴らしいです。
リートへの尽きせぬ愛
――アップルさんは以前、月刊誌『レコード芸術』(2019年2月号)のインタヴュー記事で「リートが私にとって一番核となるジャンル」だと仰っていましたね。その理由やリートの魅力について教えてください。
私は子どものときに、自分が歌っている曲がいわゆる芸術歌曲と呼ばれるものだとは意識していませんでした。祖父とよく歌っていた〈菩提樹〉などは、ただの民謡だと思っていたくらいです。そうした楽曲たちを芸術作品だと意識したのは、学校での音楽の授業においてでした。13~14歳のころだったでしょうか。そのときに、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの歌う《冬の旅》の録音を聴いたのですが、自分の心がひらけていくのが分かりました。当時はシューベルトという作曲家については全然知らなかったわけですが、でも、共感したんです。「自分に語りかけてくる音楽だ」と、そんな受け止め方をしていたことを覚えています。
その後、歌のレッスンを受けはじめたころ、先生に何を歌いたいのか訊かれたことがありまして、私は「リートを歌いたい」と答えました。すると「リートなんか歌っていたらいいキャリアを築いて、お金を儲けることはできないよ」と言われたのですが、そんなものはどうでもよいことでした。それだけ深い繋がりを感じられるジャンルだったのです。
リートの世界ではプログラムの選曲も含めて自分が指揮者ですし、ステージマネージャーでもあります。そして芸術的なプランニングも自分でします。それなりの責任も伴いますが、本当に自由にできるんです。もちろんオペラやオラトリオも大好きですが、リートの世界ならではの「色々な要素を組み合わせる自由」は、かけがえのないものだと思っています。
――私も、リートというジャンルは心の最深部に染みてくるような大変味わい深い音楽だと感じていまして、折に触れて愛聴しているのですが、しかし、やはりオーケストラを聴く人に比べると、リートを聴くファンはまだまだ少ないように思います。普段リートを聴かない日本の音楽ファンに対して、アップルさんならばどうアプローチしますか?
やはり、それはなかなか難しい問題だと思いますね。というのも歌曲の経験には大きな個人差があるからです。よく知らない「歌曲」というものに対して、聴衆の皆さまが恐れを抱いているということもあるのではないでしょうか。確かにリートというジャンルは、ホールで気軽に聴いて終演後は飲みにでも行こうか、となるような世界ではありませんから。
リートにはまず詩があるわけですが、やはりその詩の言語を話さない方にとっては「言語の壁」があります。しかし、自分の頭と心とをオープンにするとたくさんの発見に出会うことができるジャンルでもあります。リートは自らの内なる感情を見つめ直し、自分自身を見つけるためのきっかけとなる可能性も秘めていますし、感情的にも知的にも多くの方に共感いただけるものだと思っています。
リートの演奏会は、歌手と聴衆との直接的なコミュニケーションであり、それはもはや「対話」です。ポップソングに非常に近いところもありますよね。歌われる内容は愛であったり、愛を失ったときの悲しみであったり――今の若い方たちでも十分に共感を持てる内容です。ただ、そういうものが存在していることが知られていないだけなのですよね。
また、これは我々歌い手のせいでもあるのですが、知的な面にあまりにフォーカスしすぎるのも問題だと思っています。例えば、医者になるには専門的な知識が必要ですよね。でも、病院で患者さんに説明するときには、わかりやすい言葉で伝えなくてはいけません。同様に私たちリート歌手も楽曲の背景知識など知らなくてはならないことがたくさんあるわけですが、しかし聴き手に通じるようなかたちで訴えかけなくてはなりません。「感情」の点でお客様と繋がりをもつことが重要なのです。
それから、もちろんリートを聴く上ではテクストを一言一句全て理解できるのが理想ではあるのですが、しかし自分の経験を振り返ってみると、コンサートを聴きに行ったときにどういう体験をしたのかを全て完璧に覚えているわけではないのですよね。覚えているのは、そのときの雰囲気や感覚です。そうした「感覚」を共有することこそが、音楽を分かち合うということなのではないでしょうか。ホールには、言葉では説明できないそのコンサートの「空気」というものがあります。そして、演奏家も聴衆も自分の毛穴を全部開いてその「空気」を吸収しようとする。するとその経験が永遠になるわけです。ですから、私はいつもそうした感覚を追求しようと思っています。
愛する人たちとの時間と、好奇心を大切に
――ありがとうございます。最後に、今後のご予定や目標について教えてください。
まず仕事の面で言いますと、指揮にも力を入れていきたいです。2年ほど前からオーケストラを指揮していまして、2025年にはロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団でのデビューが予定されています(※2025年1月11日にヘンデルのオラトリオ《メサイア》を指揮)。
その他の夢をいくつか挙げますと、まずはこの声をできるだけ長く維持できるように、と願っています。それから、リートの人気をどんどん高めること。大好きな国である日本に定期的に戻ってくること。そして、私がインスピレーションを感じられるようなステージに上がり続けたいですね。
プライヴェート面では、これはプロフェッショナルの方とは真逆に近いのですが、仕事とプライヴェートのバランスを保ちたいと思っています。私はディートリヒ・フィッシャー=ディースカウの人生の最期の数週間をご一緒させていただいたのですが、そのときに彼が哀しげに語っていたのは、プライヴェートを全然大事にしてこなかった、ということでした。歳をとるとともにプロの演奏家としての生活はだんだん萎んでいく。けれども、プライヴェートの時間があるかというとそれもない、と。そのような過ちは、私は繰り返したくないなと感じました。自分の愛する人たちともっと時間を共にするべきだと思っています。大切な人たちもまた、だんだんと年老いていきます。そういう人たちと一緒に色々な想い出を作れなかった、というような後悔はしたくないですね。それから、やはり好奇心をずっと持ち続けていきたいです。人間にとって最も大切なのは、好奇心をもって色々なことを学んでいきたいという気持ちだと思っています。
※このインタビューは2023年11月の来日時に行われたものです。
公演情報
リサイタル『ベンヤミン・アップル 君を愛す』
2026年1月23日(金)19:00
兵庫県立芸術文化センター 神戸女学院小ホールベンヤミン・アップル(バリトン)
務川慧悟(ピアノ)ベートーヴェン:《アデライーデ》作品46
ベートーヴェン:《君を愛す》WoO.123
シューベルト:《セレナード》D957/4
シューベルト:《魔王》D328 ほか公演詳細:https://www1.gcenter-hyogo.jp/contents_parts/ConcertDetail.aspx?kid=5053513322&sid=0000000001
札幌交響楽団 第674回定期演奏会
2026年1月31日(土)17:00/2月1日(日)13:00
札幌コンサートホール Kitara札幌交響楽団 東京公演 2026
2026年2月5日(木)19:00
サントリーホールエリアス・グランディ(指揮)
ベンヤミン・アップル(バリトン)武満徹:《ア・ウェイ・ア・ローン II》
マーラー:《さすらう若人の歌》
R. シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》公演詳細(定期演奏会):https://www.sso.or.jp/concerts/2026/01/-674/
公演詳細(東京公演):https://www.sso.or.jp/concerts/2026/02/tokyo2026/CD情報
『ベンヤミン・アップルのクリスマス・アルバム』
ジョン・フランシス・ウェイド/デイヴィッド・ウィルコック編:《神の御子は今宵しも(おお、すべての忠実な崇拝者よ)》
メンデルスゾーン:オラトリオ《エリア》作品70より〈そう、たとえ山々が崩れ去り〉
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:《クリスマス・オラトリオ》BWV 248より〈偉大なる主、おお力ある王よ〉〈あなたの飼葉桶のそばに控えております〉
ジョン・ラター:《クリスマスの子守歌》《聖ヨセフのキャロル》
フンパーディンク:歌劇《ヘンゼルとグレーテル》より〈夕べの祈り〉
ペーター・コルネリウス:《東方の三賢者》作品8-3
フランツ・クサヴァー・グルーバー:《きよしこの夜》 ほかベンヤミン・アップル(バリトン)
レーゲンスブルク大聖堂少年合唱団(合唱指揮:クリスティアン・ハイス)
イリアス・グラウ(ボーイソプラノ)
ハンス・ベルガー(ツィター)
エーデルトラウト・アップル(ギター)
ヨハンネス・ベルガー(コントラバス)
フローリアン・ヘルガート(指揮、シュタイアー式アコーディオン)ミュンヘン放送管弦楽団録音:2024年1月19、20日、4月10~12日 レーゲンスブルク ヴォルフガングザール、ミュンヘン バイエルン放送第1スタジオ
ナクソス・ジャパン株式会社
https://ml.naxos.jp/album/ALPHA10792024年10月発売のクリスマス・アルバム。アップル自身が少年時代に所属していたレーゲンスブルク大聖堂少年合唱団との共演による《きよしこの夜》をはじめ、クリスマスにまつわる名品が収められている。プレトリウス(1571~1621)からクリストフ・イスラエル(1964~)まで、幅広い年代の作品が集められたこだわりの選曲が光る1枚。
ベンヤミン・アップル Benjamin Appl
ドイツ歌曲史上に燦然と輝くディートリヒ・フィッシャー=ディースカウから寵愛を受けた最後の愛弟子。低音から高音まで魂がこもった印象的な柔らかい響きを持つ歌声は世界の主要コンサートホール・音楽祭で聴衆を魅了し、2014年から次々に新人賞にあたるさまざまな賞を獲得。2017年ソニー・クラシカルと専属契約。2018年にはヤルヴィ指揮NHK交響楽団との共演で日本デビューを果たす。彗星の如く現れた『いま絶対に聴くべき声楽家』である。マネジメント(クリスタル・アーツ)アーティストページ:https://www.crystalarts.jp/artist/appl/
ベンヤミン・アップル公式ホームページ:https://www.benjaminappl.de執筆者:本田裕暉
1995年生まれ。青山学院大学大学院文学研究科比較芸術学専攻博士前期課程修了。主な研究対象は19世紀ドイツの音楽史、とくにヨハネス・ブラームス、マックス・ブルッフらの器楽作品。2018年より音楽之友社『レコード芸術』誌に定期的に寄稿。CDライナーノーツ、演奏会プログラム等に多数執筆している。
X(旧Twitter):@H_R_Honda※この記事は、これからの時代に活躍してほしい音楽評論家やライターを広くご紹介する、FREUDEの「執筆者応援プロジェクト」の一環として、一般社団法人ビトゥイン・ミュージック・タイズの助成を受けて制作されています。